The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
高台寺拝観―真夏の京都プチ観光
個人的な話で恐縮だが、昨年末頃から足腰のトラブルが引き続いている。対応策として、腕のいい整体師について何とかこれまで、改善してきた。主に左足と腰部の原因を明らかにして施療してもらってきた。
ところが今週今度は、とうとう右膝の関節部分の骨に痛みが出てきた。これは最早筋肉の問題ではなく骨そのものの問題だろうと、近所の整形外科に駆け込んだ。当然のこととして、患部のレントゲン撮影をしたが、そこには何の異常も認められなかった。医師は“骨の中の問題かもしれない。”と言うので、私は“それはガンの可能性がある、ということか。”と聞くと、“・・・・・・”という反応。つまりその可能性は捨てられない、ということ。取り敢えず、鎮痛剤とそれが胃を荒らすので胃薬と患部に貼るシップを処方してくれた。要は、当面の痛み止めで、患部の治療ではない。
膝の骨内のガンとあれば、いずれガン化部を除去して人工関節にしなければならない。それで健常者同様に生活できるのかの不安を背負い込むこととなった。
そこで、その不安払拭に、ここまで足腰のトラブルを解消してくれた整体師の下を訪問。すると微妙な腫れを見つけて、直ちに大腿部から膝、膝から下肢にいたる筋肉の膝での節目、腱の炎症だと診断。“いわゆるランナーズ・ニーと言われる症状”とのこと。ならばかなり一般的な障害だ。そして電気パルスの施療を受けた。ズボンの上からで構わないから、弱くて良いから出来るだけ冷やすように、と言われた。これで、どうやらガンの恐怖に怯えなくて良くなって、一安心となった。
ここで問題だが、果たして整形外科の先生がヤブなのだろうか。この先生、どうやら関西の国立大学医学部出身の医学博士。医学の中で整形外科とはどういう領域なのだろうと、疑問を抱いてしまう。街の整体師を下に見る訳ではないが、科学的学問である限りは、彼らをリードするような知見を持って欲しいものだと思うのだ。少なくともスポーツ医学の一端を担うというのであれば、骨と筋肉の関係は十分に最新の知見を保持して、探求しておいて欲しいのだ。
足腰が弱ってしみじみと公共の場でのエスカレータの有難味を感じるようになった。しかし、今回の私の場合では下りの階段で患部の痛みを強く感じるのだが、下りのエスカレータの少なさには閉口する。その私も元気な場合には下りのエスカレータの意義を感じなかったのは事実だ。その身になって初めてわかるその事実。想像力のなさに情けなさを感じた。
ところで先週は参院選後の臨時国会が開催され、国政政党として認められた障害者である2議員の登院で議事堂内改造が話題になった。だが、私は議事堂内で改めてこのような騒ぎになることに驚いたのだ。何故ならば、数年前ではあるが国会で、バリアフリー・ユニバーサルデザイン施策 の“バリアフリー法”や高齢者や身体障害者などが使う建築物の バリアフリー化を進めるための“ハートビル法”を制定しておきながら、国会自身は率先してこれら法律の精神を体現していなかったことに呆れてしまったのだ。“必要がなかったから”という言い訳が日本のトップで通用するのだろうか。あたふたと改造したが、2議員には不十分だという。これまで一般障害者の国会見学にはどのように対応していたのか、大いに疑問が残る。しかし、マスコミはこの点に何故か触れない。
民間では、駅にエスカレータやエレベータの設置は進んだ。車椅子の人が来ると鉄道会社は職員を1人付けて対応している。バスの運転手は現場で気の毒になるくらい、1人で全てに冷静に対応している。実に頭が下がる。
この国のトップは国民には要求をあれこれ出すが、自らはやらない。今の政府、官僚や議員の先生方の“お偉いさん”の率先垂範精神が全く欠落してしまっていることに大いに問題があると考える。障害者雇用法も政府が率先して実践するべきを、中央省庁は誤魔化してきた事実がつい最近明らかになったではないか。このようなことが常態化していて、話題にすらならないことに国民総痴呆化の危機を感じる。
