歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“下山事件” 追及する側の思惑は?

2008年09月16日 | 下山事件
昨日の続きです。

私・・・では、今日は、“占領軍犯行説”の政治的意味を考えたいと思います。

B氏・・・何かムズカシクなりそう。

私・・・そんな事はありません。いたって単純明快なのです。それでは、え~と。占領軍の情報機関による謀略説は、松本清張が最初に発表しました。

B氏・・・「日本の黒い霧」だよね。むかし、文庫本で読んだ事がある。

私・・・「日本の黒い霧」は単行本として、事件後、13年経った1962年に出版されている。1951年に講和条約が締結され、日本の主権が回復して11年後だった。

B氏・・・日本に主権の無い占領状態では、占領軍の犯行なんて事は、云えない、書けない、聞こえてこない状態だった。

私・・・そうです。兎に角、戦争に負け占領されていたわけだから、占領軍の謀略なんて事は、公にできなかった。

B氏・・・占領中にそんな事を云ったり、書いたりしたらホント“消され”たかもしれないね。

私・・・つい最近まで、それなりに、何かを知っていそうな関係者や、事件取材をする側からも、身の危険を感じる人が居るようです。そんな事が“下山事件本”に書かれているね。

本人は真剣なんだろうけど、第三者からすると、かなり、たわいも無い話だったりして、単なる過剰反応にしか見えないけどね。

B氏・・・キャノン機関の幻に怯えているわけね。

私・・・それは、それで、一つの謀略工作であり、占領軍に不利な発言をした者が、命を狙われた“ような情報”を密かに流したり、実際は単なる事故だったものを、恰も謀略工作のように“見せかける情報”を流したりと、いろいろ工作をしている事実は、つい最近まであったと思う。

B氏・・・それって、暴力団なんかが、実態以上に恐怖感を抱かせる手口に似ているな。

私・・・暴力団よりも、情報機関は国家権力を背景にしている分、幻であったとしても、その恐怖感は相当なものなんだろうけど。

このプログも真実迫りつつあるので・・・・・・、もしかして、何か、危険な事が起きたりして・・・・・・。

B氏・・・ナイ。ナイ! それよりも、前回の「占領軍陰謀説の政治的な意味」の話は?

私・・・そうでした。それで松本清張ですが、彼も、そして、“占領軍犯行説”を主張するのは、進歩的と言われる人達とか、左翼と云われる人達が多い。

事件発生直後から、他殺説イコール「共産党犯行説」だった。当然共産党は“自殺説”を主張していた。

それが、講和条約以降、松本清張による「他説説=占領軍説」となる。事件発生時から、他殺説で取材をしていた、朝日新聞記者「矢田貴美雄」も始めは「共産党説」乃至は、ソ連の情報機関説だったらしい。

B氏・・・矢田貴美雄って、そうだったんだ。まぁ、占領期間中だったからな。それで、陰謀説の政治的な意味の方は?

私・・・そうです。これまでにも下山事件の時代背景を話したけど、この事件の発生前は、共産党などの左翼勢力は、国外の共産主義勢力に呼応して、大変な勢いだった。

日本にも共産主義政権の誕生は近い等と、叫ぶ勢力も現れ、9月革命説も一部には云われたりして、世の中は騒然としいてのです。

そんな中での下山事件、三鷹事件、松川事件でした。この一連の事件の後、左翼勢力は世の中の支持を急速に失っていった。

そこで何です。この時期から、戦後の流れが変わったので、下山、三鷹、松川が戦後の重大事件として語られるわけです。

でも、しかし、何です。この“三大謀略事件”により、歴史の流れが変わったと、声を大にして叫ぶ人達の中に、怪しい“思惑”も隠されているのです。

左翼勢力、特に指導的な立場にあった日本共産党は、49年頃から50年代に入って指導部が分裂して機能しなくなった。

一部は武力闘争を叫んで、山の中でゲリラ戦の真似事を始めたりと、メチャクチャの状況に入ってしまったのです。そんな、こんなで、共産党は現実政治への影響力を失っていったわけです。

そして、あの“間違いは絶対に犯さないと自認する”政党ですから、国鉄の“首切り合理化”に対する、敗北の責任は党の方針の誤りではなく、占領軍の謀略が原因であるとしたいのです。

その為には、キャノン機関の役割、組織、活動実体を、実際以上に“大きく見せたい願望”が働いてしまった。

キャノン機関を実体以上に大きく描けば、それに反比例して、共産党の誤りは、実体以上に小さく見えてくるのです。

B氏・・・何か、はなし難しくない。もう少し軽いノリで進めてくれる。それに、今、“蟹工船ブーム”に沸いている共産党に、水を差すような・・・・・・。

私・・・“過去”の共産党の話です。蟹工船ブームに乗って、時期衆議院議員選挙では、それなりに頑張って、予算処置を伴う法律の提案権を持てるよう期待しています。

B氏・・・旨いこと云って取り繕いましたね。

私・・・いえ。そんな事はありません。共産党が一定の議席を持つ事で、いろいろな“歯止め”になります。

B氏・・・“歯止め政党”ですか?(笑)

私・・・え~と。話が少し逸れ気味の傾向にありますので、本筋に戻したいと思います。と、云ったところで、そろそろお時間となりました。一旦、閉めたいと思います。

と、云う事で本日は、この辺でお終いとします。

それでは、また明日。

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“下山事件” キャノン機関はヘボだった!

