The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“世界経済はこう変わる”を読んで
10歩遅れの読書、今回はそういった印象を与える本を取り上げる。と言うのもブックオフで見つけた刺激的標題で、2009年5月発行となっている本だからである。あたかも偶然見つけた本のような言い方だが、最近 衛星放送のTVチャンネルを捻っていて、不安定な欧米金融市場の解説をしている2つの別の番組があって、そこで よく似た斬新な解説をしている別々の識者が居た。私はその見解が ある経済学者の間での“常識”になっているのかと思い、どういう分析結果なのか知りたいと思った。その内の一人が小幡績(おばたせき)氏で、『すべての経済はバブルに通じる』という本を書いた気鋭の経済学者だった。もう一人は諸富徹氏だったが、こちらは気軽に読めそうな著書が少なかったようなので、小幡氏の著書を追っかけていて見つけた本がこの本だったのだ。
この本は この慶応大准教授の小幡氏と、米国で金融コンサルタントを展開する神谷秀樹(みたにひでき)氏の対談を本にしたものである。初対面の対談とは言うものの、二人の認識ベースが一致するような部分になると議論が飛躍する傾向にあり、読者が論理を追いかけるのに辛い部分が多い。これが対談を本にしたものの特徴なのだろう。しかも、資本主義批判というか、現代文明への批判に通じるところがあるため、読解には、歴史学、経済学の広範な知識が必要となる一方、金融実務の話題も出てくる。特に、経済システムの歴史的転換という観点で、産業革命ではなくてルネッサンスでの世界観の転換に着目していることに、注目するべきだ。
さて、冒頭の台詞を繰り返すが語られているテーマは古い。つまり、リーマンショック覚めやらぬ時期に、今後どうなるかという数年前のテーマなのである。ところが、読んでみると分かるが いささかも古さを感じさせず、しかも当時の予言めいた発言が、数年後の現在 そのまま現実の現象として生起しているのには驚かされる。ここに、“10歩遅れの読書”の意義を感じる次第だ。そして、その論理の延長にある将来世界の惨憺たるイメージに 恐怖さえ覚える。圧巻は小幡氏の次の発言である。
“僕自身は'経済危機は現在'第3幕の前半で'最悪の場合'第4幕までありうると思っています。
第1幕は'2007年8月のパリバショックではじまり'これ以来'世界の金融市場が大混乱に陥りました。
第2幕の開始は'2008年9月のリーマンショックで、株や債券'商品など'あらゆる資産が暴落して金融市場は完全に機能不全に陥りました。この結果'金融機関の多くが実質的に破綻し、金融取引が成り立たなくなりました。
第3幕は'実体経済に危機が転移した段階です。現在'これが進行中です。
そして第4幕は'政府が財政破綻し、通貨が価値を失う段階です。これが'アメリカについて起きれば'世界は基軸通貨を失い'真に世界経済が崩壊します。これは'実質破綻した金融機関や、効率の悪い自動車会社などを救済するために'財政出動をしすぎた場合に起こる可能性があります。こうなると、世界経済全体がゲームオーバ-になってしまいます。そんな第4幕まで行かなければいいと思っていますが'可能性はゼロではないところが怖い。”
対談の相手の神谷氏もこの見解には同意しており、“現在の世界経済は'1929年(10月24日) のニューヨーク証券取引所での株価大暴落にはじまる世界恐慌並みの状況に'すでに突入していると思います。そのすべての過程が1合目から10合目まであるとすると'おそらくまだ2合目ぐらいで,これからまだ8合目ぶん進まなくてはいけません。”
そして、小幡氏は、この恐慌の回復まで10~20年以上かかり、米国が戦争を起こしてもかつてと状況が変わっており回復できないと分析している。しかし、中国は真っ先に回復するだろうし、この時 基軸通貨は無くなっているだろうとも指摘している。
その後の現実はどうなったのか、米国当局は 日本と同様に銀行に公的資金注入し、長金融緩和QE1、QE2を実施。これがハイパーインフレになるだろうと対談では述べられていたが、そうはならずに国際的な食料、資源価格の高騰につながって行った。恐らく 米ドルが国際基軸通貨であり、経済がより国際化していることによる影響で、マネーが米国内に留まらなかったことによるものなのだろう。だがその中で、米国の企業業績は すばやい対応で何とか回復してきたが 一方、米国内の住宅市場は一向に回復せず、雇用も回復せずに今日に至っている。銀行も シティはいち早く不良部分を切り離し、手を広げすぎた部分は売却し、公的資金の完済を済ませ回復してきている。つまり、企業は回復、個人というか国民経済は不振にあえいでいるという 日本化が進んだと見てよい。そして、まさに“中国は真っ先に回復”し、バブルに踊っている。
