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東芝“不適切”会計問題

このところ東芝の“不適切会計問題”で報道がなされている。先週、元・現社長の経営者3人の辞任が発表された。
どうやらリーマン・ショック以降、さらにその後の福島原発事故以降の収益低下に関連して、会計操作したことが問題となっているようだ。だが、そうした内部の情報がどうして明らかになったのか未だ知らない。おそらく、内部通報者が居たのだろう。

しかし、リーマン・ショックや福島原発事故が東芝に与えたダメージは大きいものではあったようだが、それを隠さなければならない程のレベルではなく、しかも赤字転落する程のものではなかった、という報道もあった。それに、リーマン・ショックや福島原発事故は誰しもが想定できなかったトラブルで、これが理由で経営不振となっても、そこからの回復に全力を挙げさえすれば、株主などから問題とはされないはずのものではなかったか。

では、何故会計操作が必要だったのか。それが大きな謎となっている。マスコミの憶測では社長経験者と現役社長の間の確執つまり権力闘争があったのではないか、というのがもっぱらだ。経営者として、政治的にも少しでも上位に就きたい一心の確執であろうか。何だか、言葉は悪いが“目くそ、鼻くそ”のような印象だ。
その結果、海外では株主が不利益を被ったとする訴訟が起きている。正に少しでも弱みを見せると、そこに群がる禿鷹どもの印象だ。しかし、そういう厳しさが無ければ、それは不正の温床となる。東芝にはくぐってもらわなければならない関門だろう。いずれにせよ、何が問題の本質であったのだろう。

組織論的には、会社機能にチェック機構が働かなかったことが問題だ。先ず第一に鳴り物入りで作られた“社外取締役”がどうして機能しなかったかだ。答えは簡単、経理に明るい人が居なかったからだという。しかし、それなりの会社経験者であれば勘が働くものではないだろうか。社外人のいる正式な取締役会には、気取られるような資料は出さない、そんな段取りができるスタッフはそろっているのが大手企業だ。事実、社長が社内で主催する会議で出された会計資料と、社外取締役会での資料の2本立てだったとの一部報道がある。それでもなおわざわざ“社外取締役”を設置する価値はあるのだろうか。
とりあえず、ここまで知らなかったにせよ関与した社外取締役は不明を恥じて辞任するべきだろう。アルバイト感覚で取り組んでもらっては困るのだ。報酬返上もあっても良いのではないか。そうした日本的な矜持は必要ではないか。
もう一つの大きなチェック機構は監査役と監査法人だ。監査役は従来から有効に機能したという“美談”は効いたことが無いので、日本では“お飾り”と諦めるよりないのだろう。
報道の解説では東芝の監査法人はオリンパス事件でも不正を見抜けなかった監査会社だとのこと。この会社、懲りずにまたもや大事件に関与してしまったことになる。この監査法人は他にも有力な一流会社多数の監査を担当している由。これで日本の会社は大丈夫なのかと思ってしまうが、どうやらこれには裏があるという話も一部報道にある。それはそれで、なお一層日本社会の闇を感じるが、それで国際的信用は得られるはずがない。とにかく、会社法の改正も視野に調査検討が為されるべきだろう。

そう言えば、識者の間では不評の第三者委員会の報告書にも監査法人の責任を厳しく追及はしていないという。ある検事経験者の解説では、今後の捜査当局の介入可能性は低いのではないか、というようなコメントもしている。何やら限りなく胡散臭さが漂ってくる。これでは、日本の株式市場は国際的に信用されなくなる。一体、どうするつもりだろうか。

問題の発端は、時の社長による“必達目標を達成せよ。”の指示によるものだという。普通は、この台詞自体に問題は全くない。しかし、この台詞は通常、活動期間が始まる前に社員を鼓舞するために発せられるものだ。この場合の東芝では、どうやら活動期間がある程度終了してほぼ会計の締めが終わって決算の概要が判明した後に発せられたもののようだ。時間を戻せない一般社員にとっては、最早手の施しようがない。そうなると会計帳簿を操作して誤魔化すか、あるいは報じられているように、関係会社と図って部品や製品を急遽やり取りしたりして正規の取引を装うしか手段はない。しかし、そうしたことは明らかに不正だ。
思うに、経営者は済んでしまった過去に拘泥してはならない。逆に過去を厳格に反省して未来に向けて指示を発するのが経営者の仕事だと考える。もし過去に拘泥して指示を発すれば、時間を戻せない一般社員は会計操作という不正をしなければ、“必達目標達成”は不可能なのだ。

このように東芝の社員スタッフは従順に優秀であった。経営者の無理難題を困った表情一つせず、難なく処理し乗り切った。一旦難なく処理されれば、現場の苦労や痛みを知らない経営者は図に乗ってその後も、同じようなトラブルが生じるたびに同じことを迫ってくる。真の原因が解消されずに、大きくなればなおさらに声高になる。こうして不祥事はどんどん大きくなってしまう。リーダーとしての自覚に欠ける人物がトップに立つとこうなってしまうのだ。
その現場近くにいた者 或いは、当事者がたまらずに外部に一件をリークして発覚に至った。それが真相であろう。

問題は、こうした従順で優秀な社員の存在にもある。愚直な硬骨漢や正義漢が社員に居なかったために、不祥事は大きくなり露見してしまったのだ。素直でお利口な人物ばかりを社員として採用しているからこうなってしまうのではないか。或いは、何が正義なのか議論を深める経験なく、或いは哲学的、思想的深みに至らないまま世の中に出るような日本の高等教育システムにも問題があるのかも知れない。特に理工系にそういった教育プログラムに欠ける面があるように思われる。研究者の論文の書き方が問題になったのがはるか以前のような印象があるが、この問題も真剣に検討し解消しておかねば、日本社会を根底から劣化させるような気がして仕方がない。
一方で内部通報者が居たのなら、それがせめてもの救いだ。しかし、こうした既に起こってしまった不祥事として世間に知られたことは会社全体にとって大きな不幸となった。また不満分子が内部通報したというのなら、それも少々問題のような気もする。会社全体がそれいけドンドンでさえあれば、悪事は隠蔽されることになるからだ。

そういう意味で、この“東芝問題”は日本社会にとって結構 根の深い問題かもしれないのだ。そして、それが日本を世界の孤児にしかねないと懸念するのだが、杞憂だろうか。

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