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西研・著“哲学の練習問題”を読んで

東京では新型ウィルスの感染者数は500人に迫る勢い。これまで0だった岩手では複数の感染者。沖縄等、島嶼地域で既に医療崩壊が起きようとしている。全国感染者数(下図)は第一波を既に上回っている。
それにもかかわらず日本の政権は無為無策。思考停止の脳死状態。これで説明責任など果たせる訳がない。アホアホ内閣のトップは一向に公式の場に顔を出さない。国会は閉じたままだ。これでもなお、この無責任内閣を日本人は支持するのだろうか。国民はその水準以上の政治を実現できないらしいが、その論を証明しようとしているかのようだ。
米国やブラジル以外の欧州及びアジア各国では、今や新型ウィルスの感染はかなり抑制できているようだ。ところが、政権が脳死状態の日本だけは今や第一波をしのぐ感染の拡大を見ている。何かが間違っているのは確かだ。



一時期混乱した感染拡大をコントロールして、社会活動を平常化することが現在の政治の主要な任務である。そのために感染をコントロールするには、PCR検査を徹底して実施し、感染者つまり陽性者を隔離する。陰性者は社会活動を活発に行う。これが、新型ウィルスを抑制しつつ社会を活発化させる基本政策だ。単純なことだ。ある朝のテレビ番組での主張の当初からの基調路線だったし、私も全く正しい議論だと考えている。

ところが、アホアホ政権が主導する日本政府はPCR検査を実施することを不徹底のまま放置し、残り火を残したまま、その火に“Go To Travel”キャンペーンという油を注ごうとした。そして、“Go To Trouble”のドツボにハマった格好だ。これが感染第二波の原因だ。要するにアホアホそのままの政策。基本的に間違えたのだ。明らかに政権による為すべきことの不作為と間違った政策の実施なのだ。これが“日本モデル”と胸を張れる状態なのか。

このあたりの議論が日本の選良達によってどの様になされるのか見たくて、“朝生テレビ”を見て愕然としたのだった。
要するに、ここでの議論は私はこんなことを知っている、その背景にはこんな人的ネットワークつまり人脈を持っていて、こういう情報を得ているという自己PRとしか思えないような議論ばかりを展開していた。一向に日本のPCR検査不徹底の原因とそれをどうすれば良いのかという議論に立ち至らないのだ。
例えば、折角、ある医療ガバナンスの専門家が、科学雑誌のネイチャーやサイエンスでは新型ウィルスの対策のPCR検査の徹底実施についての有効性を示す特集を組んでいて、それが感染抑制政策のグローバル・スタンダードになってしまっているにもかかわらず、“専門家会議”のメンバーには未だにPCR検査無用論を唱える人物が居たりしている。と発言したとたんに、専門家会議にはいろんな人物が居て当然なのだが、問題はその議事内容の詳細が公表されないことだと、混ぜ返す元ジャーナリストにして元政治家が居たりする。
あるいは、厚労行政の政治家は、日本のPCR検査能力は当初よりかなり増えてきていて、今や数字の上では韓国に並ぶ能力になった!と胸を張った。実際には、その水準にまで検査が実施されていないことが問題なのであり、人口数から言って、日本では韓国の倍以上の能力が無ければ十分ではない、にもかかわらず、こんな調子だ。*
これが、日本の選良なのだ。もう、何だか脳が腐っているとしか思えない。そこから先、この深夜番組を見ることが時間の無駄に思えたのだった。

8/1のworldometersのデータによれば日本の検査数は世界214カ国・組織中157位の人口百万人当たり6,375件で、スリランカの7,480件(150位)やフィジーの7,462件(151位)、セネガル6,477件(156位)より低い。日本は発展途上国だ。開発の余地は大いにある、ヨカッタネ!

一方では景気回復局面が2012年12月から始まった18年10月で途切れ、景気後退に入ったと先週判断したという。エッ?!その判断1年以上経ってからなの?オッソ!遅すぎる判断ではないか!日本政府の経済の専門家はオバカ?それなら昨年の消費税増税は、景気が悪くなっている局面で実施したことになる。アホノミクス極まれり!!

