The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
桂離宮を参観して
やぁ何とか、危機は終わった。だが、またこういうことが確実に起きるのが9月にやって来ることになっている。というのは、審査員不足が突然生じて、連日の審査予定が計画されてきているからだ。10月にはこの危機がさらに厳しくなりそうなのだ。どうやってこの危機を乗り越えることができるか、全く自信はない。大きなトラブルの原因になるのではないか。
トランプ大統領候補が暗殺未遂となる事件 が起きた。やっぱり米国ではありうることなのだ。前々回の大統領選挙ではそれが起こり得るだろうとタカをくくっていたのだが、警察力がそれを許してこなかったようだ。御蔭でトランプ氏が大統領となって少なからず混乱があった。では今回なぜそうなったのか。狙撃を阻止する装置すらあるというのになのだ。否、ヘリコプターを1機飛ばすだけでも防げたはずとの話もある。しかし、自作自演はあり得ないだろう。
だが、この事件ああってもなおバイデン氏との支持率の差は大きくは広がらなかった。なので、もしバイデン氏が立候補を辞退し、若い人物を民主党が推せば、支持率は逆転することは十分ある。だからこそ、“もしトラ”も“確トラ”もありえないとする説も十分有り得るのだ。
一方、この国では現首相の政治力は静かに確実に失われて行っているという。だが、いつそれが明確になるのだろうか。
世界のコンピュータ・システムが不全に陥った。 技術によって世の中は進歩しているとの認識だがこういうことが起きると本当にそうなのだろうかと疑いたくなる。世界の仕組みがどんどん脆弱化しているような気がするのだ。
なんだがITによって無駄な時間も増えているような気もするのだ。例えば、目下ある組織が使っていてカスタマイズされたiPadを格安で引き取って、再度の初期化を行っているが手間がかかって仕方がない。1週間かかっても十分やり切れていない。だがこれも“便利”のための余計な時間なのだ。この矛盾、いつになったか解消できるのか。この矛盾はどこまで行っても解消の兆候は無く、むしろ拡大して行っているような気がする。それが“進歩”なのだろうか。
兵庫県知事の不祥事。一向に治まる気配無く、全く無駄な時間と金を消耗することになっている。これ以上地位に連綿としても全く無駄であり、自身の立場を悪くするばかりだ。浪人しても世間からは見捨てられること必定。人生は無茶苦茶になるだけで、生きて行けなくなる。どうするつもりなのか。アホアホのとことんのアホ!こんなんよう選んだモンヤ!!
さて、今回はさすがにマクラだけの投稿を避けることができる。先週末、いよいよ桂離宮参観に出かけることができたので、今回をそれを伝えたいと思っているからだ。桂離宮は小学生高学年時代以来のあこがれの場所だった。というのは、家に桂離宮の大きな写真集があり、これに日本文化の粋を集めているとの絶賛があったからだ。それを母と眺めていた記憶がある。母は遂に桂離宮参観の機会もなく亡くなってしまっている。ネットで簡単に予約できることを知らなかったこともある。
私は昨年夏に修学院離宮を訪れていて、離宮参観にネットで簡単に予約できることを知っていたので、今回もそうしたのだ。だが、今回は思いの外、何度も応募して“抽選の結果、まことに残念ながら落選になりました”との連絡を受けて失意にあったのだが、予約時刻を20分早めにずらすと、簡単に許可をもらえたのだ。どうやら、何度も申し込んだ参観日時は外人専用の枠だったようで、それならそのように予め表記しておいてほしかったのだ。
阪急桂駅は、阪急京都線から嵐山へ向かう分岐点に当たる。一般的にはそういう意識しか無く、ここが世界に誇る文化遺産の遺構の最寄り駅だとは思われていない。そして桂の街にもそのような気配を全く漂わせていない。だから、この街がそのような場所だと思っている人は一般的には少ないのではないだろうか。
