The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
善通寺散策(2)―旧善通寺師団
その後、行程予定にしたがって自衛隊駐屯地方面へ南下した。やがて左手に2階建ての煉瓦舎が見えて来た。観光マップではこの通りを“ゆうゆうロード”と呼ぶようだ。右手が陸上自衛隊第14旅団駐屯地の主敷地のようだ。せわしく隊員たちが活動しているのが見える。道路を自衛隊のトラックが“訓練”というような意味の表示をして走っている。若い隊員にトラックの運転の実地教習でもしているのだろうか。帰り道でも何度も見かけた。それにしても煉瓦舎は思いの外長く、結構壮観。門のあたりでは隊員が出入していて、煉瓦舎が決して観光用ではなく実際に使われている様子が分かる。
ゆうゆうロードから次の交差点の向こうに官舎のような鉄筋アパートがある。その交差点を渡って、アパートの前を左折。すると公園のように植栽があり、やがて“旧陸軍第11師団司令部跡”の石碑がある。その直ぐ横に出入口があるが、警備用の車の進入を阻止する背の低い障害物を置いている。ここが乃木館の入口と思い、覗き込むと中からヘルメットを装着した自衛官が出て来た。さすがに動作はきびきびしているが、どうやら女性のようだ。乃木館は水曜で休館とのことだが外観の観光だけなら可能と事前に聞いてやって来たので、入れて頂きたいと説明。(そう善通寺は水曜定休なのだろう。)よく見るとそこには警備用の小屋があり、対応した女性自衛官は一旦上官らしき奥にいた隊員に説明し戻って来て、乃木館の外観だけなら入場可能で、付近に展示している航空機や戦車の見学もできるとのこと。但し、入場名簿に住所氏名を書くように指示され、署名し入門時刻を記入。目前の鬱蒼と茂り過ぎた並木道に進入した。
やがて、明らかに明治期の洋館と分かる2階建ての建物が見えて来た。瀟洒な印象だが、簡素な造りだ。建物をみて雰囲気を味わうだけでも、結構価値ありと思える。建物わきの掲示板によれば、明治31年(1898年)10月に四国全域を管区とする第11師団が設置され、その初代師団長として乃木将軍が2年8ヶ月在職したという。現在は1階を第14音楽隊が、2階を資料館として使用しているとのこと。
建物の前、並木道の左側に自衛隊が使っていた航空機、戦車などが展示されているのが分かるが全貌は視認し難い。一番手前、乃木館に近い所に、かつてのジェット戦闘機F86Dが置いてある。航空自衛隊創設期に使用した主力戦闘機はF86Fだったが、前面はジェット・エンジンの空気取り入れ口がパックリ開いていてレーダーは装備しておらず、全て有視界飛行で行動していた。それに対し、F86Dは機体はF86Fと同じだが、有視界飛行の弱点をカバーするため前面にレーダー・ドームを設置しているので、特に夜間戦闘機と称されていたと記憶している。だが、武装はF86Fは機関砲6門に対し、F86Dは何故か機関砲の装備はなくロケット弾のみ。赤外線自動追尾のミサイルを装着できるならともかく、無誘導ロケット弾ならば、空戦は不可ではないかと思われ、従いF86Fの補助的な起用だったのではないか。展示されている機体は、既にジェットエンジンは撤去されているのか、前面から覗くと向こうが見えた。操縦席を覗こうとしたが、分厚いアクリルの風貌は透明性がなく、座席も荒れたままの状態で計器類もきちんとはしていないように見えた。隣の双発ヘリコプターV107の操縦席もほとんど荒れ果てたまま。使われていないものに、一々手入れメンテすることは無いのは当たり前なのだろう。他にはUH-1J、機体が小型涙滴型のOH-6Jが展示されている。
その後ろには戦車、装甲車群がある。74式自走105mm榴弾砲、75式130mm自走多連装ロケット弾発射機、61式戦車、74式戦車、60式装甲車があった。61式戦車は戦後初の国産戦車。確か陸自ではそれまで戦車を特車と呼んでいた。74式戦車は2代目の国産戦車で、これで稼働当時、世界水準の戦車が出来たと言われていたと思う。
これらを見ている内に、小雨から本降りとなった。幸いサブバッグには携帯傘を用意していたので、それを差して視察。入口の先程の女性自衛官に、挨拶し名簿に出門時刻を記入して出る。
