The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
CO2削減論に思う
先週、“地球温暖化対策の中期目標の選択肢”についてのパブリック・コメントが政府内閣官房から求められているとのことで、最近 ある団体から 彼らのホーム・ページにアクセスして、意見を記入して欲しいと依頼が 私に舞い込んできた。その団体は“温暖化防止のために市民の立場から提言する"NGO/NPOだという。
彼らの思惑に同意する場合は そのまま“メール送信”に クリックすれば、内閣官房に ダイレクト送信できるようになっており、予め用意された選択肢には “1990年比30%以上削減するべき” にチェックが入っていた。これは 政府が求めた意見“1990年比25%以上削減するべき”を上回るものであり、そうでなければ“子どもたちに地球温暖化のツケを残す”ことになる、という主張のようだった。
これには、冷静さを欠いた 非常にエモーショナルな物言いを感じ、逆に 私のエモーショナルな部分を強く刺激した。
そんなに CO2は削減するべきものであるのならば、しかも30%削減も削減しなければならないと主張するのならば、ややこしい削減計画をたてるより、端的に原油の国内供給を30%削減する政策を要求するべきではないか、火力発電所を30%廃棄するべきだ、と思ったのである。
この“CO2削減” という問題は そういうドラスティックな政策を実現しなければ成立しないとの認識は彼らにあるのだろうか。エネルギーの浪費は あたかも“生活習慣病”のようなもので、徐々に削減させるのだという曖昧な対策では決して解決しないと思うのだが どうなのだろうか。まるで断酒や禁煙を望みながら ダラダラと意思弱く いつまでも飲用し続ける人と同じようでは いつまで経っても解決しない問題なのだ。
抜け駆けする人を許さず、強者にも弱者にも等しく一致団結して 原油供給をストップさせれば たちどころに解消するだろうし、そういう強い決意と実行力が 何より必要なのだ。
そういう覚悟の問題だと思うが、政府は少し景気が悪くなったからと言って 高速道路料金を値下げした。お蔭で 利用者は増え、道路は渋滞し、排出されたCO2は大いに増加したのではないかと 思われる。エネルギーは大量に浪費され、その結果 景気は持ち直したかのような報道すらある。意志薄弱の断酒・禁煙希望者と成り下がってしまっている。そんなチグハグな政策が実施されていて良いのか、と思うのである。
政府の役人はCO2削減のためのややこしい計画を作るのは得意であり、それこそ正に彼らの仕事だと考えているはずだ。何故ならば そういう計画が策定されれば、それをフォロー実現するためのスキームを企画し、そのスキームを実施運用するための団体・組織をつくり、そこに天下りすることができるからなのだ。単純な政策では そんな団体は不要になってしまう。原油の国内供給をストップさせるような単純な政策では 複雑な団体や組織の生息する領域は小さくなってしまうのだ。だから 実現しないようなややこしい計画をエンエンと作るのだ。簡単に実現すると困る戦略なのだ。
国民は そういう欺瞞性に気付くべきだ。
環境保護の言説には 眉唾が多いのは事実だ。常に 誰かの利益誘導が背後にあると思うべきではないか。だから怪しい議論が多いのだと思う。
自分は多量エネルギーの浪費生活をしながら、人々には熱心にCO2削減を訴え、その結果ノーベル賞を受賞してしまったゴア氏には 白人社会の大いなる陰謀のようなものを伺わせる。
排出権取引も同じだ。政策として キャップを被せる段階で 誰かの強い恣意が必ず入り込む 怪しいスキームなのだ。そして ヨーロッパで実施された政策だが 一向にその成果について 誰も語っていないのは事実だ。逆に、一部の電力会社に不利に働き、その結果 設備投資が抑制され、電力供給が非効率なままになっているという指摘もあるようだ。
一見 論理的に見えても実際にやってみると問題が多い経済的仕組なのだ。マルクス経済と同じことではないのか。
世の中は 一部の経済学者の実験場ではない。それで 不幸になる人がいるとすれば、その罪は大きい。
一体 何が言いたいのか。私は CO2が地球温暖化の元凶であると断言するべきではないと思っている。
IPCCレポートを少し紐解いて、これは科学的レポートではないと思っているのだ。都合の悪い部分には 眼をつぶった 恣意的なレポートであって、決して科学的論文ではないと判断している。