2008年09月15日 | 下山事件
先週の続きです。

私・・・先週の話をまとめます。

 ①当初は殺害まで計画していなかった結果としての殺害。
 ②占領軍の情報機関と実行組織の共同作戦の可能性
 ③実行犯は「それなりの思想」を持った組織
 ④実行犯が独自の要求を下山に迫った。
 
と云ったところでしょうか。

B氏・・・4項目の説明を詳しくしてもらえる。

私・・・占領軍は下山を脅し、首切り計画の速やかな実行を迫っただけで、殺害まで考えていなかったと思う。

その根拠は、拷問を行っている事実が示している。拷問は本来殺害を目的としていない。何かを自白させるか、考えを変えさせる為の手段です。

B氏・・・実際には、拷問の末に殺してしまった。

私・・・そこなんです。何故に計画の意図を越えた拷問が行われたのか? そこで、実行犯は占領軍の情報機関とは別に、独自の計画と意図を持っていた可能性が出てくるのです。

独自の要求をしたと云う事は、実行犯は単なる下請け機関では無かった事になる。

もう少し進めると、この下山事件は、この組織が“独自に計画実行”した可能性がある。下山が拉致された時点で、占領軍の情報機関が察知し、拉致後に介入した節がある。

B氏・・・かなり大胆な仮説、新説ですねェ~。

私・・・そう。かなり大胆で、且つ、真実に迫っている筈です。兎に角、下山事件は、三鷹、松川と異なり、左翼勢力からの逮捕者が出ていません。

結果として、反共宣伝として使われたのです。三鷹、松川は占領軍が計画し、下山事件は、独自の目的を持った別組織の犯行だと・・・・・・。

B氏・・・逮捕者が出なかった点、拷問の末の殺害、独自の計画と意図、そこから、独自の組織の存在が浮かびあがると・・・・・・、

私・・・それだけでは無くて、事件後に情報機関の・・・・・・、そうでした、以前から、情報機関と云っているのは、いわゆる“キャノン機関”のことなんです。カメラの「キャノン」とは関係ありません。

B氏・・・その程度は知っています。わたしでも、耳にした事があります。

私・・・そうですか。それで、その“キャノン機関”ですが、以前から、私は変だと思っていたのです。

B氏・・・へん? 何が変なの?

私・・・一言で云えば、そんな優秀な組織ではなく、“ヘボ”だと云う事。

B氏・・・ヘボ?とは珍しい。あまり使わない表現ですねェ。

私・・・無能と云うと、何となくそれなりに聞こえてしまうので、より間抜け感を表現するには、“へボ”が適切なのです。“ヘボキュウリ”の“へボ”です。

B氏・・・確かに、かなりの“お間抜け機関”に思えてきます(笑)

私・・・この位、悪く云えば、これまでに固まった世間の評価を、かなり引き下げる効果があると、そう思ったので敢えて、“へボ”を・・・・・・(笑)

下山事件は、占領軍のキャノン機関の謀略だとの仮説に基づき、松本清張から矢田貴美雄、そして、最近の諸永、森、柴田の流れがあるけど、彼らは、キャノン機関を過大評価していると思う。


  【朝日文庫 諸永祐司著 葬られた夏より】

キャノン機関が世に知られるようになったのは、1952年の「鹿地亘監禁事件」で、下山事件から3年後の事です。

これは、作家鹿地亘を1年以上監禁し、スパイになることを強要した事件でした。ある事から世間に監禁の事実が漏れ、「キャノン機関」と言う、情報機関の存在が表面に出てしまった。

これは情報機関としては大失態です。キャノンはその件で解任され、翌年帰国させられている。

B氏・・・それは、かなり“お間抜け”な失態ですね。

私・・・キャノン機関は共産主義勢力からの情報を収集し分析するのが専門で、拉致、監禁、拷問、暗殺等の、“破壊工作は専門外”だっと思う。

後で触れる事になりますが、キャノン自身もその事は、晩年にインタビューで“正直”に語っているのですが、信用されていないのです。

どうしても、聞く方は、陰謀、謀略等のイメージの中で、キャノン機関を暗闇の中心として位置づけたい“願望”が優先するのです。

キャノンもその事を充分承知して、それなりに、その願望に答える言い回しをしたり、謎めいた雰囲気を演出したりして楽しんでいます。

彼にとって、「鹿地亘監禁事件」は忘れてしまいたい過去です。

その事実をうち消すように語られる、戦後謀略事件の影に“キャノン機関有り説”は、彼にとっては、それなりに心地良い響きなのかも知れない。

「鹿地亘監禁事件」は、あくまで、情報収集の為に、鹿地亘をスパイに仕立てようとして起きた事件です。

それにしても、いくら何でも、一年以上も監禁していれば、外部に漏れます。時間の掛け過ぎです。この辺が“ヘボ機関”なわけです。

B氏・・・キャノン機関が“ヘボ”だとすると、謀略説の持つ、戦後政治の暗部を探る“謎解きの魅力”が無くなってしまうねェ。

私・・・そう云うことはあるかも知れない。でも! しかし、魅力が無いとか、面白いとか、つまらないとか、そう云うことは関係ないのです。

真実を追究するのがワタクシの使命なのです!

B氏・・・まぁ。そんな“かっこつける”事はないけどネェ!

私・・・まぁ。そこは、それで、兎に角です。キャノン機関謀略説は、ある意味で非常に政治的な側面が“あった”のです。

キャノン機関が、どうしても有能であっ欲しい意図が、ある時期まで追及する側に働いていたのです。

B氏・・・突然、何にそれ?

