The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
大丈夫か東京五輪
2020年の東京オリンピック開催準備は、出端で新国立競技場の設計で揉めている。どうやら基本的に贅沢な発想が抜けきらない ふやけた高級官僚のなせる業のような気がしてきた。本来は、政治家がこれを引き締めなければならないものが、逆に悪乗りしたのではなかろうか。政官の歪んだ癒着が こうしたプロジェクトで如実に現われた印象すらある。要するに、彼らは国民の税金を無駄遣いするのに何の痛痒も感じていないのだろう。例によって、誰が責任者か今もってはっきりしないし、させようともしない。こういう姿勢にも若干怒りを覚える。
特に、デザイン・コンペの審査委員長の安藤氏の発言に驚きを覚える部分が多々あったのには、大いに落胆し呆れるばかりだった。つまりコンペの条件1,300億円から2,520億円に“増えた理由が分からない”という発言だ。
我々のような建築の素人ならば許されるが、このような専門家が簡単にそんな発言をしてもらっては困るのだ。特に、建築学を“独学で学んだ”というのが売りの人が、このように簡単に訳の分からない発言をすることは許されない。
建築費用の概算を求められれば、ベースが既に明らかになっている以上、資材(主に鋼材、コンクリート等)、人件費、設備機器に分けて、それぞれがどれだけ値上がりしているか精通した業界に問い合わせれば電話1本で直ちにおおよそ分かるはずのものだと私は理解している。巨大キール・アーチ等の特殊な工費の見積もりについても、安藤忠雄のビッグ・ネームをもってすれば誰もが数日かけてでも、無償ででも回答を寄せるはずだからだ。安藤氏自身は遊んでいても、事務所スタッフが少し動いただけで信頼できる概算数値は出せるはずだ。ベースの数値やそれらの数字の間に不明の差異があり、疑惑の部分があるのなら、この際それを明らかにするのも審査委員長として当然の責務だ。
また安藤氏はこうも言った。“あんな大きいもん、私 作ったことないからネ”。ならば、どうして審査委員長に座ったのか。要するに会見ではすべてを誤魔化し、責任を放棄しただけだったのだ。これでいいのか。審査委員長にはそれなりの専門的見識が求められ期待されるもので、そうした見識に基づいて結論を出すのが責任を果たすということではないか。こうした騒動によって、安藤氏へのこれまでの尊崇に近い敬愛の念はすっかり吹き飛んでしまった。
森喜朗氏の言動にも同様の印象があるが、残念ながらその落胆度は小さい。何故ならば、“尊崇に近い敬愛の念”はもともと持ち合わせていなかったからだ。特に、あの牡蠣ドロ発言についても“今頃、何を言うとんネン”という感想。大会組織委員長が全責任を負って五輪準備活動を取り仕切っているハズではなかったのか。
さらに行きがけの駄賃のような、“(国立競技場ばかりではなく、ヨットは)東京湾にすばらしいハーバーを造りたいという夢は分かるが、堤防1本造るのに460億なんです。それを2本やるという。ボートは東京湾の横に新設することになった。ボートコースは造るのに1000億ですよ。”などと当初見積より建設・整備費が高騰している実情を第三者のように語っている。その姿は無責任の極みの印象だ。
しかも、各競技場は元々コンパクトに都内に配置し運営を図るはずだったのが、多くの種目が都外でもやろうと計画が変更されつつある、という。はなはだしいのはサッカーは関西でも開催することに変更されつつあると言う。こうなると元々コンパクト開催で考慮しなくてよかった選手・役員の移動手段や場合によっては宿泊をどうするのか、その際の安全についても検討しなければならなくなるはずではないか。予算経費はさらに増大するばかりではないのか。
国際的に説明した計画と大きく乖離した実行運営は、基本的に問題ではないのか。それが許されるのならば、候補地立候補に当たって適当で耳触りの良い計画を発表・説明し、実施に当たっては全く違うもので対応することも良しとされることになる。ここに日本の政官業の選良たちの劣化ブリを見るような気がする。これは前回の東京五輪では見られなかった光景ではないか。
こういうトラブルの直後、今度は7月24日に採用を公表したエンブレムのデザインが、既に使われているものに酷似しているとの申立てがあったという。実際に見てみると、いずれも良く似ているように思われる。
ベルギー・リエージュ劇場ロゴには、東京オリンピック2020エンブレムの形象が良く似ているし、色遣いではバルセロナの“ヘイ・スタジオ”によるスマートフォンの“壁紙”に酷似しているように見える。特に、東京オリンピック2020エンブレムの右下にある斜辺が四分の一円弧のグレーの三角形がデザイン・コンセプト上不必要であるにもかかわらず、添えられているのが不可解で、これが形の上でリエージュ劇場ロゴをヒントにしたと思われてしまう要因だろう。