桂離宮についてWikipediaでは次のように書いている。“京都市西京区桂にある皇室関連施設。江戸時代の17世紀に皇族の八条宮家の別邸として創設された建築群と庭園からなる。総面積は付属地を含め約6万9千平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである。離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)に宮内省所管となってからで、それ以前は「桂別業」などと呼ばれていた。”
またその場所については、次のようだ。“桂川西岸の旧・下桂村に位置する。ここは桂川とかつての山陰道(丹波街道)が交わる、交通の要衝であった。川と道の交点にはかつては「桂の渡し」があり、現在は桂大橋が架かる。”
どうやら、修学院離宮は“後水尾上皇の指示で(江戸幕府により)造営された離宮”だが、こちらは親王が私的に作った別邸で、本来は離宮ではなかった。しかしこちらの方が建設時期は早く、ひょっとして修学院離宮は桂別邸の舟遊びをうらやましく思った後水尾上皇が後から幕府におねだりして造営したものなのかもしれない。
また現地で入手したパンフレットによれば由緒について“後陽成天皇の弟・八錠宮初代智仁親王により、宮家の別荘として創建されたものである。幼少の頃より文武百般に秀でておられた親王は、17世紀初頭にこの地を得られて後、元和元年(1615年)頃に山荘の造営を起こされ、数年ほどの間に簡素の中にも格調を保った桂山荘を完成されている。親王の40歳台前半の時期にあたり、古書院が建てられたものと見られる。親王が没せられて後10年余りの間は山荘も荒廃期であったが、2代智忠親王は加賀藩主前田利常の息女富姫と結婚されて財政的裏付けもでき、山荘の復興増築などに意欲的に取り組まれた。”
地図では阪急桂駅から、ほぼ東北の場所にあり、歩いて1㎞15分の道程である。予約では11時からの参観なので、10時半頃には現地に着いていたい。だから、10時10分ごろには桂駅に到着しているべきで、実際にそのようにした。
だが、この日日差しはきつかった。地図によれば初めは電車線路に沿っていれば良いのだが、いずれ逸れて街中に入らなければならない。だが、今は一方で携帯でマップを見ながら歩けば良い。全く迷わず桂川街道に行き当たり、このあたりでようやく桂離宮への道標があり、問題なく入口に到った。もう既に20人程度の人々が待場の椅子に座っていて、案内の人が未だ椅子はあるというが、4人掛けの長椅子に3人で座っているからと詰めようとしたのだが、それを断って立って我慢した。強い日差しでやられて辛かったが・・・。それでほぼ10時半。入場は10時40分からだという。
ようやく時間が来て、入場できることとなった。順番的に一番入口に近いところに立っていたので、ナンバリングがたまたまNo.1となってしまった。ネットで受け入れのページを印刷した紙は持って行っていたが、それをさらに本人と確認する免許証等を持ち合わせていなくて慌てた。鞄を替えていたのだ。が、クレジットカードでも良いといので、助かった。
参観者休憩所で一息つく。ペットボトルに凍らせたお茶を持って行ったのでこれで、何とか過ごすことができた。掲示されている写真等を撮ったり、多少の案内のビデオを見たりした。やがて、スピーカーを持った小太りの男性が入ってきて、案内開始となる。
植え込みの中、スタートする。太鼓状になった橋、段差が細かく歩調と合わないので少々困る。やがてすぐ簡素な御幸門に到る。縄文時代以来の茅葺との説明。この道の向こうが本当の表門だという。外側からどのような門なのか、帰りに見て帰るのを忘れて残念。この本当の門での道幅は2.4m、それが御幸門では4.8mに仕掛けてあるという。同じ道幅で続いていると思い込んでいると錯覚する、ことを狙っているらしい。
御幸門から少し戻ってさらに奥へと進む。途中の小石を敷き詰めた道、これを“あられこぼし”と言う。小石の表面を平たい面にして敷き詰めて行く技、ベテランの職人でも20㎝/日しかできない、という。貴人が雨の日にあるいても足下が濡れないように水はけをよくしている。