私・・・突然ですが、この件の話は次回に致します。


それでは、また明日。


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“下山事件” 結果としての殺害

2008年09月12日 | 下山事件
昨日の続きです。

私・・・先ず、これまで話してきた内容を整理します。

 ①下山事件は他殺である。
 ②他殺とした理由は「死後轢断」の古畑鑑定に依る。
 ③犯行には米軍情報機関が関与している。
 ④結果としての殺害。
 
と、云ったところでしょうか。

B氏・・・結果としての殺害と云う点に、今回は分け入ってみますか。

私・・・それでは、結果としての殺害と考えた理由は、拉致から殺害までの時間が長すぎる事。日本橋三越拉致されたのが5日の午前9時半、常磐線北千住の先で轢断死体が発見されたのが、翌日の午前0時半。

実際の死亡時間は列車に轢かれる5、6時間前とされているので、拉致から殺害まで約10時間。

当初から殺害を目的としていたならば、拉致から殺害までに10時間以上も費やす必要性はまったく無い。

B氏・・・拉致から殺害までの10時間、犯人と総裁は、何処で何をしていたと考えているの?

私・・・そこで、検死と現場検証の結果なんだ。死体にも血液が残っておらず、現場にも流れ出た痕跡がなかった。明らかに、血液が抜かれている。詳しいやり方は解らないけど、脇の下辺りから血を抜く拷問があるらしいんだ。



B氏・・・血液を少しずつ抜いて拷問になるの? 貧血なんかを考えると、苦痛と云うよりか、意識が少しずつ薄らいでくるだけで、拷問にはなら無いと思うけど。

私・・・話がかなり“ホラー”ぽっくなるけど、顔の前にチューブか何かをぶら下げられて、自分の血が“ポタリ・ポタリ”と滴り落ちるを見せられたら、かなりの恐怖だと思うけどね。

B氏・・・かなり、恐いです。痛く無さそうで、痛そうで、気持ち悪そうで・・・・・・。それで、ホントにそんな拷問の方法があったの?

私・・・そう。実際に戦争中にそんな拷問がやられていたそうです。そして、やっていた人間が、情報機関の周辺に居たのです。

B氏・・・気持ち悪い話はそこまでにして、拷問の理由を詳しく説明してくれる。

私・・・そうだね。占領軍の計画通りに人員整理が進んでいなかった事。“首切り専任総裁”として下山を就任させたのに、彼は予想外の抵抗をした。

国鉄は10万人の人員整理が計画され、事件前の4日に第一次として3万が解雇通告をされた。占領軍は6月中に計画数の10万人を解雇するように要求していた。

占領軍の鉄道部門故の担当官が「シャグノン中佐」と云う男で、第一次3万の解雇通知をしたその日の深夜、下山の自宅に行き解雇計画をもっと早く進めるように、拳銃をちらつかせて怒鳴り付けたそうだ。

下山総裁が殺害され、共産党と国鉄の労働組合が怪しいとなり、組合も国民の支持を失い、10万人の首切りに対して、その後は組織的な抵抗も行えず、占領軍の計画通りに実施された。

B氏・・・絶対!怪しい!そのシャグノンって云う中佐。

私・・・国鉄を取り巻く状況、事件前後の状況の変化から、この他殺説、情報機関の関与説は、非常にすんなりとして、自然で、スッキリ、ハッキリした推理だと思うのです。

B氏・・・そうすると、下山総裁を拷問して、占領軍の首切り計画に一切口出しせず、黙って云われた通り、実行する事を迫ったが、ところが、予想に反して、下山総裁は最後まで拒み続け、そして、殺された?



私・・・そこでなんだぁ。下山は単なる脅しで、占領軍の作成した首切り計画に、総裁として「多少の修正」をおこなっても、いくらなんでも殺される事は無いだろうと思い、抵抗した? 

ここからが、肝心なところです。イイですか、命令を下した情報機関の拉致監禁の目的と、実行したグループとの間に、“犯行目的に相違があった”可能性がある。

実行グループは、単に命令される範囲だけで動いたのではなく、それなりに「独自の考え方」を持った「組織」が実行犯に加わった可能性がある。

もしかしたら、拉致監禁計画は彼らが計画し、情報機関が後から加わった可能性も考えられる。

彼ら独自の要求を下山に突き付け、その要求を拒んだ為に殺害された可能性がある。

B氏・・・エッ! それって珍説! じゃ無かった“新説”

私・・・そうです! チンいゃ “シン説”です!
ここに事件の核心と、実行グループにつながる手掛かりが隠されているのです。

松本清張、矢田喜美雄、斉藤茂男、諸永裕司、森達也、柴田哲孝、の“他殺謀略説”とは“ひと味”異なるところなのです。

かなり、本日は事件の闇に分け入りました。次回もかなり奥まで分け入りたいと思います。

それでは、また次回。


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“下山事件”検死100体の経験に意味無し!

2008年09月11日 | 下山事件
昨日の続きです。

私・・・熟慮に熟慮を重ねた末に、下山事件の闇に分け入る決意を固めました。実は下山事件を採り上げてからは、アクセス数が20~30%ダウンしているのです。

それも、最新の下山事件関連のページのアクセス数の20パーセント以下で、過去のページの方が多く読まれているのです。これまで、最新と過去では6:4の比率でした。

世間では、もう、この事件への関心は無いようです。でも、しかし、私は、とても気になるのです。アクセス数は気にせず断固として、続ける決意であります。

まぁ、そんなに息張る事もないですがねェ。兎に角、分け入って行きたいと思う次第です。

B氏・・・でも、ホントはアクセス数は“かなり気にして”いるんでしょ?そのうち誰も見に来なくなったりして(笑)

私・・・余計なこと云うなァ! 兎に角、興味津々、オモシロ、ワクワク、ドキドキの連続ですから。

B氏・・・そんなに喜んで、興味本位に採り上げるテーマでは無いとおもうけどねェ。一人の生命が奪われた悲惨な事件なんだから。

私・・・そうです。悲惨で残虐で悲しい出来事でした。失礼致しました。

B氏・・・それで、どこいら辺から分け入って行きますか?

私・・・“事件は現場で起きている!”の台詞に忠実に、現場の状況が先ず第一です。轢断死体がすべてを語っているのです。



B氏・・・事件で死者が出ると、検死が行われるけど、その結果は「死後轢断」だと前回も云っていたけど、自殺説では検死結果についてはどう云う解釈なの?