朝のテレビ経済番組で、国際金融論のコロンビア大学・伊藤隆俊教授は新規国債の発行額の推移(下図:伊藤教授の図を筆者が財務省データを元に再現)を示して、日本の財政の危機を訴えていた。財務健全性を見せるために、財務省は様々な指標を提供しているが何が正しくそれを示しているか不明なデータばかりだが、この新規国債の発行額は実態を正しく反映しているデータと考えられる。
確かに非常事態では、一時的な財政赤字は仕方ない。だが問題は図を見て分かるように、一寸経済が悪くなればその度に危機と称して国債を増額発行して財政出動している点だ。そして、その後は緊縮して一旦新規発行は減らしている。しかしながら推移グラフでわかるように結果として必要な支出を抑制はするが、危機の都度、ズルズル発行額自体が増加している。これでも必要な政策が恒常的にできていないことが問題なのだ。例えば、将来日本の成長に必要な教育・研究には財源を減らしている。最近は東大も研究開発のための資金調達に独自の大学債の発行を検討しているという。もはや国立大学の私立大学化と言ってもよい。東大すらも追い込まれているのだ。
しかもこの度は新型ウィルスの感染流行で、レベルの異なる巨額の新規国債発行90兆円となった。
伊藤教授はこのように説明して、財政赤字が生む経済の問題点を次の3点にあると言っていた。
[短期的問題]利払い・元本返済の増加⇒政策的経費が(まともな政策〈予算が計上〉ができない)
[中期的問題]国債格下げの懸念⇒一般事業会社の社債の評価も下がる(高金利で資金調達困難化)
[長期的問題]国債の買い手不在へ⇒金利上昇(⇒利払いの上昇⇒元本返済の増加・負のスパイラル)
私が最も懸念したのは、国債の評価が下がれば、その国の“一般事業会社の社債の評価も下がる”と言う点だ。要は、債権の評価は、その国の国債を頂点にして定まる点にある。



今は国の予算は有効に使わなければならない時期。それにもかかわらず、まだアホノマスクを配るというアホアホ。遂に、先週末さすがに、これをも又急遽撤回した。オバカはもういい加減にして欲しい。



さて、今回は西研・著“哲学の練習問題”を読んだので報告したい。西研氏は先月末に投稿したNHK100分de名著シリーズの“カント『純粋理性批判』”の著者だ。西が姓で、研が名前、全体で異常に短いフルネーム。テーマ対象の“純粋理性批判”は非常に難解だが、それを実に分かり易く解説してくれていたので、この人の本を読みたくなった。それで先ずは、この人の哲学入門書を読みたいと調べた結果、この本がそうだと分かり入手して読んだ訳だ。だが、この本、残念なことに市中には最早ほとんどない。出版社も増刷の意思はないようだ。つまり、事実上絶版の危機にある。
この本の“あとがき” に“この本の原型は、1997年に1年間、毎日新聞の日曜文化面に掲載した「哲学の練習問題」である。その後『自分と世界をつなぐ 哲学の練習問題』(NHK出版)として単行本になっていたが、しばらく絶版となっていた。このたび文庫化するにあたって、必要な箇所をアップデイトするだけでなく、各章の終わりにかなりの数の項目を新しく書き足した。”とある。つまり、結果として原著者が推敲に推敲を重ねた本である。非常に読みやすいし、頭に入りやすい本だった。その点で名著ではないか。
著者は若い人を対象に“哲学しながら読んでみてください”と言っている。“皆さんが、生きることを根っこから考えるための参考になれば、幸いです。”と言っているが、私のように薹(とう)の立った人間でも、十分に読んで役立ったと感じた。読み終えた今、子供にも読ませたいと、今や市中にない本を手配した。

