The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
イングランド法における契約概念への疑問
未だ、goo当事者からブログ投稿に当たってのトラブル解消法について連絡はない。何となく放置されている印象だが、それを躍起になってフォローするエネルギーは、私には最早ない。しかし、どうやら短い原稿ならば問題無さそうなので、いつもより負荷の軽い短い原稿にして投稿を試みたい。
実は、9月の初めより“ひょうご講座”で、神戸大学の法学、経済学の教官団による講演シリーズ“エコノリーガル・スタディーズ”を受講している。エコノリーガルとは、“社会にはさまざまな解決すべき問題があり、それらの問題は多くの場合、経済学や法学や他の学問の中で個別に議論されている。しかし、専門とする学問が異なると、問題関心や分析方法、ときには価値観まで異なり、たどり着く答えも異なってくることが多い。”その違った答えが出た場合にどうするのか、そういった問題扱っているようだ。多くは経済合理性と、正義論のせめぎ合いであろうと考えられるが、これは現代文明そのものへの問いのような気もする。
主催者はウェッブ上で続けて次のように言っている。“こうした中で、神戸大学では、2010年度から、法学部と経済学部が共同で、法学部と経済学部の学生を選抜し、同じクラスで法学と経済学を一緒に学ぶ法経連携専門教育プログラムを開始した。そこでは、毎回2,3名の法学者と経済学者が教室に立ち、授業を行ってきた。その成果は、柳川=高橋=大内編著『エコノリーガル・スタディーズのすすめ』(有斐閣、2014年)として公刊した。また、神戸大学では、 社会科学系教育研究府でこの「エコノリーガル・スタディーズ」を教育・研究をしてきたが、2016年4月から社会システムイノベーションセンターという新組織に移行し、引き続き教育・研究をすすめている。”どうやら神戸大学独自の教育研究テーマであって、それを市民教育にまで拡張したメニューのようだ。
私自身は、この数年“環境”に重点的に関わっているが、そこでは遵法(順法)がきわめて重要な要素となる。また遵法を極めるには、法の背景にある考え方を身につけておく必要があると考えており、ある面では 法哲学にまで踏み込む必要があるのではないかとも思っている。工学系出身の私としては、その理解の一助にならないかと、受講している。
また“環境”に関わって重要な考え方に“予防原則”というものがある。これは、Wikipedia等によると“(特に、化学物質や遺伝子組換えなどのように環境に悪影響とはならない科学的根拠が不十分な課題に対して、)環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす仮説上の恐れがある場合、科学的に因果関係が十分証明されない状況でも、規制を強制する措置を可能にする制度や考え方のこと。”とされている。
例えばこうした考えに従って、日本は米国の遺伝子組み換え大豆などは何らかの形で輸入制限しているようだが、一方では遺伝子組み換えしない大豆には農薬が使われていて、こちらは広範囲の汚染と生産者農家の農薬中毒障害の問題を引き起こすとも言われている。これにはトレード・オフの要素が強いので、消費者の選択の自由の問題と考えれば、現実は別としてそれほど一方的な問題とはならないかもしれない。
しかし、そのようなトレード・オフの要素の見えない問題で、科学的な根拠が曖昧なことに対し“予防原則”が適用されて来たが、その後科学的に明らかにされ予防原則適用が誤っていたことが判明し、予防原則適用による社会的損失がその後判明した場合、その損失をどのように原状回復するべきなのか、或いはそれを回避し事前に損失を極小にする事前の措置はあるのか、について考察してみたいという大志を持っている。
私は“予防原則”はある点で法学的に有無を言わせない暴力的側面があると思っている。“予防原則”には“予防検束”的側面があるのではないかと危惧しているのだ。
さて、そんな“エコノリーガル・スタディーズ”で、先週は“契約”についての考え方をレクチャーされた。その内容は売買契約の事例に基づいて、イングランド法と日本法の法思想の比較についてであった。そこでは経済合理性はイングランド法にあるというものだった。だが、そこには一旦約束した契約を経済合理性に基づいて自動解消できるという倫理性に反するものがあるというのだ。