“丁寧”で“真摯”な対応が“政治”に求められる訳だが、この言葉は安倍氏の多用によって返って、空虚な響きを持つように感じるようになった。安倍政治そのものがその重要な一端を担って来ているように感じるのは私だけなのか。
さて、右膝を痛める前、先週の初めは、審査報告書を事務局に収めるため京都に赴いた。そのついでの京都プチ観光として選んだのが、豊臣秀吉の糟糠の妻・ネネ(寧々)さんが晩年過ごして、墓所となった高台寺であった。
高台寺についてはWikipediaによれば、次のようである。(一部略)
豊臣秀吉が病死したのは 1598年(慶長3年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、・・・東山の現在地に新たな寺院を建立することにした。秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。高台寺の開山は1606年(慶長11年)で、当初は曹洞宗の寺院であった。1624年7月(寛永元年)、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘。この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗している。・・・なお、北政所は同じ寛永元年の9月に没している。
創建当時の高台寺の仏殿は前述の康徳寺の堂を移築・改造したものであり、方丈、茶室などは伏見城から移築したものであった。また、門前に伏見城の化粧御殿が移築されて、北政所の居所とされた。高台寺の西側にある塔頭(山内寺院)の圓徳院がその跡で、北政所終焉の地とも伝わる。
・・・
また高台寺は、江戸時代末期(幕末)の一時期、新選組から離脱した御陵衛士(高台寺党)の屯所となったこともある。その後、近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿、方丈などを焼失。創建時の建造物で現存しているのは、三江紹益を祀る開山堂、秀吉と北政所を祀る霊屋、茶室の傘亭と時雨亭などである。
このWikipediaには言及はないが、秀吉死後、豊臣政権の末期、ネネは大坂城を出て、高台寺に移り、加藤清正や福島正則等秀吉恩顧の子飼いの武将らに、今後は徳川家康に従うよう諭したとされる。このネネの言動は非常に奇異に感じるではないか。
実は、ネネは秀頼を秀吉の実の子だとは思ってはおらず、そのまま秀頼が政権を引継ぐのは、その正統性はなく不条理であると考えたと私は見ている。もし秀頼の政権が継承されるならば、その正統性の無いことから後に大きな政治的混乱を引き起こし、それがむしろ秀吉の歴史的汚名になると恐れ、当時台頭する家康に天下を託したのではないかと私は思うのだ。
なぜならば秀頼誕生時、秀吉は57才、当時ならすでに老境。それまでも女好きで多くの側室を持ちながら、1人も子供を得なかったにも関わらず、なぜ淀君との間にだけ続けて2人の子が生まれたのか。淀君との子で1人目は早逝するが、2人目の子が秀頼となった。ほぼ状況証拠で秀頼は秀吉の実子ではないことは、誰が見ても確実。しかし、当時、絶対的権力者だった当の秀吉がたとえ誰の子であろうと、旧主君信長の血筋の茶々(淀君)の子を自らの正統の実子と公認させたかったので、そのように振る舞ったのかもしれない。
だが、ネネは創業者の血筋では全くない者が、政権の主人として豊臣を名乗るのを良しとせず、むしろ許せなかったのだと容易に想像される。この点で、石田三成の秀吉絶対の立場と大きく異なるのかも知れない。まぁ三成のキャラも、私には理解不能のところ大で、思考が柔軟なのか、硬直しているのか良くわからない。兵站には有能さを発揮したが、戦術・戦闘には全く無能だったのが謎なのだ。私には、山中静かに秀吉の菩提を弔い守りたいというネネの発想は自然なような気がする。