私・・・そこなんです。司法解剖は東大の法医学教室の古畑博士が立ち会い、実際に解剖したのが桑島博士で、この鑑定結果が世に言う「古畑鑑定」なわけ。

それに対して、慶應医学部の中舘教授が古畑鑑定に疑問を呈し「生体轢断」を主張た。

B氏・・・慶應と東大の争いなわけだ。

私・・・東京を東と西に分けて、東の事件は東大、西は慶應が検死を担当していた。

B氏・・・これって、「旧帝大トップ」東大医学部と、「私学の名門」慶應医学部との“白い巨頭”どうしの、面子を賭けた争いだね。

私・・・そんな事だと思うよ、たぶん東大が「生体轢断」だったら、慶應は「死後轢断」を主張したはず。鑑定は100%完璧な事はないし、常に数パーセントの疑問点は残るから。それに、中舘教授は書類を見ての見解だから。


【松本清張著「日本の黒い霧」から】

B氏・・・まぁ、確かに、ふつうは、実際に死体を解剖した方の見解が正しい可能性は高いけど。

私・・・それで、自殺説を採る側は、現場検証で遺体を検分した東京都監察医務院の八十島信之助監察医の主張を重視しているのです。

B氏・・・その監察医の人は何て云っているの?

私・・・それが、現場の死体の状況から「自殺」と判断していた。あくまでも、現場に散乱していた死体の、目視しによる外観判断での見解だけど。

B氏・・・専門家である監察医が、事件直後の現場状況から判断した見解は、かなり確度が高く信用できるんじゃないの。

私・・・そう、それに彼は、それまでの3年間で100体ほどの轢死体の検死経験があり、かなりのベテランなのです。

B氏・・・それじゃ~、もう、自殺に決まりでしょう。

私・・・そう思うでしょう。でも、違うのです。単に、線路上に散らばった遺体の状況から、自殺を決めつけるのは科学的な態度ではありません。

たぶん、過去、彼が見てきた礫死体は、事故死か自殺です。他の場所で殺害し、死体を列車に轢かせるような、そんな手の込んだ殺害方法は、当時でも、現在でも有りません。

ですから、彼の100体の検死経験は、何の意味も無いのです。死んでいたか、生きていたかは、死体の散乱状況を単に目視して判る筈がないのです。

B氏・・・そういえば、そんな殺害方法の事件はあまり聞いた事がないね。

私・・・そう言う事です。彼が50体の死後轢断と、50体の生体轢断の現場に立ち会っていた経験から判断したなら、彼の見解を受け入れ自殺説に転向します。

B氏・・・うん。他殺説が有利なような、そんな気がしてきました。

私・・・それでも、まだ、生体轢断でも出血の少ない例があるとか、生体反応の無い場合もあるとか、いろいろ云うのですが、あくまで、そんな例が、「偶」にはあるレベルなのです。

兎に角、死後轢断よりも、生体轢断の「事故例」が圧倒的に多くあるわけですから、いろいろ、その中から自殺説に有利な症例を選び出し、反論をしてくるのです。

反論するならば、他の「死後轢断」の遺体状況から、下山事件と異なる症例を上げ生体轢断の正しさを証明してほしいと思います。

B氏・・・それは、そうだね。

私・・・どうです。他殺説が正しいと思えてきたでしょう。

この続きは、また明日。


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“下山事件” 複雑怪奇は事後工作!?

2008年09月10日 | 下山事件
昨日の続きです。

B氏・・・昨日は、国鉄合理化に対しての位置づけが、下山総裁は単なる国鉄再建の手段であった。

それに対して、占領軍は共産主義との闘い一環として、先ずは国内の左翼勢力の先頭に立つ国鉄労組を叩き、共産党を労働運動から追放し、戦争体制を固める。

私・・・そうです。特に物資の輸送は“兵站”の要ですから、国鉄労組がストライキを行い、戦時物資の輸送を妨害でされたら大変な事になる。兎に角、焦っていたのです。

B氏・・・そう云う、国際情勢は判るけど、国鉄総裁を真っ昼間に都心から拉致して、拷問して、結果として殺害してしまった事は、どうしても納得できない。ふつうはそこまでやると思うえないけど。

私・・・うん。そこ何だけど、今の世の中の感覚で、当時の状況を理解するのはかなり難しいと思う。何たって、暴力、武力、戦争で問題を解決する時代でしたから。

拉致、拷問、殺害、そういう野蛮な手段を使うこと対して、今より、ずっと、ずっと抵抗感は無かったと思う。

B氏・・・そういう事なのかねぇ。まぁ確かに、いまでも、世界中で、戦争は起こっているし、ふつうに、暗殺、拷問、毒殺、射殺、自爆テロとか、あちこちで起こっているし・・・・・・。

私・・・今の日本は、不況だとか、格差だとか、貧困だとか、年金だとか、医療だとか、いろいろ云われているけど、まだ、話し合いで何とか解決するレベルだからねぇ。まだ、まだ、ふつうで、平和なんです。

B氏・・・それでも、無差別殺人があちこちで起こり、自殺者も一向に減らないし、殺したり、死んだりして、問題を解決する風潮は恐いねぇ。

私・・・話がチョットそれてきましたので戻します。前回、下山事件は失敗と云いました。

理由は、始めから殺害を目的としていなかった。殺害が目的であれば、拉致してから殺害するまで時間が長すぎる。

7月5日の朝9時30分頃に日本橋三越で消えて、翌日の6日の午前0時30分頃に、常磐線北千住駅の先で轢断死体で発見されるまで、約15時間も経過している。



B氏・・・その辺が、自殺説にも繋がるんじゃないの? 他殺、謀略説を採る立場として、自殺説を否定する根拠は何なの?