先程、私は経済学と法学のギャップは経済合理性と正義論の考え方の差にあり、と言ったが、イングランド法と日本法の間に既にギャップがあるとは考えが及ばなかった。さて、ここで私のこれまでの“お勉強”によれば、イングランド法はいわゆる英米法と呼ばれる法体系であり、それは歴史的な経験や社会的習慣に基づいて考え出された法律や判例に拠っているので慣習法と呼ばれている。日本法は明治に近代化を図った時に採用した、フランス民法典を源泉としている。それはいわゆるナポレオン法典であり、そのナポレオン法典はローマ法をベースにしている。このようにローマ法を基本として法規範としている欧州系の法体系を大陸法と呼び、英米法と違い成文法とされている。そしてそのローマ法はギリシア哲学の正義論とキリスト教倫理観から成り立っている。
こう考えて来ると、経済学と法学のギャップというよりも、英米法と大陸法の正義観・倫理観の違いが問題であり、経済学との考え方の差を問題にするのではなくて、法学の中で解決しなければならない課題要素の方が、大きいのではないかと思えて来る。
しかし、受講直後は英米法の倫理観に違和感を強く覚えたのだった。つまり一旦約束したことを自動的に解消できるというのは、“神との契約”を重視するキリスト教的倫理観に強く抵触しているのに、どうしてイングランド法では成立するのか、という疑問だったのだ。そこで、講義終了後直接、講師の先生に訊ねた。すると“確かにその通りなのだが、それは何故かは分からない。恐らくかつてのイギリス商人はそこに正当性を認めたとしか言いようがない。”というような意味の回答だった。こんな基本的な問題について、突っ込んだ研究と結論が出ていないとは思いもよらないことだったので、かなり落胆するものだった。これは、講義した先生個人の勉強不足によるものか、日本の学会の研究不足なのか、世界レベルでの研究不足の結果なのか、初学の私には不明だ。この疑問は、どうすれば解消可能なのだろうか。少なくとも神戸大学社会システムイノベーションセンターで早急に解決しなければならない重大課題ではないのだろうか。
実は、9月の初めより“ひょうご講座”で、神戸大学の法学、経済学の教官団による講演シリーズ“エコノリーガル・スタディーズ”を受講している。エコノリーガルとは、“社会にはさまざまな解決すべき問題があり、それらの問題は多くの場合、経済学や法学や他の学問の中で個別に議論されている。しかし、専門とする学問が異なると、問題関心や分析方法、ときには価値観まで異なり、たどり着く答えも異なってくることが多い。”その違った答えが出た場合にどうするのか、そういった問題扱っているようだ。多くは経済合理性と、正義論のせめぎ合いであろうと考えられるが、これは現代文明そのものへの問いのような気もする。
主催者はウェッブ上で続けて次のように言っている。“こうした中で、神戸大学では、2010年度から、法学部と経済学部が共同で、法学部と経済学部の学生を選抜し、同じクラスで法学と経済学を一緒に学ぶ法経連携専門教育プログラムを開始した。そこでは、毎回2,3名の法学者と経済学者が教室に立ち、授業を行ってきた。その成果は、柳川=高橋=大内編著『エコノリーガル・スタディーズのすすめ』(有斐閣、2014年)として公刊した。また、神戸大学では、 社会科学系教育研究府でこの「エコノリーガル・スタディーズ」を教育・研究をしてきたが、2016年4月から社会システムイノベーションセンターという新組織に移行し、引き続き教育・研究をすすめている。”どうやら神戸大学独自の教育研究テーマであって、それを市民教育にまで拡張したメニューのようだ。
私自身は、この数年“環境”に重点的に関わっているが、そこでは遵法(順法)がきわめて重要な要素となる。また遵法を極めるには、法の背景にある考え方を身につけておく必要があると考えており、ある面では 法哲学にまで踏み込む必要があるのではないかとも思っている。工学系出身の私としては、その理解の一助にならないかと、受講している。