これが、小幡氏の“先に触れた宗教学者の島田裕巳さんがよく「日本は世界最先端だ」といっています。いい意味でも悪い意味でも最先端で、今回の世界金融不動産バブル崩壊も'1990年代に20年早く済ませていたし、不良資産処理,公的資金注入、ゼロ金利'量的緩和と'すべて日本で起きたことが世界で起きています。”という発言に符合するのだろう。
また、同氏の“どこかの国でデフォルトが起きて、これがショックとなって、アメリカ経済は一気に崩壊する可能性がありますね。たとえば'欧州の小国がデフォルトし、それが英国ポンドの暴落'英国政府の財政破綻をもたらし、これをきっかけに'アメリカ債と米ドルが暴落してしまう、といったシナリオは十分に考えられます。”といったところはそのままの現実となり始めているのには注目するべきだ。
小幡氏は盲目的とも言える金融緩和や財政出動というような過剰な貨幣供給には批判的で、現代のケインズ解釈は間違っていると指摘し、“クルーグマンの議論の背景には、今回の経済危機は,基本的には循環的な危機であって、財政出動によって難局を乗り切れば'必ずアメリカ経済は復活する、という信念あるいは願望があります。この考えが一番危ない。ワースト・シナリオとしては,思い切って財政出動した結果、それが効いたように見えることで、その政策が支持を受けて、さらに拡張されることが一番危険です。”と言っている。
この議論の根拠は この本では十分に明らかにされておらず、恐らく『すべての経済はバブルに通じる』に書かれているのだろう。神谷氏も冒頭のプロローグで既に“(小幡)先生は「キャンサー・キャピタリズム」という単語に'また私は「強欲資本主義」という単語に、増殖を止めるという機能を失った人間の欲が牽引する経済を表し、それが引き起こすであろう問題に懸念を持ち'あるいは憤慨し、世に訴えることが重要だと考えました。”と指摘している。
また神谷氏は「強欲資本主義」は、責任を有限化する株式会社の無責任経営に起因するとも指摘し、それが際限ない規模拡大競争につながって、特に金融機関の無用な巨大化につながってしまったとも言っている。旧来の銀行のビジネス・モデルは古くなって来ており、それがこの本でも指摘している米国型投資銀行の発足を生み、それと「強欲資本主義」の連携が リーマン・ショックの要因となっていると思うが、これへの神谷氏の回答が規模への縮小と、原点回帰であるようだ。つまり 経営戦略スタッフの確保が難しい中小企業へのコンサルティングをベースにした資金調達への支援というイメージの業態(12人程度のコンサルティングLLP)を模索するべきということのようだ。
こういう不況の回復に必要なものは何か、次にくる時代は何かということについて、神谷氏は“新しい資本主義とは何か'ということを考えたときに、資本主義の価値観の根底にあるものは、「お金で測れるもの」と「お金では測れないもの」とに分けられるはずです。で、「お金で測れないもの」の価値を理解するものとして、「感性」が大切になる。それに加えて、恐らく宗教や哲学といったものが真筆に議論される時代が来なければいけないと思うのです。”と言っている。これが、神谷氏のルネッサンスの見直し評価につながっている。
ここまでの議論は理解できるのだが、これ以降の話題の進展には 私はついて行けないものとなっている。小幡氏の日本の回復のヒントがポップカルチャーだという指摘へ発展しているが、私には それが、日本を発展させる契機の1つにはなり得ても、経済を動かすほどの主要エンジンになるとは思えないのだ。さらに小幡氏は“日本全体が感性を社会的に磨きつつあって、それはすごく未来に対して夢を持てることだと思います。ただ、その背後にある思想については、これまで誰も意識して体系化していない。そこが危ういところ”だ、と言っているが そもそも感性を“思想化”するという作業が成立するものなのだろうか。それに、神谷氏の 伝統と創業者精神の回帰偏重、具体的にはそれが松下幸之助氏や豊田創業家への復古趣味は、いささか事業経営には問題があるもののような気がする。
