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ひろさちや・著“「新訳」正法眼蔵”を読んで

今回も ひろ さちや氏の本を紹介したい。それは、“「新訳」正法眼蔵―迷いのなかに悟りがあり、悟りのなかに迷いがある”だ。道元(1200年~1253年)の父は内大臣・久我通親、母は関白太政大臣・藤原基房の娘・伊子(いし)の貴族階級出身だが、幼くして両親と死別。14歳で比叡山に上り修行僧となった。 若い道元にとって僧としての関心事・疑問は、“「人間はもともと仏性(仏の性質)を持ち、そのままで仏である」それなのに、われわれはなぜ仏になるための修行をせねばならないのか?”であったという。日本ではその疑問が解消せず、24歳で宋に渡った。その後、26歳にしてようやく、師として仰ぐ如浄禅師の他の修行僧を叱った言葉“参禅はすべからく心身脱落なるべし”で、豁然大悟したという。この“心身脱落”がある種キィ・ワードだという。 これは“あらゆる自我意識を捨ててしまうことだ”という意味。“わたしという全存在を、悟りの世界に投げ込んでしまう。それが心身脱落。そうすれば、迷いもなくなり、苦しみもなくなる。” “「悟り」は求めるものではなく、「悟り」を求めている自己の方を消滅させる。(それが)心身脱落。” “わたしたちは悟りの世界に溶け込み、その悟りの世界で修行する。悟りを開くために修行するのではなく、悟りの世界にいるから修行できる。・・・仏だから修行できる。それが道元の結論”だという。 . . . 本文を読む
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