昨日の続きです。
一層の板東三十三霊場、二層の秩父三十四霊場、三層の西国三十三霊場のご本尊を百体拝み、これで“日本百観音”を踏破したことに・・・なったりは・・・しないか。
まあ、本物の百観音を参拝することは、むかしの人も、今の人でも、かなりムズカシイ一大事業ですから、お寺一箇所で、お堂を一層から三層まで上り下りして済ます、こう云う、手っ取り早い方法は、とても便利で有り難いことなのです。
まあ、それでも、年中、休み無く、毎日、参拝できる訳ではなく、年一回の観音開帳の日に限定しているところが“味噌・醤油・味の素”なのでしょう。
百観音のお詣りを済ませ、清々しい気持ちで、“正面テラス?”より下界の景色を眺めます。鐘楼越しの木立の隙間から、利根川の流れがほんの少しだけ望めます。
方角的には富士山も見える筈ですが、ビルに阻まれているようです。もしかして、いつか、そのうち“東京スカイツリー”が見えるかも知れません。
長禅寺三世堂のテラスから眺める“東京スカイツリー”は、かなり絵になると思います。
こちら境内の眺めもなかなかです。
正面テラス以外の三方は雨戸が閉まり、外を眺めることはできません。でも、しかし、雨戸をそっと、そっと、開けて、見たのです。
まあ、こんな感じと、
こんな感じと、
こんな感じでした。
遠くは見えないので、近くの手摺りに眼を落とすと、手摺りの“繋ぎ隠し兼飾り金具”を見ると、こんな物にも寄進者の名前が刻まれているのを発見。
“取手宿”は判読できたのですが、名前までは判りませんでした。
宝暦13年(1763年)の昔から、ここにずっとこうして二百四十有余年、人の眼に触れることも無く、風雨に打たれ輝きを失い、忘れ去られた金具さんです。
今でもそれなりに役割を果たしているのです。昔は、ピッカ、ピッカに輝く銅板の飾り金具だったのでしょう。まあ、これからも、ここでしっかり頑張って下さい。あなたのことは忘れませんから。
日陰で湿った処で外を鑑賞していたら、とても感傷的になってしまいました。そろそろ下に降りることにします。
傾斜きついハシゴ段は、上りよりも下りがたいへんなのです。小太りのおばさんが“コリャ大変だわァ、私は後ろ向き降りるわァ”と、元気な声でしゃべりつつ降りて行きました。
こちらのオジサンは未だ前向きです。私も当然前向き降りです。
一層に降り出口に来ると、靴は入り口にあり、出口から入り口に靴を取りに行くには、柵を乗り越えるか、入り口まで土間を裸足で歩くか二つに一つです。このオジサンは奥さんが土間を歩いて靴を持って来てくれたのです。
私は当然、柵を跨いで一方通行を入り口方向に逆走し靴を履きました。入り口付近をよく見ると、こんな注意書きの“貼り紙”があったのです。
先客の靴が入り口に並んでいたので、貼り紙に目もくれず靴を脱ぎ、ここに置いていったのです。一人がすると、その後の人も、またその後から来た人も、何も見ず、何も考えず、前例に従ってしまうのでした。
なかには、しっかり貼り紙を読んで出口にちゃんと移動させている方も居られました。あんた達はエライ!
自分のミスを棚に上げ、う~ん。もう少し簡単明瞭に“靴はアッチの出口→”と書いてあった方が・・・・・・、何てことを考えつつ外に出たのです。
飾り金具と云い、靴と云い、観音様のお陰で、最後に、いろいろと考えさせられる、さざえ堂参拝でした。
もう少し、境内をぶらつきます。
それでは、また来週。