それに、様々な色を混ぜ合わせれば黒になるということから黒が多様性の象徴であるという言辞も不可解ではないか。多様性とは、本来各色が自らを鮮明にしてその個々の色をとどめつつ全体に主張することで調和が形成される状態を言うのではないか。各色の個性を殺した黒色になって統一されるというのでは、個を失った全体主義集団であって、そこには本来の多様性は認められない。
さらにこうした多彩な色の中での黒色の色遣いは何だか不吉な印象すらある。そういう強すぎるイメージがあることもあって、かつてのフランスの印象派の絵画にはほとんど黒色の使用はなされていないのではなかったか。むしろ絶対的な黒色はこの世では不自然な色として排除されて来たのではなかったか。
しかも、まさにオリンピック旗は5大陸の象徴として異なる色の5つの輪として表現されているのであって、統一された結果の黒色では表象してはいない。
黒を使うのなら、かつての日本の家紋をイメージするように簡潔で鮮明な黒白のモノクロで示すべきで、その点でベルギー・リエージュ劇場のロゴはむしろスッキリ感があって、優れている。
この度のエンブレムの発案デザイナーは公式にデザイン・コンセプトの分かり易い説明を肉声で行うべきだろう。
東京五輪の開催準備はスタートしたばかりのハズだが、揉めてばかりだ。この調子では これからも揉め事は続出するものだろうが、これまでの様子を見る限りでは危なっかしいような印象を持ってしまう。しかも準備組織が“船頭多くして・・・”の観があり、それが無責任の源泉になるのではないか。
特に、予算の増大は非常に気懸りだ。オリンピックを開催して負の遺産を抱え込む国も多いようだ。このところグローバル・マーケットで問題となっているギリシアはその代表事例らしい。戦争直後の日本がハイパー・インフレに陥って以降 赤字国債発行を厳に慎んで来たが、支出増大をまかないきれずに赤字国債を出したのが、前回の東京オリンピック後であったとされる。この次のオリンピックでさらに赤字幅が増大すれば、それは日本存立の危機だ。
適当な開催計画で五輪を招致し、その計画が実行不可能と見るや、予算を増やして実現させようとするばかりでは将来に禍根を残すばかりだ。最早、人口減少が始まり成熟から衰退への分岐点に立つ日本でのオリンピックの開催は、没落の契機となる可能性は高まっていると不安に感じるのは、私ばかりだろうか。

特に、デザイン・コンペの審査委員長の安藤氏の発言に驚きを覚える部分が多々あったのには、大いに落胆し呆れるばかりだった。つまりコンペの条件1,300億円から2,520億円に“増えた理由が分からない”という発言だ。
我々のような建築の素人ならば許されるが、このような専門家が簡単にそんな発言をしてもらっては困るのだ。特に、建築学を“独学で学んだ”というのが売りの人が、このように簡単に訳の分からない発言をすることは許されない。
建築費用の概算を求められれば、ベースが既に明らかになっている以上、資材(主に鋼材、コンクリート等)、人件費、設備機器に分けて、それぞれがどれだけ値上がりしているか精通した業界に問い合わせれば電話1本で直ちにおおよそ分かるはずのものだと私は理解している。巨大キール・アーチ等の特殊な工費の見積もりについても、安藤忠雄のビッグ・ネームをもってすれば誰もが数日かけてでも、無償ででも回答を寄せるはずだからだ。安藤氏自身は遊んでいても、事務所スタッフが少し動いただけで信頼できる概算数値は出せるはずだ。ベースの数値やそれらの数字の間に不明の差異があり、疑惑の部分があるのなら、この際それを明らかにするのも審査委員長として当然の責務だ。
また安藤氏はこうも言った。“あんな大きいもん、私 作ったことないからネ”。ならば、どうして審査委員長に座ったのか。要するに会見ではすべてを誤魔化し、責任を放棄しただけだったのだ。これでいいのか。審査委員長にはそれなりの専門的見識が求められ期待されるもので、そうした見識に基づいて結論を出すのが責任を果たすということではないか。こうした騒動によって、安藤氏へのこれまでの尊崇に近い敬愛の念はすっかり吹き飛んでしまった。
森喜朗氏の言動にも同様の印象があるが、残念ながらその落胆度は小さい。何故ならば、“尊崇に近い敬愛の念”はもともと持ち合わせていなかったからだ。特に、あの牡蠣ドロ発言についても“今頃、何を言うとんネン”という感想。大会組織委員長が全責任を負って五輪準備活動を取り仕切っているハズではなかったのか。