ところで、実際の高台寺には烏丸四条からバスで東山安井に向かう。バス停から東大路を一旦少し南下して次の辻を東へ向かう。この道は、ズーっと歩いて行くと“維新の道”につながっていて、霊山墓地や霊山歴史館に至ることができる。これらはかつてこのブログで紹介したことがある。
やがて、何だかよくわからない古い大門が左手に見えて来た。得体が知れないが、この門についてはどこにも説明はない。
さらに歩いて、左手の北側へ上る緩い坂道が、通称“ねねの道”と分かる。さっそくにそこへ入って行くと、すぐに右手に高台寺入口となっている坂道にでて、これをさらに登って行く。門をくぐって行くと、視野が開け広場を左の建物に向かうと、そこがいよいよ高台寺の入口・受付。ここで圓(円)徳院や掌美術館の入館料も含んだ共通券を購入する。
北側から庫裏を回り込んで、開けた場所に出ると寺の敷地が意外に高所にあることが分かる。名前通り、高台・たかだいの寺なのだ。もう少し高くなれば京都の町を睥睨できる。さすがにネネさんが選んだ土地だ。さらに進んで行くといきなり墓地に出て戸惑う。やがて方丈の裏に出て、ここで靴を脱いで方丈内を見学。現代の画家の地獄図絵があった。方丈の表は勅使門と御庭。さらに方丈表から東の部屋にも地獄絵巻。ここには現代作家と江戸期の絵巻が展示。これで方丈拝観コースは一旦終わり。
偃月池の向こうに池を跨いだ渡り廊下が繋がる開山堂が見え、さらに渡り廊下が山の上に続いている。これが臥龍廊。この開山堂へ中門から入って行く。元来、ネネの持仏堂だったが、現在堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像を安置している。
コースは少し小高い丘に登って行く。何だか工事中の建物。コースに沿って入って行くと、何とそこが御霊屋。これを東側の小窓から覗く形になっている。案内のおばさんが説明していたが、今はこの御霊屋のメンテナンス修復中とのこと。右に秀吉、左にネネさんの木像があるはずだが、秀吉の木像しか肝心のモノが見えない。その裏がネネさんの墓所だと言っていたように記憶している。
オッサンが1人やってきたが、どうやら足下が簡単なビニールのつっかけだったので、顔は見なかったが中国人だろう。日本の歴史を詳しく知らなければ、この寺の由緒は理解できまい、と思うが、どうやらその通りで、どんどん先に進んで行って、有難いことに私の視野から消えた。何しに来たのだろう。まぁどうでも良い話だが。
さらにそこから坂が急になる。登り着いた建物が傘亭、二階家が時雨亭である。両舎とも少し荒れた印象がある。手入れが必要だが、資金不足なのだろうか。
Wikipediaによれば、傘亭は“伏見城から移築したものとされ、千利休好み(=「利休作」の意)の茶室と伝えられる(ただし伏見城建設は利休の自刃後)。宝形造茅葺きの素朴な建物で、内部の天井が竹で組まれ、その形が唐傘に似ているところから傘亭の名がある。” 時雨亭は、“傘亭の南隣にあり、傘亭との間は屋根付きの土間廊下でつながれている。珍しい2階建ての茶室で、2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとする。傘亭同様伏見城からの移築とされ、これも千利休好みと伝える。伏見城「御学問所」に擬する説もある。なお廊下は移転時に付加されたもので、両茶室はもともと別々に建っていたと考えられる。”
大坂夏の陣で大坂城が炎上して、豊臣家終焉の夜、京都から見た大坂方面の空が赤く染まったという。ネネさんはこの高台の茶屋からそれを眺めて、複雑な気持ちで改めて秀吉のために祈ったものと思われる。ここにも歴史の裏で歴史を動かした、賢い女性が居たことが感じられた。
これで、ひとまず高台寺の拝観は終わることになる。後は、高台寺の出口まで下り坂を行くだけである。途中、趣のある孟宗竹の林を抜けた。実は、この下りで右膝に違和感を感じたのだった。これが先週一週間私を悩ませたのだ。