私・・・先ず、“事件は現場で起きているッ!”と叫ぶ方が居ますが、その通りだと思います。何たって死体の鑑定が“死後轢断”です。

この“古畑鑑定”を採用します。生活反応が無い、死体に血液が残っていなかったこと、線路に流れ出した形跡もなかった。

そして、これまでに触れた、松川、三鷹、そして、国際情勢と、事件後の左翼勢力の衰退。物証と状況証拠から他殺に間違いないです。

それと、下山総裁が“首切り合理化”で悩み、鬱病に罹っていたとの説。そして、総裁らしき人物が、現場周辺を彷徨っていたと云う多数の目撃証言。

決定的なのが、現場近くの旅館で下山総裁が休憩をした証言。


B氏・・・そんなに目撃証言があるの? 

私・・・そうです。だから変なのです。まぁ、先ず鬱病説ですが、合理化首切りは既定路線で、突然降って湧いた訳ではなく、彼の役割は“首切りの為の総裁”で、その事を前提として総裁に就任している。

首斬りが終わればお役ご免で、さっさと辞めて国会議員に立候補する予定だった。

B氏・・・そういう事だったんだぁ。“ワンポイントリリーフ”と云う訳ねェ。

私・・・彼は初代の国鉄総裁に就任したのが、事件の年の6月1日で、殺されたのが翌月の7月5日、たったの1ヶ月の総裁だった。

想定内の首切りで、そして就任たった一ヶ月で、悩んで、鬱病になる訳がありません。

“首切りの為だけの総裁”が、占領軍の予想に反して、首切りのメンバー、人数、時期に抵抗する姿勢を見せたので、拉致され、脅され、結果として葬られた。


それが、下山事件だった。と思う。

ある意味、松川、三鷹とは異質な事件であったが、犯行は占領軍の“情報機関”が“関与”している事で、戦後の占領時期に起きた、一連の謀略事件と云うことです。

国際情勢、発生時期、事件発生後の情勢変化、殺害方法、等々から、占領軍の情報機関の“関与説”となるわけです。

この情報機関の関与説を裏付ける、一つ一つの事実、関係者の証言、これを調べて行くと、かなりの迷路に迷い込むのです。

B氏・・・何か聞いていると、その迷路を楽しんでいるようにも見えるけどねェ。

私・・・確かに、他殺、謀略説を支持する人達は、楽しんでいる傾向はあると思う。今では、陰惨な事件も遠い過去になり、生々しさも消えて、単なる推理ゲームになっているかも知れない。

B氏・・・間違いなく、あなたは楽しんでいる。

私・・・この下山事件は、発生後にも謀略が継続している節がある。

単純な事件をより複雑に見せかける工作、自殺に見せかける工作、情報機関の能力を過大に見せかける工作、失敗を隠蔽する為の事後工作等、そんなこんなで、いろいろと、複雑怪奇になっているのです。

B氏・・・その迷路に分け入って行くの?

私・・・どうしますかねぇ。


きょうは、この辺で終わりにします。


この話、これからも続けるか? ここで終わらせるか?・・・・・・今晩考えます。


それでは、また明日。



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下山事件は失敗だった!

2008年09月09日 | 下山事件
昨日の続きです。

私・・・それで、警察の捜査だけど、7月に事件が発生して、その年の12月31日で、結論を出さないで、捜査本部は解散してしまった。

B氏・・・こんな重大事件なのに、結論なしで解散なんてかなり変じゃない?

私・・・そう。大いに変なのです。翌年の2月に「文藝春秋」と「改造」と云う雑誌に捜査報告書が掲載されたんだ。

B氏・・・何で雑誌発表なの? 内容は?自殺?他殺?どっち?。

私・・・明らかに警察側の意図的リークだと思う。報告書の内容は自殺と結論付けている。

それで、捜査なんだけど、警視庁の捜査1課と、捜査2課の合同捜査だった。1課は殺しが専門、2課は知能犯が専門。

1課は、現場の状況から自殺説で捜査しており、2課は他殺説だった。報告書は1課の見解でまとめられている。

B氏・・・自殺説でも他殺説でも、どっちでもいいけど、何で捜査が途中で打ち切られ、何で捜査結果が非公式の雑誌発表だった訳?

私・・・ここにも謀略の匂いがあるのです。事件が発生して、直ぐに、官房長官や、国鉄の副総裁が、他殺の見解を表明し、背景に労使紛争があることを匂わせ、暗に共産党、国鉄労組の犯行であると、世論を誘導していった。

B氏・・・それなのに、何故、自殺説なの?

私・・・そこです。そこで、松川事件、三鷹事件なのです。下山事件の後で連続して発生したこれらの事件では、労組員が逮捕され一審、二審で判決は死刑。共産党に対するイメージダウン、左翼勢力から世論を引き離すのに成功している。



B氏・・・最初の下山事件は、匂わせるだけで労組員の逮捕は無かった。

私・・・そう。一連の事件は謀略だったと思うけど、下山事件は犯行側に何らかの行き違いが生じ、当初の計画とは異なる展開となってしまった。ある意味で失敗だった!

B氏・・・失敗とは?