さらに行きがけの駄賃のような、“(国立競技場ばかりではなく、ヨットは)東京湾にすばらしいハーバーを造りたいという夢は分かるが、堤防1本造るのに460億なんです。それを2本やるという。ボートは東京湾の横に新設することになった。ボートコースは造るのに1000億ですよ。”などと当初見積より建設・整備費が高騰している実情を第三者のように語っている。その姿は無責任の極みの印象だ。
しかも、各競技場は元々コンパクトに都内に配置し運営を図るはずだったのが、多くの種目が都外でもやろうと計画が変更されつつある、という。はなはだしいのはサッカーは関西でも開催することに変更されつつあると言う。こうなると元々コンパクト開催で考慮しなくてよかった選手・役員の移動手段や場合によっては宿泊をどうするのか、その際の安全についても検討しなければならなくなるはずではないか。予算経費はさらに増大するばかりではないのか。
国際的に説明した計画と大きく乖離した実行運営は、基本的に問題ではないのか。それが許されるのならば、候補地立候補に当たって適当で耳触りの良い計画を発表・説明し、実施に当たっては全く違うもので対応することも良しとされることになる。ここに日本の政官業の選良たちの劣化ブリを見るような気がする。これは前回の東京五輪では見られなかった光景ではないか。
こういうトラブルの直後、今度は7月24日に採用を公表したエンブレムのデザインが、既に使われているものに酷似しているとの申立てがあったという。実際に見てみると、いずれも良く似ているように思われる。
ベルギー・リエージュ劇場ロゴには、東京オリンピック2020エンブレムの形象が良く似ているし、色遣いではバルセロナの“ヘイ・スタジオ”によるスマートフォンの“壁紙”に酷似しているように見える。特に、東京オリンピック2020エンブレムの右下にある斜辺が四分の一円弧のグレーの三角形がデザイン・コンセプト上不必要であるにもかかわらず、添えられているのが不可解で、これが形の上でリエージュ劇場ロゴをヒントにしたと思われてしまう要因だろう。
それに、様々な色を混ぜ合わせれば黒になるということから黒が多様性の象徴であるという言辞も不可解ではないか。多様性とは、本来各色が自らを鮮明にしてその個々の色をとどめつつ全体に主張することで調和が形成される状態を言うのではないか。各色の個性を殺した黒色になって統一されるというのでは、個を失った全体主義集団であって、そこには本来の多様性は認められない。
さらにこうした多彩な色の中での黒色の色遣いは何だか不吉な印象すらある。そういう強すぎるイメージがあることもあって、かつてのフランスの印象派の絵画にはほとんど黒色の使用はなされていないのではなかったか。むしろ絶対的な黒色はこの世では不自然な色として排除されて来たのではなかったか。
しかも、まさにオリンピック旗は5大陸の象徴として異なる色の5つの輪として表現されているのであって、統一された結果の黒色では表象してはいない。
黒を使うのなら、かつての日本の家紋をイメージするように簡潔で鮮明な黒白のモノクロで示すべきで、その点でベルギー・リエージュ劇場のロゴはむしろスッキリ感があって、優れている。
この度のエンブレムの発案デザイナーは公式にデザイン・コンセプトの分かり易い説明を肉声で行うべきだろう。
東京五輪の開催準備はスタートしたばかりのハズだが、揉めてばかりだ。この調子では これからも揉め事は続出するものだろうが、これまでの様子を見る限りでは危なっかしいような印象を持ってしまう。しかも準備組織が“船頭多くして・・・”の観があり、それが無責任の源泉になるのではないか。
特に、予算の増大は非常に気懸りだ。オリンピックを開催して負の遺産を抱え込む国も多いようだ。このところグローバル・マーケットで問題となっているギリシアはその代表事例らしい。戦争直後の日本がハイパー・インフレに陥って以降 赤字国債発行を厳に慎んで来たが、支出増大をまかないきれずに赤字国債を出したのが、前回の東京オリンピック後であったとされる。この次のオリンピックでさらに赤字幅が増大すれば、それは日本存立の危機だ。
適当な開催計画で五輪を招致し、その計画が実行不可能と見るや、予算を増やして実現させようとするばかりでは将来に禍根を残すばかりだ。最早、人口減少が始まり成熟から衰退への分岐点に立つ日本でのオリンピックの開催は、没落の契機となる可能性は高まっていると不安に感じるのは、私ばかりだろうか。

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