再び通称“ねねの道”に出て、高台寺公園で少々休憩。その後、少し登って左手(西側)に休憩所のような飲食店と何やら祠のようなものがある広場が見えて来る。そこに入ってようやく、掌美術館の入り口があることが分かる。実に分かり難い。もう既に暑さで結構参っていて気力が失われているが、とにかく展示物を拝見。
しかし、残念ながら私には驚くほどの遺物は見当らなかった。甲冑の展示もあったが、戦国当時の軽装化し尚且つ防御力を上げたもの、との表示案内で豊臣家の誰かが着用したとは、なかった。
圓(円)徳院入口は“ねねの道”を少しくだって、左側(東側)の高台寺に行く坂道よりさらに少し下の右側(西側)にあった。朝、来たときは1本の竹丸太で塞がれていたが、この時は除かれていた。門を入ってすぐに、方丈となっている。その南側にお庭がある。これらは全てかつてのネネの居所から移築したものという。
Wikipediaによれば、圓(円)徳院入口は“北政所が晩年を過ごした所と伝えられ、一説には北政所の終焉の地とされる。北政所没後に寺に改められた。” 長谷川等伯筆 襖絵(重要文化財)が展示されていた。これは、“もと大徳寺三玄院の襖絵。廃仏毀釈に際して圓徳院の蔵するところとなる。桐紋雲母(きらら)刷りの唐紙襖に描かれた非常に珍しいもので、等伯が住職に襖絵製作を申し出ていたが許されなかったので、住職の留守中に一気に描きあげてしまったものだと伝えられる。”出口付近の北庭(名勝)は、“伏見城の北政所化粧御殿の前庭を移築したもので、桃山時代の代表的な庭園である。”
暑さに参って、急速に食欲がなくなり、蕎麦が食べたくなった。土地不案内では致し方なく、河原町の高島屋を目指すことにした。通称“石塀小路”を抜けて西進。東山安井交差点を通過して、さらに西進して建仁寺の境内へ入る。さすがに高台寺からは近い。ネネさんがここから高僧を高台寺に招聘したのは分かる。
建仁寺の伽藍を迂回してひたすら西進し、鴨川をわたって何とか高島屋へ。7階の本家尾張屋で“お好みせいろ蕎麦” を食べて何とか一息をつき、午後に備えた。
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ところが今週今度は、とうとう右膝の関節部分の骨に痛みが出てきた。これは最早筋肉の問題ではなく骨そのものの問題だろうと、近所の整形外科に駆け込んだ。当然のこととして、患部のレントゲン撮影をしたが、そこには何の異常も認められなかった。医師は“骨の中の問題かもしれない。”と言うので、私は“それはガンの可能性がある、ということか。”と聞くと、“・・・・・・”という反応。つまりその可能性は捨てられない、ということ。取り敢えず、鎮痛剤とそれが胃を荒らすので胃薬と患部に貼るシップを処方してくれた。要は、当面の痛み止めで、患部の治療ではない。
膝の骨内のガンとあれば、いずれガン化部を除去して人工関節にしなければならない。それで健常者同様に生活できるのかの不安を背負い込むこととなった。
そこで、その不安払拭に、ここまで足腰のトラブルを解消してくれた整体師の下を訪問。すると微妙な腫れを見つけて、直ちに大腿部から膝、膝から下肢にいたる筋肉の膝での節目、腱の炎症だと診断。“いわゆるランナーズ・ニーと言われる症状”とのこと。ならばかなり一般的な障害だ。そして電気パルスの施療を受けた。ズボンの上からで構わないから、弱くて良いから出来るだけ冷やすように、と言われた。これで、どうやらガンの恐怖に怯えなくて良くなって、一安心となった。
ここで問題だが、果たして整形外科の先生がヤブなのだろうか。この先生、どうやら関西の国立大学医学部出身の医学博士。医学の中で整形外科とはどういう領域なのだろうと、疑問を抱いてしまう。街の整体師を下に見る訳ではないが、科学的学問である限りは、彼らをリードするような知見を持って欲しいものだと思うのだ。少なくともスポーツ医学の一端を担うというのであれば、骨と筋肉の関係は十分に最新の知見を保持して、探求しておいて欲しいのだ。