私・・・下山総裁を殺害する意図は犯行側に無かった。結果として死亡させてしまった。これが正解だと思う。

松川、三鷹の事件で当初の目的は達成されたことで、下山事件はもう、どうでもよかった。兎に角、早く終結させたかった。

それに、他殺の線で動いていた二課の捜査が進展し、労組員犯行説に綻びが生じる危険性が高まった。

そこで、捜査を終結させ、公式には報告書は発表せず、一課の見解に沿った自殺説を非公式に発表して、下山事件を“終了”させたのです。

B氏・・・そういう背景での非公式発表であり、自殺説の訳。それと、誤って死に至らしめ、その結果により、自殺に“見せかける工作”をしたと。

私・・・そういう事です。巧妙に仕組まれた事件と云うよりも、かなりのドタバタがあり、いろいろな場面で情報機関の影が見えてしまった。

自殺、他殺の両方を匂わせ、捜査を混乱させた謀略の成功例ではなく、偶然の出来事が、幾つも重なり、恰も複雑に仕組まれた謀略工作に見えただけだった。

幾つもの偶然が重なった事件は、複雑に仕組まれた事件よりも、複雑怪奇に見えるのです。

兎に角、当時、占領軍に焦りがあった。共産勢力との戦争が目前に迫り、先ずは国内の共産勢力を排除し、そして、国外の共産勢力と闘う。



B氏・・・事件の背景説明はそれなりに判ったけど、どんな事実から、“失敗”だとの結論になったの?

私・・・うん。下山総裁を殺害する意図は犯行側に無かったと思うのは、一つには死体に残っていた血液の量が少なかった事。そして、股間の傷にだけ生活反応があった事。

B氏・・・血液の量が少ない? 生活反応? 何それ?

私・・・ここからが、かなり具体的な轢断現場での死体の状況等に、踏み込んで行くわけです。

捜査一課は現場の状況を見て、直感的に自殺だと思ったらしい。当時の捜査員がそんな証言をしている。

捜査二課は、死体に出血・炎症性反応など生存中の外傷反応が無い事から、死後にひき殺されたとの“検死結果”を発表した。

この検死結果に基づいて、二課は他殺の線で捜査を進めた。

血液が体内にほとんど残っていなかった事、現場にも流失した血液は見当たらなかった事、そして、股間にだけ生存中に生じた出血反応が確認されている事。

と、云う事から、下山総裁は“拷問”されていた可能性が高く、股間の出血反応は拷問中に蹴り上げられた事による外傷であり、体内の血液量が少なかったのは、少しづつ血が抜かれていった為だと思う。

B氏・・・何か、段々、陰惨な場面が想像されるけど、拷問と云う事は、何か隠し事を白状させるとか?

私・・・そうじゃ無くて、下山総裁の主張を変えさせる為の拷問だった。

B氏・・・それって、どんな主張?

私・・・それは、首切り合理化に対する人数と時期だと思う。占領軍はあくまでも国鉄の合理化は、対共産勢力との戦争体制を作る為の一環であり、時間的にも急いでいた。

それに対して、下山総裁は単に国鉄再建の為の、単なる合理化策と捉えていた。その辺のズレが占領軍を苛立たせたのだと思う。

B氏・・・それなら、首切りの意図をじっくり話して、理解させれば問題ないと思うけど、ふつう、そんな事で拷問までする? 

私・・・占領軍のトップは戦略的な思考をするが、実際に国鉄の経営を監督指揮していたのは、アメリカの地方鉄道の末端管理者だった。

B氏・・・トップの意志を充分に理解できず、兎に角、首切りの人数と時期を焦っていた。

私・・・そういう事。下山総裁は技術畑の“鉄チャン系”の人で、それが、不幸を招いたと・・・・・・・・。それで・・・・・・

と云うところで、今日はお終い。


続きは、また明日。



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下山事件を考える!生体轢断?死後轢断?

2008年09月08日 | 下山事件

本日より、あの歴史的事件、戦後政治の転換点、戦後最大の謎、暗殺、謀略、恐ろしくも、興味津々の事件を、推理、推測、憶測を交えて、明らかにして行きたいと思います。

“シリーズ”になるか、途中で気が変わるか、やってみなければ判りません。兎に角、始めます。

今回は事件に、“あまり”興味も関心も無い“B氏”の多大なる協力?を得て実現しました。



それでは、始めます。


私・・・では、私から。この事件は、先ず“死後轢断”か“生体轢断”かの論争があります。

B氏・・・シゴレキダン?に、セイタイレキダン? 何それ?

私・・・死んだ人をひき殺したのが死後轢断、生きている人をひき殺したのが生体轢断。

B氏・・・死後とか、生体とか、轢断とか、言葉がスゴイねぇ。終戦直後の焼け跡の匂いが漂うねぇ。まぁ、終戦直後の焼け跡の匂いは嗅いだ事はないけど。

私・・・まぁ、そうねぇ。それで、死後轢断であれば、死体が自分で歩いてくる訳ないから、他の場所で殺され、線路上に運ばれた事になり“他殺説”

生体轢断は、本人が線路際まで歩いて、列車に飛び込んだと云う事で“自殺説”と云う事。

B・・・線路際まで、誰かに脅されて連れて来られ、突き飛ばされた可能性とか、誤って線路に落ちて轢かれた“事故”だったとか、そう云う事は無いの?

私・・・誤って線路に落ちる場所ではないのォ! 線路際で突き飛ばされた可能性はゼロでは無いと思うけれど、目撃証言や、現場の状況、物証から、兎に角、自殺か他殺かです。



B氏・・・現在は、他殺説、自殺説のどちらが主流なの?

私・・・当時の政治的状況から他殺説が主流で、それに、まぁ、単なる自殺では、ある意味で“面白くない”と、云うことも・・・・・・あったりして、他殺説では、占領軍の情報機関による犯行説が有力です。

当然、私は、死後轢断、他殺説、占領軍の謀略、この立場です。


B氏・・・・・・占領軍の犯行ですか、何で、そんな事を占領軍がやったわけ?