前に書いた繰り返しになるが著者によれば、西洋哲学の認識論はデカルトの“我思う故に我あり”に始まり、大陸系合理論のスピノザ、ライプニッツを経過しカントに至るが、一方、英国経験論のロック、ヒュームに衝撃を受けたカントは、大陸系合理論と経験論を論理的に統合した。そのカントを現代に継承したのが、フッサール現象学であるという。そして、西研氏はそのフッサール現象学を専門にする哲学者である。この本も、その現象学的立場から遠慮がちに書かれていると見られる。だが、できればその現象学に一旦、ドップリ浸かってみるのも、一興ではないか。
別にある同氏の“集中講義 これが哲学!―いまを生き抜く思考のレッスン”が入門書だというが、そうならばこの本は、そのさらに入門一歩手前の書となる。但し、この本にはヘーゲルは登場しないという。だから同氏のヘーゲル論を知りたければ、“NHKブックス・ヘーゲル・大人のなりかた”を読めば良いらしい。だが、この本は残念ながら絶版のようだ。
またニーチェも“集中講義”の本には登場しないようだが、今紹介するこの“練習問題”には人生の悩みにはニーチェを知っておいたほうが、生きる力になると言って、共著の“知識ゼロからのニーチェ入門”を強く推している。しかし、この本も絶版になっている。今、哲学は一部では流行になりつつあるようで、まぁ、電子版は入手可能のようだが、紙の本はバカ売れという状態ではないようだ。電子版はPDFで扱えるのかどうかまでは研究していないので、私は紙の本に血眼状態なのだ。PDF以外でのアプリケーションとなると、それをサポートする出版社がやる気を失ったり倒産してしまえば、それで“全てパァ”になるのを懸念しているので、電子版は今のところ避けている。
また表紙や各章各項目の初めに提示されている挿絵・イラスト(川村易氏による)がシュールで面白い。この点にも神経の行き届いた、手抜きのない良書だ。

プロローグではこういうことが“哲学”ではないか、という著者なりのイメージを示してくれていて、それがこの本のベースになっている。それは“ものを考える素心を大切にすること”、“さまざまな疑問を解消するための思考方法を考えること”ではないか、とのこと。そしてその目的は一つ、“ソクラテスの弁明”にある“健康よりもお金よりももっと大切なことは〈魂の世話〉*である”というのだ。他者との対話のなかで、互いの魂の触合いと互いに納得できる答えを得る時の“満足感とうれししさが「哲学すること」にはある”という。

*魂の世話:今は著者西研氏は“魂への配慮”と言っている。何だか循環論になるようだが、魂を高めるために精進(哲学)することであろうか。東洋風には“徳を積む”ことか。この辺は、西研氏の“別冊NHK100分de名著 読書の学校 西研 特別授業『ソクラテスの弁明』”を読むべきかも知れない。

第1章の“神秘的なもの”をどう考えるか、が練習問題の最初の課題スタートとしているが、著者によれば読者の好きな順序で読んでよいと言っている。項目としてはのようである。
“「虹の身体」*は事実なのか”、“生まれ変わりは証明できるか”、“「幽霊はいるか」テツガクしてみよう”、“人生の「真理」を語る人にどう対処すればいいか”、“客観的なただしい考え方はあるか”等々。とのかく事実認識についてどう考えるべきかを論じている。先述した、認識論に関わる部分だ。デカルト、ヒューム、カント、フッサールの連鎖に沿った説明だと思えばよい。“意味世界をどうやって探求するか”の項で、フッサールの現象学の概要を分かり易く説明してくれている。

*チベット密教の言葉で、“悟りを開くと身体が縮んで消え去り、いつでもどこでも必要とあらば姿を現わせるようになる”という神秘体験のこと。

この本には出てこないエピソードだが、孔子が“怪力乱神を語らず”、つまり根拠のない怪しい論はしないと科学未発達の古代社会に在って断言していた天才的慧眼には脱帽である。カントもいくら考えても無駄な議論があると断言したのだ。しかし、これまた古代に生きたブッダも自分の子供を亡くしていつまでも悲しんでいる女性に対して、亡くなった子供はいくら悲しんでも戻らないから、これからは自分の生き方を考えなさいと慰めた、という対応には考えさせられる。要するに無駄な悲しみは一旦捨てよとの考え方。こうした認識に対する態度は生きる上で重要なのだ、と改めて思った。
第2章の“人間の本性をテツガクする”は第1章の続編である。人間の内面をどのようにテツガクするかが語られている。微妙に心理学と交錯する部分でもある。