エネルギーの専門家なら 必ずやるインプットとアウトプットの熱収支を 地球を対象に適切に考察していないのだ。このことが怪しい。熱収支のインプットの増減とその要因について言及せず、アウトプット側の放射伝熱が阻害されるという部分のみに着目して議論している。これは本質を外した議論だ。
しかも、温暖化すれば 地上の水分の蒸発量は増え、結果として雲量は増加し、太陽からの入射熱は雲で反射されてしまう。そうなると 温暖化が一方的には進展するはずがないのが、このレポートは そういうややこしい議論には眼をつぶるとはっきり言い切っているのだ。そんな科学的論文があるのか。地球から放射する熱についての副次的な部分をことさらに強調して 温暖化を恣意的に議論しているように見える。
そこにはゴア氏と同列の、何かの意図があるかのようだ。ノーベル賞同時受賞には ある種の意図を隠していることの証のような気さえする。
現在の地球が温暖化しているというのは事実だ。その真の原因は分かっていない。17世紀の頃の小氷河期から温暖化に向かっていることの結果のようである。
しかし、現在の程度の温暖化は 地球史上ではこれまでも幾度も起きてきた現象であって これで地球が滅亡することにならないのも事実なのだ。白熊が絶滅し、大変だなどというのも 非常にエモーショナルな物言いであって決して科学的発言ではないのだ。あの有名な三内丸山遺跡の繁栄したころは 現在より さらに温暖化していたと言う。白熊は その頃には居なかったのか。遺跡繁栄の後、5千年以内に 白熊が進化して地球上に登場したというなら、それは非科学的珍説として物笑いの対象にするべき発言なのだ。
要するに、地球温暖化はCO2の増加によることが要因の一つかもしれないが、主要因ではなく、太陽の活動の変化や、地球の軌道の変化など、もっと大きな大自然のなせるワザだと思うべきなのではないか。これは 現在の人類の科学技術では対処しようのない不可避的現象だと思うべきなのだ。
無理にCO2対策が必要であると考えるなら 危険な原子力エネルギーに頼らざるをえなくなる。CO2対策が必要と言っている著名な環境学者に 原子力エネルギーの使用について質したことがあったが、言を濁していた。
どのように考えてもCO2対策を掲げる限りには、原子力エネルギー無しでは成り立たない状態に 現代社会は陥っているのだ。しかし、多くの人々は そのことを知らないのではないか。そして“原発反対”を叫ぶ一方で、“(CO2を)1990年比30%以上削減するべき” と 平気で言っているのではないか。
こういう人々は 先に提案した“原油の国内供給を30%削減する政策”も反対するに違いない。なぜならば そういう強権政策は 必ず弱者負担を予想外に大きくするものだからだ。
結果として、無邪気に何でも反対とならざるを得ない。無知蒙昧とはこのことではないか。
私は、むしろ 温暖化を是認した上でその不可避的現象とどのように折り合いをつけるか考えるべきだと思っている。温暖化による気象変化とどう向き合って行くのか よく考えるべきであろう。その方が 持続可能な選択肢が広がるように思うし、選択肢を広げる枠組みを持つことが リスク・マネジメントにかなうやり方だろう。
いきなり原子力に強く依存する政策よりも、化石燃料をどのように有効に使っていくのか、省資源・省エネルギーを じっくり腰を落ち着けて考えるべきである。
雨が多く、変化の多い気候現象の下にあり、狭い国土の日本に、太陽電池や風力発電が本当に適切で、安定的なエネルギー源と言えるのか。よく見極めるべきであろう。むしろ、それらを実用化・効率化するために 無駄なエネルギーを費消してはいないか、十分な検討が必要だ。
さらに、海底にあるメタン・ハイドレードの開発を どのように扱うべきか 国家戦略として考慮するべき選択肢である。
そもそも こういった環境問題は 異常な人口爆発に端を発した、極めて深刻な課題であり、人類存続の哲学的課題でもある。地球の容量が、人口増加を賄いきれないところまで来ているのが問題の本質なのだ。極論すれば 中性子爆弾のようなきれいな核戦争でも引き起こして 人口を削減しなければ 解決できないような 文明論の根本に関わることなのだ。さらに言えば、パンデミックも問題の解消には有効なのかもしれない。人類の自己否定につながる問題なのだ。
“地球にやさしいこと”と“人にやさしいこと”は 同義ではないのだ。これを同義だと信じて“地球にやさしいこと”という言葉を多用するのは 人のはなはだしい思い上がりなのである。人類は滅亡しても、地球は存続し得るのである。
そういう深刻な問題意識無しに 一部の人の利益誘導のための言説を信じ、右往左往するべきではないと思うのだ。