足腰が弱ってしみじみと公共の場でのエスカレータの有難味を感じるようになった。しかし、今回の私の場合では下りの階段で患部の痛みを強く感じるのだが、下りのエスカレータの少なさには閉口する。その私も元気な場合には下りのエスカレータの意義を感じなかったのは事実だ。その身になって初めてわかるその事実。想像力のなさに情けなさを感じた。
ところで先週は参院選後の臨時国会が開催され、国政政党として認められた障害者である2議員の登院で議事堂内改造が話題になった。だが、私は議事堂内で改めてこのような騒ぎになることに驚いたのだ。何故ならば、数年前ではあるが国会で、バリアフリー・ユニバーサルデザイン施策 の“バリアフリー法”や高齢者や身体障害者などが使う建築物の バリアフリー化を進めるための“ハートビル法”を制定しておきながら、国会自身は率先してこれら法律の精神を体現していなかったことに呆れてしまったのだ。“必要がなかったから”という言い訳が日本のトップで通用するのだろうか。あたふたと改造したが、2議員には不十分だという。これまで一般障害者の国会見学にはどのように対応していたのか、大いに疑問が残る。しかし、マスコミはこの点に何故か触れない。
民間では、駅にエスカレータやエレベータの設置は進んだ。車椅子の人が来ると鉄道会社は職員を1人付けて対応している。バスの運転手は現場で気の毒になるくらい、1人で全てに冷静に対応している。実に頭が下がる。
この国のトップは国民には要求をあれこれ出すが、自らはやらない。今の政府、官僚や議員の先生方の“お偉いさん”の率先垂範精神が全く欠落してしまっていることに大いに問題があると考える。障害者雇用法も政府が率先して実践するべきを、中央省庁は誤魔化してきた事実がつい最近明らかになったではないか。このようなことが常態化していて、話題にすらならないことに国民総痴呆化の危機を感じる。
“丁寧”で“真摯”な対応が“政治”に求められる訳だが、この言葉は安倍氏の多用によって返って、空虚な響きを持つように感じるようになった。安倍政治そのものがその重要な一端を担って来ているように感じるのは私だけなのか。
さて、右膝を痛める前、先週の初めは、審査報告書を事務局に収めるため京都に赴いた。そのついでの京都プチ観光として選んだのが、豊臣秀吉の糟糠の妻・ネネ(寧々)さんが晩年過ごして、墓所となった高台寺であった。
高台寺についてはWikipediaによれば、次のようである。(一部略)
豊臣秀吉が病死したのは 1598年(慶長3年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、・・・東山の現在地に新たな寺院を建立することにした。秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。高台寺の開山は1606年(慶長11年)で、当初は曹洞宗の寺院であった。1624年7月(寛永元年)、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘。この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗している。・・・なお、北政所は同じ寛永元年の9月に没している。
創建当時の高台寺の仏殿は前述の康徳寺の堂を移築・改造したものであり、方丈、茶室などは伏見城から移築したものであった。また、門前に伏見城の化粧御殿が移築されて、北政所の居所とされた。高台寺の西側にある塔頭(山内寺院)の圓徳院がその跡で、北政所終焉の地とも伝わる。
・・・
また高台寺は、江戸時代末期(幕末)の一時期、新選組から離脱した御陵衛士(高台寺党)の屯所となったこともある。その後、近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿、方丈などを焼失。創建時の建造物で現存しているのは、三江紹益を祀る開山堂、秀吉と北政所を祀る霊屋、茶室の傘亭と時雨亭などである。