(今回の投稿には思わず時間がかかってしまい、いつもよりほとんど24時間遅れとなってしまった。書き始めると長々となってしまい、表現の仕方にまだまだ稚拙さありか、御容赦賜りたい。考えてみれば、この香川での1日は書ききれていない部分もあり、久しぶりの濃密な時間だったように思う。)
ゆうゆうロードから次の交差点の向こうに官舎のような鉄筋アパートがある。その交差点を渡って、アパートの前を左折。すると公園のように植栽があり、やがて“旧陸軍第11師団司令部跡”の石碑がある。その直ぐ横に出入口があるが、警備用の車の進入を阻止する背の低い障害物を置いている。ここが乃木館の入口と思い、覗き込むと中からヘルメットを装着した自衛官が出て来た。さすがに動作はきびきびしているが、どうやら女性のようだ。乃木館は水曜で休館とのことだが外観の観光だけなら可能と事前に聞いてやって来たので、入れて頂きたいと説明。(そう善通寺は水曜定休なのだろう。)よく見るとそこには警備用の小屋があり、対応した女性自衛官は一旦上官らしき奥にいた隊員に説明し戻って来て、乃木館の外観だけなら入場可能で、付近に展示している航空機や戦車の見学もできるとのこと。但し、入場名簿に住所氏名を書くように指示され、署名し入門時刻を記入。目前の鬱蒼と茂り過ぎた並木道に進入した。
やがて、明らかに明治期の洋館と分かる2階建ての建物が見えて来た。瀟洒な印象だが、簡素な造りだ。建物をみて雰囲気を味わうだけでも、結構価値ありと思える。建物わきの掲示板によれば、明治31年(1898年)10月に四国全域を管区とする第11師団が設置され、その初代師団長として乃木将軍が2年8ヶ月在職したという。現在は1階を第14音楽隊が、2階を資料館として使用しているとのこと。
建物の前、並木道の左側に自衛隊が使っていた航空機、戦車などが展示されているのが分かるが全貌は視認し難い。一番手前、乃木館に近い所に、かつてのジェット戦闘機F86Dが置いてある。航空自衛隊創設期に使用した主力戦闘機はF86Fだったが、前面はジェット・エンジンの空気取り入れ口がパックリ開いていてレーダーは装備しておらず、全て有視界飛行で行動していた。それに対し、F86Dは機体はF86Fと同じだが、有視界飛行の弱点をカバーするため前面にレーダー・ドームを設置しているので、特に夜間戦闘機と称されていたと記憶している。だが、武装はF86Fは機関砲6門に対し、F86Dは何故か機関砲の装備はなくロケット弾のみ。赤外線自動追尾のミサイルを装着できるならともかく、無誘導ロケット弾ならば、空戦は不可ではないかと思われ、従いF86Fの補助的な起用だったのではないか。展示されている機体は、既にジェットエンジンは撤去されているのか、前面から覗くと向こうが見えた。操縦席を覗こうとしたが、分厚いアクリルの風貌は透明性がなく、座席も荒れたままの状態で計器類もきちんとはしていないように見えた。隣の双発ヘリコプターV107の操縦席もほとんど荒れ果てたまま。使われていないものに、一々手入れメンテすることは無いのは当たり前なのだろう。他にはUH-1J、機体が小型涙滴型のOH-6Jが展示されている。
その後ろには戦車、装甲車群がある。74式自走105mm榴弾砲、75式130mm自走多連装ロケット弾発射機、61式戦車、74式戦車、60式装甲車があった。61式戦車は戦後初の国産戦車。確か陸自ではそれまで戦車を特車と呼んでいた。74式戦車は2代目の国産戦車で、これで稼働当時、世界水準の戦車が出来たと言われていたと思う。
これらを見ている内に、小雨から本降りとなった。幸いサブバッグには携帯傘を用意していたので、それを差して視察。入口の先程の女性自衛官に、挨拶し名簿に出門時刻を記入して出る。
(今回の投稿には思わず時間がかかってしまい、いつもよりほとんど24時間遅れとなってしまった。書き始めると長々となってしまい、表現の仕方にまだまだ稚拙さありか、御容赦賜りたい。考えてみれば、この香川での1日は書ききれていない部分もあり、久しぶりの濃密な時間だったように思う。)
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