また“環境”に関わって重要な考え方に“予防原則”というものがある。これは、Wikipedia等によると“(特に、化学物質や遺伝子組換えなどのように環境に悪影響とはならない科学的根拠が不十分な課題に対して、)環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす仮説上の恐れがある場合、科学的に因果関係が十分証明されない状況でも、規制を強制する措置を可能にする制度や考え方のこと。”とされている。
例えばこうした考えに従って、日本は米国の遺伝子組み換え大豆などは何らかの形で輸入制限しているようだが、一方では遺伝子組み換えしない大豆には農薬が使われていて、こちらは広範囲の汚染と生産者農家の農薬中毒障害の問題を引き起こすとも言われている。これにはトレード・オフの要素が強いので、消費者の選択の自由の問題と考えれば、現実は別としてそれほど一方的な問題とはならないかもしれない。
しかし、そのようなトレード・オフの要素の見えない問題で、科学的な根拠が曖昧なことに対し“予防原則”が適用されて来たが、その後科学的に明らかにされ予防原則適用が誤っていたことが判明し、予防原則適用による社会的損失がその後判明した場合、その損失をどのように原状回復するべきなのか、或いはそれを回避し事前に損失を極小にする事前の措置はあるのか、について考察してみたいという大志を持っている。
私は“予防原則”はある点で法学的に有無を言わせない暴力的側面があると思っている。“予防原則”には“予防検束”的側面があるのではないかと危惧しているのだ。
さて、そんな“エコノリーガル・スタディーズ”で、先週は“契約”についての考え方をレクチャーされた。その内容は売買契約の事例に基づいて、イングランド法と日本法の法思想の比較についてであった。そこでは経済合理性はイングランド法にあるというものだった。だが、そこには一旦約束した契約を経済合理性に基づいて自動解消できるという倫理性に反するものがあるというのだ。
先程、私は経済学と法学のギャップは経済合理性と正義論の考え方の差にあり、と言ったが、イングランド法と日本法の間に既にギャップがあるとは考えが及ばなかった。さて、ここで私のこれまでの“お勉強”によれば、イングランド法はいわゆる英米法と呼ばれる法体系であり、それは歴史的な経験や社会的習慣に基づいて考え出された法律や判例に拠っているので慣習法と呼ばれている。日本法は明治に近代化を図った時に採用した、フランス民法典を源泉としている。それはいわゆるナポレオン法典であり、そのナポレオン法典はローマ法をベースにしている。このようにローマ法を基本として法規範としている欧州系の法体系を大陸法と呼び、英米法と違い成文法とされている。そしてそのローマ法はギリシア哲学の正義論とキリスト教倫理観から成り立っている。
こう考えて来ると、経済学と法学のギャップというよりも、英米法と大陸法の正義観・倫理観の違いが問題であり、経済学との考え方の差を問題にするのではなくて、法学の中で解決しなければならない課題要素の方が、大きいのではないかと思えて来る。
しかし、受講直後は英米法の倫理観に違和感を強く覚えたのだった。つまり一旦約束したことを自動的に解消できるというのは、“神との契約”を重視するキリスト教的倫理観に強く抵触しているのに、どうしてイングランド法では成立するのか、という疑問だったのだ。そこで、講義終了後直接、講師の先生に訊ねた。すると“確かにその通りなのだが、それは何故かは分からない。恐らくかつてのイギリス商人はそこに正当性を認めたとしか言いようがない。”というような意味の回答だった。こんな基本的な問題について、突っ込んだ研究と結論が出ていないとは思いもよらないことだったので、かなり落胆するものだった。これは、講義した先生個人の勉強不足によるものか、日本の学会の研究不足なのか、世界レベルでの研究不足の結果なのか、初学の私には不明だ。この疑問は、どうすれば解消可能なのだろうか。少なくとも神戸大学社会システムイノベーションセンターで早急に解決しなければならない重大課題ではないのだろうか。
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