このWikipediaには言及はないが、秀吉死後、豊臣政権の末期、ネネは大坂城を出て、高台寺に移り、加藤清正や福島正則等秀吉恩顧の子飼いの武将らに、今後は徳川家康に従うよう諭したとされる。このネネの言動は非常に奇異に感じるではないか。
実は、ネネは秀頼を秀吉の実の子だとは思ってはおらず、そのまま秀頼が政権を引継ぐのは、その正統性はなく不条理であると考えたと私は見ている。もし秀頼の政権が継承されるならば、その正統性の無いことから後に大きな政治的混乱を引き起こし、それがむしろ秀吉の歴史的汚名になると恐れ、当時台頭する家康に天下を託したのではないかと私は思うのだ。
なぜならば秀頼誕生時、秀吉は57才、当時ならすでに老境。それまでも女好きで多くの側室を持ちながら、1人も子供を得なかったにも関わらず、なぜ淀君との間にだけ続けて2人の子が生まれたのか。淀君との子で1人目は早逝するが、2人目の子が秀頼となった。ほぼ状況証拠で秀頼は秀吉の実子ではないことは、誰が見ても確実。しかし、当時、絶対的権力者だった当の秀吉がたとえ誰の子であろうと、旧主君信長の血筋の茶々(淀君)の子を自らの正統の実子と公認させたかったので、そのように振る舞ったのかもしれない。
だが、ネネは創業者の血筋では全くない者が、政権の主人として豊臣を名乗るのを良しとせず、むしろ許せなかったのだと容易に想像される。この点で、石田三成の秀吉絶対の立場と大きく異なるのかも知れない。まぁ三成のキャラも、私には理解不能のところ大で、思考が柔軟なのか、硬直しているのか良くわからない。兵站には有能さを発揮したが、戦術・戦闘には全く無能だったのが謎なのだ。私には、山中静かに秀吉の菩提を弔い守りたいというネネの発想は自然なような気がする。
ところで、実際の高台寺には烏丸四条からバスで東山安井に向かう。バス停から東大路を一旦少し南下して次の辻を東へ向かう。この道は、ズーっと歩いて行くと“維新の道”につながっていて、霊山墓地や霊山歴史館に至ることができる。これらはかつてこのブログで紹介したことがある。
やがて、何だかよくわからない古い大門が左手に見えて来た。得体が知れないが、この門についてはどこにも説明はない。
さらに歩いて、左手の北側へ上る緩い坂道が、通称“ねねの道”と分かる。さっそくにそこへ入って行くと、すぐに右手に高台寺入口となっている坂道にでて、これをさらに登って行く。門をくぐって行くと、視野が開け広場を左の建物に向かうと、そこがいよいよ高台寺の入口・受付。ここで圓(円)徳院や掌美術館の入館料も含んだ共通券を購入する。
北側から庫裏を回り込んで、開けた場所に出ると寺の敷地が意外に高所にあることが分かる。名前通り、高台・たかだいの寺なのだ。もう少し高くなれば京都の町を睥睨できる。さすがにネネさんが選んだ土地だ。さらに進んで行くといきなり墓地に出て戸惑う。やがて方丈の裏に出て、ここで靴を脱いで方丈内を見学。現代の画家の地獄図絵があった。方丈の表は勅使門と御庭。さらに方丈表から東の部屋にも地獄絵巻。ここには現代作家と江戸期の絵巻が展示。これで方丈拝観コースは一旦終わり。
偃月池の向こうに池を跨いだ渡り廊下が繋がる開山堂が見え、さらに渡り廊下が山の上に続いている。これが臥龍廊。この開山堂へ中門から入って行く。元来、ネネの持仏堂だったが、現在堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像を安置している。
コースは少し小高い丘に登って行く。何だか工事中の建物。コースに沿って入って行くと、何とそこが御霊屋。これを東側の小窓から覗く形になっている。案内のおばさんが説明していたが、今はこの御霊屋のメンテナンス修復中とのこと。右に秀吉、左にネネさんの木像があるはずだが、秀吉の木像しか肝心のモノが見えない。その裏がネネさんの墓所だと言っていたように記憶している。