私・・・・・・当時のソ連や中国、そして朝鮮半島での共産主義の攻勢があり、それに、呼応して国内の共産党や、労働組合の左翼運動が高揚した時期だった。

それに、事件の前日に、国鉄の“大量首切り”が発表され、国鉄での労使対立が極限に達していたこと。

そんな時に、国鉄関連の事件が連続的に発生したんだ。1949年7月5日の“下山国鉄総裁死亡事件”、10日後の15日の“無人列車暴走の三鷹事件”、翌8月17日には“列車が脱線転覆した松川事件”が、短期間に連続して発生した。

この連続的に発生した国鉄関連事件で、すべての犯行が、共産党に指導された労働組合が犯人とされ、世論は共産党や労働運動から離れって行き、左翼運動はこの時期から衰退していった。

B氏・・・その事件によって、誰が利益を得たのか、所謂、状況証拠から占領軍の犯行と云うわけだ。

私・・・そう! あの一連の事件を契機として左翼は衰退し、翌年に朝鮮戦争が始まり、戦後の経済が復興し、高度成長が始まり、今に繋がっている。

B氏・・・それで、当時の警察の捜査はどうなっていたの?

私・・・そう何です。ここが、また、謎なのです。捜査は中途半端に終わり、正式の発表も無く、非公式の見解がマスコミに“リーク”されただけ。

B氏・・・捜査はそんな曖昧のまま終わっちゃたの?

私・・・そう何です。ここらも謀略の匂いがする処で、占領軍の圧力で捜査は終結させられた可能性が高いのです。

何と云っても、この当時は、日本は“占領軍が統治”していたのです。占領軍の命令は絶対です。

B氏・・・そうか。戦争に負けて統治権は日本に無かったんだぁ。それで、警察の非公式な見解では、自殺なの他殺なの?

私・・・それが、また、いろいろと、ややこしいのです。え~と・・・・・・・


この続きは、また、明日。



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宜雲寺に一蝶そして石畳のズレは?

2008年09月05日 | お寺・神社
昨日の続きです。と、云うか、宜雲寺そして雑談と云った内容になりそうな、そんな感じがしています。

“英一蝶”、歌を詠み、絵を描き、遊郭に遊ぶお座敷芸人であり、そして、権力から睨まれ、犯罪者として囚われる。

そんな一蝶に、庶民はどんな夢を託し、何を見ていたのか? すべての遊びに通じ、すべてに一流だった封建社会の英雄・・・・・・。

世の中、適度な重石が必要? 伸し掛かり、覆い被さる重石を、知恵と技と芸で払い除ける・・・・・・。

禁を破り 掟を破り 形式を壊し 常識を壊し

建前ではなく本音で すこし斜めに 上目使いに 

真ん中ではなく端っこから 

熱くならず 静かに 世の中を渡って行く・・・・・・。

一日3合の焼酎を飲み 楽しく笑って暮らしていく

ホメラレモセズ クニモサレズ

サウイフモノニ ワタシハナリタイ・・・・・・。

何ちゃってねェ。


兎に角、英一蝶は魅力的な人物のようです。そのうちに、墓参りに行って来ようと思います。港区高輪二丁目の「承教寺」にお墓があるそうです。



それで、話は当日(8/9)の宜雲寺に戻ります。二人でお墓参りに来たのです。


この本堂ですが、鉄筋コンクリート造りですが、変に木造を偽装するようでも無く、まぁ、いいと思うのです。


入り口の山門をくぐると、直ぐに右に折れ、7、8歩進んで左に折れると、目の前が開け、本堂前の庭に出ます。

狭い敷地のなかで、それなりの工夫が窺えます。左隅の石畳に注目です。


石畳の中心軸をずらしてあるのです。たぶん、“庭”と墓地に続く“通路”との境界を、この“軸ずらし”で、表現したのでしょう。



昔から造園の技法として、こういう細工があるのでしょう。日本庭園は芸が細かいのです。

それで、こんな細工に業界用語か何かで、なんと云う名称が付いているのか調べていたら、こんなモノを発見しました。

【石畳の配列軸をわずかにずらし、非対称化することで人間の行動を変化させ外部空間を動的に引き寄せる。この時の景観の動的変化は時間的連続性を持ち、刻々と変化する景観で内外空間の一体化を図っている】

スゴイ表現の文章です。これはある都市の景観を争う裁判の原告側の準備書面と云うものなのです。

裁判は、こんな言葉が法廷で行き交うのです。順調?に行くと「裁判員制度」は来年からスタートします。刑事裁判ではもっと複雑怪奇な言葉が飛び交いそうです。

暇で、好奇心旺盛な私としては、裁判員に選ばれることを切に願っているのですが、判事による最終面接で怪しい言動をして、ふるい落とされるのではと、危惧しております。

それで、お墓への道はこんな感じで、


六地蔵が、こちらと、


こちらに並んでお出迎えです。


狭い都会の墓地、びっしり並んでいます。


宜雲寺、そして、一蝶寺の謎、今回でお終いです。

それにしても、英一蝶、もっと、もっと調べてみたくなる魅力的な人物です。


それでは、また次回。



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一蝶寺は宜雲寺で“英一蝶”を“片岡鶴太郎”が演じていました

2008年09月04日 | お寺・神社
昨日の続きです。

一蝶が15歳の時、一家で江戸に移住した“事件”・・・私の勝手な想像で事件としました・・・とは、何だったのか?、伊勢亀山藩で何があったのか?

想像では、何か権力闘争があったのでは、医者であった父“多賀伯庵”もその争いに巻き込まれ、そして、弾き出されてしまったのでは?