しかしながら、神谷氏のルネッサンスへの注目については、私も今後留意したいとは思う。しかし、より切迫したグローバル世界 つまり過剰な人口と それを支える経済の仕組については、現在文明の原点たる産業革命への目配りの方が、もっと重要な気がする。確かに、“感性”を言うのならば、ルネッサンスの方がより人間味のある文化の絡む課題であるのに対し、産業革命が無機質な印象で興味あふれるものとは言い難いところはあるのは事実なのだが・・・。
この本は この慶応大准教授の小幡氏と、米国で金融コンサルタントを展開する神谷秀樹(みたにひでき)氏の対談を本にしたものである。初対面の対談とは言うものの、二人の認識ベースが一致するような部分になると議論が飛躍する傾向にあり、読者が論理を追いかけるのに辛い部分が多い。これが対談を本にしたものの特徴なのだろう。しかも、資本主義批判というか、現代文明への批判に通じるところがあるため、読解には、歴史学、経済学の広範な知識が必要となる一方、金融実務の話題も出てくる。特に、経済システムの歴史的転換という観点で、産業革命ではなくてルネッサンスでの世界観の転換に着目していることに、注目するべきだ。
さて、冒頭の台詞を繰り返すが語られているテーマは古い。つまり、リーマンショック覚めやらぬ時期に、今後どうなるかという数年前のテーマなのである。ところが、読んでみると分かるが いささかも古さを感じさせず、しかも当時の予言めいた発言が、数年後の現在 そのまま現実の現象として生起しているのには驚かされる。ここに、“10歩遅れの読書”の意義を感じる次第だ。そして、その論理の延長にある将来世界の惨憺たるイメージに 恐怖さえ覚える。圧巻は小幡氏の次の発言である。
“僕自身は'経済危機は現在'第3幕の前半で'最悪の場合'第4幕までありうると思っています。
第1幕は'2007年8月のパリバショックではじまり'これ以来'世界の金融市場が大混乱に陥りました。
第2幕の開始は'2008年9月のリーマンショックで、株や債券'商品など'あらゆる資産が暴落して金融市場は完全に機能不全に陥りました。この結果'金融機関の多くが実質的に破綻し、金融取引が成り立たなくなりました。
第3幕は'実体経済に危機が転移した段階です。現在'これが進行中です。
そして第4幕は'政府が財政破綻し、通貨が価値を失う段階です。これが'アメリカについて起きれば'世界は基軸通貨を失い'真に世界経済が崩壊します。これは'実質破綻した金融機関や、効率の悪い自動車会社などを救済するために'財政出動をしすぎた場合に起こる可能性があります。こうなると、世界経済全体がゲームオーバ-になってしまいます。そんな第4幕まで行かなければいいと思っていますが'可能性はゼロではないところが怖い。”
対談の相手の神谷氏もこの見解には同意しており、“現在の世界経済は'1929年(10月24日) のニューヨーク証券取引所での株価大暴落にはじまる世界恐慌並みの状況に'すでに突入していると思います。そのすべての過程が1合目から10合目まであるとすると'おそらくまだ2合目ぐらいで,これからまだ8合目ぶん進まなくてはいけません。”
そして、小幡氏は、この恐慌の回復まで10~20年以上かかり、米国が戦争を起こしてもかつてと状況が変わっており回復できないと分析している。しかし、中国は真っ先に回復するだろうし、この時 基軸通貨は無くなっているだろうとも指摘している。
その後の現実はどうなったのか、米国当局は 日本と同様に銀行に公的資金注入し、長金融緩和QE1、QE2を実施。これがハイパーインフレになるだろうと対談では述べられていたが、そうはならずに国際的な食料、資源価格の高騰につながって行った。恐らく 米ドルが国際基軸通貨であり、経済がより国際化していることによる影響で、マネーが米国内に留まらなかったことによるものなのだろう。だがその中で、米国の企業業績は すばやい対応で何とか回復してきたが 一方、米国内の住宅市場は一向に回復せず、雇用も回復せずに今日に至っている。銀行も シティはいち早く不良部分を切り離し、手を広げすぎた部分は売却し、公的資金の完済を済ませ回復してきている。つまり、企業は回復、個人というか国民経済は不振にあえいでいるという 日本化が進んだと見てよい。そして、まさに“中国は真っ先に回復”し、バブルに踊っている。
これが、小幡氏の“先に触れた宗教学者の島田裕巳さんがよく「日本は世界最先端だ」といっています。いい意味でも悪い意味でも最先端で、今回の世界金融不動産バブル崩壊も'1990年代に20年早く済ませていたし、不良資産処理,公的資金注入、ゼロ金利'量的緩和と'すべて日本で起きたことが世界で起きています。”という発言に符合するのだろう。