オッサンが1人やってきたが、どうやら足下が簡単なビニールのつっかけだったので、顔は見なかったが中国人だろう。日本の歴史を詳しく知らなければ、この寺の由緒は理解できまい、と思うが、どうやらその通りで、どんどん先に進んで行って、有難いことに私の視野から消えた。何しに来たのだろう。まぁどうでも良い話だが。
さらにそこから坂が急になる。登り着いた建物が傘亭、二階家が時雨亭である。両舎とも少し荒れた印象がある。手入れが必要だが、資金不足なのだろうか。
Wikipediaによれば、傘亭は“伏見城から移築したものとされ、千利休好み(=「利休作」の意)の茶室と伝えられる(ただし伏見城建設は利休の自刃後)。宝形造茅葺きの素朴な建物で、内部の天井が竹で組まれ、その形が唐傘に似ているところから傘亭の名がある。” 時雨亭は、“傘亭の南隣にあり、傘亭との間は屋根付きの土間廊下でつながれている。珍しい2階建ての茶室で、2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとする。傘亭同様伏見城からの移築とされ、これも千利休好みと伝える。伏見城「御学問所」に擬する説もある。なお廊下は移転時に付加されたもので、両茶室はもともと別々に建っていたと考えられる。”
大坂夏の陣で大坂城が炎上して、豊臣家終焉の夜、京都から見た大坂方面の空が赤く染まったという。ネネさんはこの高台の茶屋からそれを眺めて、複雑な気持ちで改めて秀吉のために祈ったものと思われる。ここにも歴史の裏で歴史を動かした、賢い女性が居たことが感じられた。
これで、ひとまず高台寺の拝観は終わることになる。後は、高台寺の出口まで下り坂を行くだけである。途中、趣のある孟宗竹の林を抜けた。実は、この下りで右膝に違和感を感じたのだった。これが先週一週間私を悩ませたのだ。
再び通称“ねねの道”に出て、高台寺公園で少々休憩。その後、少し登って左手(西側)に休憩所のような飲食店と何やら祠のようなものがある広場が見えて来る。そこに入ってようやく、掌美術館の入り口があることが分かる。実に分かり難い。もう既に暑さで結構参っていて気力が失われているが、とにかく展示物を拝見。
しかし、残念ながら私には驚くほどの遺物は見当らなかった。甲冑の展示もあったが、戦国当時の軽装化し尚且つ防御力を上げたもの、との表示案内で豊臣家の誰かが着用したとは、なかった。
圓(円)徳院入口は“ねねの道”を少しくだって、左側(東側)の高台寺に行く坂道よりさらに少し下の右側(西側)にあった。朝、来たときは1本の竹丸太で塞がれていたが、この時は除かれていた。門を入ってすぐに、方丈となっている。その南側にお庭がある。これらは全てかつてのネネの居所から移築したものという。
Wikipediaによれば、圓(円)徳院入口は“北政所が晩年を過ごした所と伝えられ、一説には北政所の終焉の地とされる。北政所没後に寺に改められた。” 長谷川等伯筆 襖絵(重要文化財)が展示されていた。これは、“もと大徳寺三玄院の襖絵。廃仏毀釈に際して圓徳院の蔵するところとなる。桐紋雲母(きらら)刷りの唐紙襖に描かれた非常に珍しいもので、等伯が住職に襖絵製作を申し出ていたが許されなかったので、住職の留守中に一気に描きあげてしまったものだと伝えられる。”出口付近の北庭(名勝)は、“伏見城の北政所化粧御殿の前庭を移築したもので、桃山時代の代表的な庭園である。”
暑さに参って、急速に食欲がなくなり、蕎麦が食べたくなった。土地不案内では致し方なく、河原町の高島屋を目指すことにした。通称“石塀小路”を抜けて西進。東山安井交差点を通過して、さらに西進して建仁寺の境内へ入る。さすがに高台寺からは近い。ネネさんがここから高僧を高台寺に招聘したのは分かる。
建仁寺の伽藍を迂回してひたすら西進し、鴨川をわたって何とか高島屋へ。7階の本家尾張屋で“お好みせいろ蕎麦” を食べて何とか一息をつき、午後に備えた。
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