江戸に出た父の伯庵は、生涯を通して、悔やみ、嘆き、愚痴り、酒におぼれる、傷心の日々を送り、寂しくこの世を去っていた・・・・・・・。

そんな父の姿を見て、息子の一蝶は、この世での金、地位、名誉、そんな現世利益を追い求めて、あくせく生きることの、虚しさ、儚さ、バカバカしさ悟ったのでは・・・・・・・と思うのです。

かなり、これは、勝ってな想像ですが、それなりに、かなりイイ処を突いているような、そんな気がしてきました。

狩野派を2年で破門されたのは、権力に庇護された“武家好み”の作風に対して、かなり批判的な言動を吐いたり、まったく異なる“庶民好み”の作風の絵を描く、その結果として、と・・・・・・思うのです。

絵師として“多賀朝湖(たがちょうこ)”を名乗り、“暁雲(ぎょううん)の”名で俳句を詠み、“書”もかなりのものだったようです。

絵師として、俳諧師として、書家として、江戸中にその名を知られた文人だったようです。

そして、そのうえ、何と、遊郭で「幇間」をしていたのです。幇間としても、一流の芸人であったようです。

この幇間に一蝶らしさが、そして、父“伯庵”への“想い”が現れている気がするのです。

文人であり芸人。大名旗本、豪商の紀伊国屋文左衛門、そして松尾芭蕉とも交流があった一蝶。

ここまで調べたところで、一蝶の生涯を描いたドラマを製作したら、かなり面白いものができそうな気がしてきました。

そうしたら、あるドラマに一蝶が描かれていたのです。それは、NHKの大河ドラマ「元禄繚乱」、1999年1月~12月放送の“赤穂浪士の討ち入り物”で、少しだけ出てくるのです。

それで、一蝶を演じていたのが、あの“片岡鶴太郎”でした。確かに、絵師、書家、芸人と来ると、それなりに、表面的に、鶴太郎なのかも知れません。


それで、本物の一蝶の方ですが、元禄6年(1693年)に入牢、罪名は不明。2ヵ月後に釈放。元禄11年(1698年)47歳の時に三宅島へ流罪。罪名は不明

11年の流刑後、57歳の1709(宝永6)年に、吉宗の死による大赦で江戸に戻り、英一蝶と改名したそうです。

この“英一蝶”の名ですが、三宅島から江戸に戻る時に、舟上で舞う一匹の蝶を見つけ、“多賀朝湖”の名を捨て、“英一蝶”となったのです。

英(はなぶさ)は母方の姓「花房」からです。ここで、父方の姓である「多賀」を捨て、父の“残像”を消し去ったのだと思います。間違いない!

それにしても、この船上のシーンは絵になります。ここで一蝶を演じるのは、鶴太郎では無理があります。それでは、誰が?と、いろいろ考えたのですが・・・・・・、浮かびません。

江戸に戻り、そして、どういう伝なのか宜雲寺で暮らすようになり、多くの作品を残したそうです。

それでは、早速、宜雲寺に行き作品を拝見して来なければと、思ったのですが、昭和二十年の“東京大空襲”で一蝶の絵はすべて焼失してしまったのでした。残念!

それでも、多数の作品が他の場所に残っているようで、私の歩き回る範囲にある、「板橋区美術館」にも、3点の所蔵されているので、近いうちに覗いてこなければと思っています。

島流し後、一蝶の時代の絵は多数残っているのですが、島流し前、朝湖の時代の絵はどうなのか良く判りませんでした。

朝湖の時代と一蝶の時代、絵に変化があったと云う説、無かったと云う説があり、どちらなのか? 気になります。

私としては、題材の選び方、描き方に変化があって当然だと思うのです。朝湖の時代より、一蝶の時代の方が人気は上がったようです。

それにしても、一蝶と云う人間は“面白い方”です。いい人を知りました。これは、墓参りの御利益です。


明日も、すこしだけ、宜雲寺の話です。


それでは、また明日。


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宜雲寺で“英一蝶”に出会う

2008年09月03日 | お寺・神社
8月10日に書いた続きとなります。

宜雲寺と一蝶寺の二つの名前を持つ“謎”の解明です。



正式名称は“宜雲寺”、臨済宗妙心寺派の禅宗寺院だそうです。以前は、と云っても昨日今日ではなく、元禄六年(1694年)に深川からこの地に移転したそうです。

それで、またの名を“一蝶寺”と呼ばれた理由は、“英一蝶”と云う絵師が“間借り”と云うか、“居候”と云うか、身を寄せていたので、そう呼ばれるようになったそうです。

“居候”の名前で呼ばれると云う事は、それなりの絵師だったのでしょう。時は“元禄(1688年~1704年) ”ですから、町人文化の華やかな頃です。

英一蝶(1652-1742)は、亀山藩の侍医の家に生まれ、1666年15歳のとき、家族とともに江戸へ移住したそうです。

自らの意志なのか、わけあっての遁走なのかは不明のようです。

彼の生涯を辿ってみると、父親が安定した地位を捨て、江戸の地に移り住んだ“事件”が、彼のその後の生き方を決定付けたと思うのです。

彼は、江戸で狩野派に入門したのですが、2年で破門されます。

牢獄にも入ります。罪状は不明だそうです。

島流しにもなっています。これも罪状がハッキリしないそうです。

島流しは、将軍綱吉の死により恩赦で江戸に戻ります。それから“英一蝶”を名乗ったそうです。

彼は、絵師として、徘人として、著名であり、また、大名、旗本相手の“幇間”としても著名だったそうです。


ここで、私の大胆な推理を発表します。

先ずは、入獄や島流しの原因です。

これは、彼のすべての仕事において、武家社会の風紀を乱し、秩序を乱し、権力を“芸”で嘲笑ったからでは・・・・・・と、思うのです。

このままでは、徳川幕府の“権威・威信”が脅かさると、権力が察知し葬ろうとしたのです。

それでは、反権力の想いをいつの頃からか、何故?どうして?抱くようになったのか?

それは、彼が15歳の時、一家で江戸に移住した“事件”の中に隠されているものと考えます。

今日は、ここまでとします。


それでは、また明日。




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