また、同氏の“どこかの国でデフォルトが起きて、これがショックとなって、アメリカ経済は一気に崩壊する可能性がありますね。たとえば'欧州の小国がデフォルトし、それが英国ポンドの暴落'英国政府の財政破綻をもたらし、これをきっかけに'アメリカ債と米ドルが暴落してしまう、といったシナリオは十分に考えられます。”といったところはそのままの現実となり始めているのには注目するべきだ。
小幡氏は盲目的とも言える金融緩和や財政出動というような過剰な貨幣供給には批判的で、現代のケインズ解釈は間違っていると指摘し、“クルーグマンの議論の背景には、今回の経済危機は,基本的には循環的な危機であって、財政出動によって難局を乗り切れば'必ずアメリカ経済は復活する、という信念あるいは願望があります。この考えが一番危ない。ワースト・シナリオとしては,思い切って財政出動した結果、それが効いたように見えることで、その政策が支持を受けて、さらに拡張されることが一番危険です。”と言っている。
この議論の根拠は この本では十分に明らかにされておらず、恐らく『すべての経済はバブルに通じる』に書かれているのだろう。神谷氏も冒頭のプロローグで既に“(小幡)先生は「キャンサー・キャピタリズム」という単語に'また私は「強欲資本主義」という単語に、増殖を止めるという機能を失った人間の欲が牽引する経済を表し、それが引き起こすであろう問題に懸念を持ち'あるいは憤慨し、世に訴えることが重要だと考えました。”と指摘している。
また神谷氏は「強欲資本主義」は、責任を有限化する株式会社の無責任経営に起因するとも指摘し、それが際限ない規模拡大競争につながって、特に金融機関の無用な巨大化につながってしまったとも言っている。旧来の銀行のビジネス・モデルは古くなって来ており、それがこの本でも指摘している米国型投資銀行の発足を生み、それと「強欲資本主義」の連携が リーマン・ショックの要因となっていると思うが、これへの神谷氏の回答が規模への縮小と、原点回帰であるようだ。つまり 経営戦略スタッフの確保が難しい中小企業へのコンサルティングをベースにした資金調達への支援というイメージの業態(12人程度のコンサルティングLLP)を模索するべきということのようだ。
こういう不況の回復に必要なものは何か、次にくる時代は何かということについて、神谷氏は“新しい資本主義とは何か'ということを考えたときに、資本主義の価値観の根底にあるものは、「お金で測れるもの」と「お金では測れないもの」とに分けられるはずです。で、「お金で測れないもの」の価値を理解するものとして、「感性」が大切になる。それに加えて、恐らく宗教や哲学といったものが真筆に議論される時代が来なければいけないと思うのです。”と言っている。これが、神谷氏のルネッサンスの見直し評価につながっている。
ここまでの議論は理解できるのだが、これ以降の話題の進展には 私はついて行けないものとなっている。小幡氏の日本の回復のヒントがポップカルチャーだという指摘へ発展しているが、私には それが、日本を発展させる契機の1つにはなり得ても、経済を動かすほどの主要エンジンになるとは思えないのだ。さらに小幡氏は“日本全体が感性を社会的に磨きつつあって、それはすごく未来に対して夢を持てることだと思います。ただ、その背後にある思想については、これまで誰も意識して体系化していない。そこが危ういところ”だ、と言っているが そもそも感性を“思想化”するという作業が成立するものなのだろうか。それに、神谷氏の 伝統と創業者精神の回帰偏重、具体的にはそれが松下幸之助氏や豊田創業家への復古趣味は、いささか事業経営には問題があるもののような気がする。
しかしながら、神谷氏のルネッサンスへの注目については、私も今後留意したいとは思う。しかし、より切迫したグローバル世界 つまり過剰な人口と それを支える経済の仕組については、現在文明の原点たる産業革命への目配りの方が、もっと重要な気がする。確かに、“感性”を言うのならば、ルネッサンスの方がより人間味のある文化の絡む課題であるのに対し、産業革命が無機質な印象で興味あふれるものとは言い難いところはあるのは事実なのだが・・・。
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