こういう危機に瀕して、“起死回生のこの一手”などという政策はあり得まい。コツコツと細かな よりましな本質を突いた対策の 地道な積み上げで、問題を少しずつ着実に解消して行くようなやり方しかないのでは ないかと思っている。
彼らの思惑に同意する場合は そのまま“メール送信”に クリックすれば、内閣官房に ダイレクト送信できるようになっており、予め用意された選択肢には “1990年比30%以上削減するべき” にチェックが入っていた。これは 政府が求めた意見“1990年比25%以上削減するべき”を上回るものであり、そうでなければ“子どもたちに地球温暖化のツケを残す”ことになる、という主張のようだった。
これには、冷静さを欠いた 非常にエモーショナルな物言いを感じ、逆に 私のエモーショナルな部分を強く刺激した。
そんなに CO2は削減するべきものであるのならば、しかも30%削減も削減しなければならないと主張するのならば、ややこしい削減計画をたてるより、端的に原油の国内供給を30%削減する政策を要求するべきではないか、火力発電所を30%廃棄するべきだ、と思ったのである。
この“CO2削減” という問題は そういうドラスティックな政策を実現しなければ成立しないとの認識は彼らにあるのだろうか。エネルギーの浪費は あたかも“生活習慣病”のようなもので、徐々に削減させるのだという曖昧な対策では決して解決しないと思うのだが どうなのだろうか。まるで断酒や禁煙を望みながら ダラダラと意思弱く いつまでも飲用し続ける人と同じようでは いつまで経っても解決しない問題なのだ。
抜け駆けする人を許さず、強者にも弱者にも等しく一致団結して 原油供給をストップさせれば たちどころに解消するだろうし、そういう強い決意と実行力が 何より必要なのだ。
そういう覚悟の問題だと思うが、政府は少し景気が悪くなったからと言って 高速道路料金を値下げした。お蔭で 利用者は増え、道路は渋滞し、排出されたCO2は大いに増加したのではないかと 思われる。エネルギーは大量に浪費され、その結果 景気は持ち直したかのような報道すらある。意志薄弱の断酒・禁煙希望者と成り下がってしまっている。そんなチグハグな政策が実施されていて良いのか、と思うのである。
政府の役人はCO2削減のためのややこしい計画を作るのは得意であり、それこそ正に彼らの仕事だと考えているはずだ。何故ならば そういう計画が策定されれば、それをフォロー実現するためのスキームを企画し、そのスキームを実施運用するための団体・組織をつくり、そこに天下りすることができるからなのだ。単純な政策では そんな団体は不要になってしまう。原油の国内供給をストップさせるような単純な政策では 複雑な団体や組織の生息する領域は小さくなってしまうのだ。だから 実現しないようなややこしい計画をエンエンと作るのだ。簡単に実現すると困る戦略なのだ。
国民は そういう欺瞞性に気付くべきだ。
環境保護の言説には 眉唾が多いのは事実だ。常に 誰かの利益誘導が背後にあると思うべきではないか。だから怪しい議論が多いのだと思う。
自分は多量エネルギーの浪費生活をしながら、人々には熱心にCO2削減を訴え、その結果ノーベル賞を受賞してしまったゴア氏には 白人社会の大いなる陰謀のようなものを伺わせる。
排出権取引も同じだ。政策として キャップを被せる段階で 誰かの強い恣意が必ず入り込む 怪しいスキームなのだ。そして ヨーロッパで実施された政策だが 一向にその成果について 誰も語っていないのは事実だ。逆に、一部の電力会社に不利に働き、その結果 設備投資が抑制され、電力供給が非効率なままになっているという指摘もあるようだ。
一見 論理的に見えても実際にやってみると問題が多い経済的仕組なのだ。マルクス経済と同じことではないのか。
世の中は 一部の経済学者の実験場ではない。それで 不幸になる人がいるとすれば、その罪は大きい。
一体 何が言いたいのか。私は CO2が地球温暖化の元凶であると断言するべきではないと思っている。
IPCCレポートを少し紐解いて、これは科学的レポートではないと思っているのだ。都合の悪い部分には 眼をつぶった 恣意的なレポートであって、決して科学的論文ではないと判断している。
エネルギーの専門家なら 必ずやるインプットとアウトプットの熱収支を 地球を対象に適切に考察していないのだ。このことが怪しい。熱収支のインプットの増減とその要因について言及せず、アウトプット側の放射伝熱が阻害されるという部分のみに着目して議論している。これは本質を外した議論だ。