第3章の“「生きる意味」を問う”では、特にニーチェが取り上げられていた。人生に悩む人には元気づけられる哲学だというのだ。恥ずかしい話だが、ニーチェがそういう点で評価され、そこに“実存”哲学の本領があるのだとは知らなかった。ニヒリズムの権化と誤解していたからだ。以後、お勉強したいと思った次第だ。

この本の私にとっての真骨頂は最終章の“第4章 自分と社会はどうつながっているか”の“正義論”についてであった。日本社会に正義感が薄れて、忖度による保身が隆盛を極めていると感じている。安倍政権はこの政権周囲の官僚の忖度によってヌクヌクト延命し、安心して利権を貪っている。PCR検査が十分に実施されないのも、正義感なく自己保身に走っている官僚の御蔭だと言って過言ではない。
ここには、現代の正義論の3つの立場を次のように分かり易くまとめている。この3つの立場には結論は出ていないというのだが、少なくとも著者はリバータリアンの立場を取っていないことが分かる。
①リベラル派の立場:“正義論”で有名な米ロールズに代表される。“個々人の自由を最重要な価値とみなし、各人の自由の保護を社会正義の核心とする。”本人の責任でない格差は不公正と考え、機会均等をもたらすことが必須であるとする。
②リバータリアン(自由至上主義者)の立場:“自由を最重要な価値とみなす点ではリベラル派と一致するが、格差是正”の政策一般には強く反対している。
③コミュニタリアン(共同体主義者)の立場:米ロールズの弟子・サンデルに代表される。リベラル派の“自由”に懐疑的。単なる個人の自由の確保ではなく、固有な歴史と事情を地域で共有されている価値観“共通善”を尊重することで正義を実現させる。確か、テレビの“ハーバード白熱教室”でマイケル・サンデルが従来のリベラル派の考え方に生じる問題点を、指摘していたのを記憶しているが、残念ながら具体的に何だったか覚えていない。

“正義とは、人々どうしの約束から生まれる「ただしさ」の感覚であり、だからこそ、それを破る行為に対して「約束がちがう」と感じる”コト。
この約束とは“(共同体内で)互いに仲間となり、対内的には平和共存・共栄し、対外的には共同で(共同体内を)防衛しよう。そのために一定のルールをつくって守っていこう”というコト。《共存の意思》(括弧()内は筆者の追記)
この“共存の意思”を普遍化した究極がルソーの《一般意思》と言えるものではないか。その一般意思が蹂躙されると、“メンバーシップの感覚じたいが弱体化し国家の分裂につながる”ことをルソーは繰り返し語っているという。それを煽っているのが、反知性主義のトランプ政権であり、その亜流とも言える安倍政権ではないか。いずれも反知性主義だ。
共同体の外へ出たパレスチナとイスラエルの対立は、相互に《共存の意思》が成立していないことによる。だから、双方の正義の根拠を議論するより相互理解が重要なキィ・ワードになる。
このように“正義は《共存の意思》から生まれ”、“その正義の核心を、相互理解を進めることによよって、より公正な条件を社会に育てていこうとする努力と呼んでみたい。”
また“教育の機会均等”は公正な民主主義社会を形成するための“自由な活動を行うための前提条件”だと著者は指摘している。やはり、教育は重要なのだ。

最後のエピローグでは、哲学は難解な議論のオンパレードだが、それを克服するコツを提示してくれている。
難解な概念には“細かく一つ一つの語義を詮索するのではなく、〈いったいこの著者は「何を」問うているのだろう〉また〈「なぜ」こんなことを問うのだろう〉と考えてみることだ。”という。これは、NHK100分de名著シリーズのカント“純粋理性批判”で放映した時も語っていた内容だ。しかし、このことはテキストには書かれていなかった。“どういう生の状況からこの問いは生まれてきたのか、その問いに対して著者は一言でいってどう答えようとしているのか”考えることが大切だという。この“一言”に集約することも相当に困難な作業に違いないが、達成できれば眼前が明るくなるのは必定なのだろう。



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