しかも、温暖化すれば 地上の水分の蒸発量は増え、結果として雲量は増加し、太陽からの入射熱は雲で反射されてしまう。そうなると 温暖化が一方的には進展するはずがないのが、このレポートは そういうややこしい議論には眼をつぶるとはっきり言い切っているのだ。そんな科学的論文があるのか。地球から放射する熱についての副次的な部分をことさらに強調して 温暖化を恣意的に議論しているように見える。
そこにはゴア氏と同列の、何かの意図があるかのようだ。ノーベル賞同時受賞には ある種の意図を隠していることの証のような気さえする。
現在の地球が温暖化しているというのは事実だ。その真の原因は分かっていない。17世紀の頃の小氷河期から温暖化に向かっていることの結果のようである。
しかし、現在の程度の温暖化は 地球史上ではこれまでも幾度も起きてきた現象であって これで地球が滅亡することにならないのも事実なのだ。白熊が絶滅し、大変だなどというのも 非常にエモーショナルな物言いであって決して科学的発言ではないのだ。あの有名な三内丸山遺跡の繁栄したころは 現在より さらに温暖化していたと言う。白熊は その頃には居なかったのか。遺跡繁栄の後、5千年以内に 白熊が進化して地球上に登場したというなら、それは非科学的珍説として物笑いの対象にするべき発言なのだ。
要するに、地球温暖化はCO2の増加によることが要因の一つかもしれないが、主要因ではなく、太陽の活動の変化や、地球の軌道の変化など、もっと大きな大自然のなせるワザだと思うべきなのではないか。これは 現在の人類の科学技術では対処しようのない不可避的現象だと思うべきなのだ。
無理にCO2対策が必要であると考えるなら 危険な原子力エネルギーに頼らざるをえなくなる。CO2対策が必要と言っている著名な環境学者に 原子力エネルギーの使用について質したことがあったが、言を濁していた。
どのように考えてもCO2対策を掲げる限りには、原子力エネルギー無しでは成り立たない状態に 現代社会は陥っているのだ。しかし、多くの人々は そのことを知らないのではないか。そして“原発反対”を叫ぶ一方で、“(CO2を)1990年比30%以上削減するべき” と 平気で言っているのではないか。
こういう人々は 先に提案した“原油の国内供給を30%削減する政策”も反対するに違いない。なぜならば そういう強権政策は 必ず弱者負担を予想外に大きくするものだからだ。
結果として、無邪気に何でも反対とならざるを得ない。無知蒙昧とはこのことではないか。
私は、むしろ 温暖化を是認した上でその不可避的現象とどのように折り合いをつけるか考えるべきだと思っている。温暖化による気象変化とどう向き合って行くのか よく考えるべきであろう。その方が 持続可能な選択肢が広がるように思うし、選択肢を広げる枠組みを持つことが リスク・マネジメントにかなうやり方だろう。
いきなり原子力に強く依存する政策よりも、化石燃料をどのように有効に使っていくのか、省資源・省エネルギーを じっくり腰を落ち着けて考えるべきである。
雨が多く、変化の多い気候現象の下にあり、狭い国土の日本に、太陽電池や風力発電が本当に適切で、安定的なエネルギー源と言えるのか。よく見極めるべきであろう。むしろ、それらを実用化・効率化するために 無駄なエネルギーを費消してはいないか、十分な検討が必要だ。
さらに、海底にあるメタン・ハイドレードの開発を どのように扱うべきか 国家戦略として考慮するべき選択肢である。
そもそも こういった環境問題は 異常な人口爆発に端を発した、極めて深刻な課題であり、人類存続の哲学的課題でもある。地球の容量が、人口増加を賄いきれないところまで来ているのが問題の本質なのだ。極論すれば 中性子爆弾のようなきれいな核戦争でも引き起こして 人口を削減しなければ 解決できないような 文明論の根本に関わることなのだ。さらに言えば、パンデミックも問題の解消には有効なのかもしれない。人類の自己否定につながる問題なのだ。
“地球にやさしいこと”と“人にやさしいこと”は 同義ではないのだ。これを同義だと信じて“地球にやさしいこと”という言葉を多用するのは 人のはなはだしい思い上がりなのである。人類は滅亡しても、地球は存続し得るのである。
そういう深刻な問題意識無しに 一部の人の利益誘導のための言説を信じ、右往左往するべきではないと思うのだ。
こういう危機に瀕して、“起死回生のこの一手”などという政策はあり得まい。コツコツと細かな よりましな本質を突いた対策の 地道な積み上げで、問題を少しずつ着実に解消して行くようなやり方しかないのでは ないかと思っている。
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