そして外腰掛に到る。松琴亭での茶会の際の待合に使うのだという。茶会で亭主が準備をする間の待ち合わせだ。左手奥に雪隠があるが、これはトイレではなく、昔乗り物に乗って遠路やって来た時に型崩れした着物をお直しするためのブースだという。
ここに座ると向かいに見事な蘇鉄が植わっている。当時としては南国にしかない珍しい植物、来客の目を驚かす仕掛けだという。薩摩の島津氏から贈られたものだという。
茶席の松琴亭に向かって、飛び石の道を行く。池の眺めがよい。洲浜と天橋立に見立てた池に突き出した作りが見える。わざわざ天橋立と称したのは初代智仁親王の奥様が宮津の出身であったことから懐かしんでのこととガイド・アナウンスがあった。やがて、対岸に書院本体が見えるようになる。間もなく松琴亭に到る。中には竈もあり、市松模様のふすまあり、ここは冬の茶会用の建物。なので下に火床をしつらえて食べ物を温める戸棚も備えられている。この建物の西側には船着き場がある。
松琴亭を過ぎると、狭い通路の石段を登るようになって来る。ガイドは時々1年に1度くらい参観者に事故を起こすことがあると言っていたが、恐らくこのあたりか。
高みに登って一寸疲れる。天井へ見上げると額に“賞芲亭” とあった。“芲”は実は“花”のことだという。花をめでる場所、つまり春の茶室とのこと。峠の茶屋を意識した。
ここは居った池から出た土砂を積み上げて作った丘で、離宮内で一番高い場所とのこと。
これを下って、園林堂(おんりんどう)に向かう。桂離宮では珍しい本瓦葺宝形造り屋根の持仏堂とのこと。かつてここに八条宮・桂宮家の位牌と八条宮家と関わりの深い細川幽斎 を画いた掛軸や幽斎が読んだ 和歌の短冊があったという。
細川幽斎には智仁親王への「古今伝授」(『古今和歌集』の解釈などを秘伝と して伝える)により桂宮家のあつい崇敬があった。明治14年(1881年)に第十二代淑子内親王の薨去に よる桂宮家廃絶の後,位牌は宮家菩堤寺の慈照院 (相国寺の塔頭)に遷され,その他の掛軸等は宮内 省(宮内庁)が収蔵施設で保存することとなった由で、園林堂は空堂になっているという。
笑意軒は離宮内で一番南に位置する茶室で、隣接する水田を眺めることができるという。戦後、民家が立て込みだしたので慌てて農地を買い、元の持ち主の農家に貸与して耕作を続けて貰っているという。
軒下の額の下に6つの穴が開けてあり、どの穴も同じではなく作られている。土壁の竹組から構造を変えているので、わざわざ面倒なことをして、粋を重要視したことが分かる。
笑意軒を出ると視界が開けて、やがて左手に書院が見えてくる。正しく子供のころ写真集で見た直線の美である。珍しく思わずため息が出た。すると直ぐ古書院の脇に出て、月見台となる。何ということもない。
次に建てこんだ様子で、月波楼に到る。書院に一番近い茶室。書院に月見台があるから不要では?やっぱり茶をたてて観月したかったのだろう。月が上がると正面に見える位置らしい。真反対の対岸には松琴亭が見える。池に臨む位置も絶妙か。
月波楼を出て、中門を出ると、これで振り出しに戻ったことになる。
すっかり暑さにやられて、元気なく休憩室に戻った。部屋の冷房も効いたが、凍らせたペット・ボトルのお茶が大いに助けとなった。
ここで改めて、パンフレットと入場券の写真を示しておく。
昨夏、修学院離宮を訪れて、天皇が志した本当に離宮だったのでその雄大さに驚いたものだったが、桂離宮は親王の私邸の発展形であり、規模は雄大ではないが、簡素で細やかさが日本文化の粋を集めていると言える。あの池は船を浮かべて楽しむにはいささか小さいように感じるのでかなり小さい舟に限るだろう。徒歩で回遊しただけでも十分に楽しめる。
今度は雪の冬にでも来ようかと思っている。
暑さにやられたが、12時を回っており昼食時だ。街に戻って食事としたい。ほぼ元来た道をもどれば済む話だが、やっぱり街に入り込むとなると桂川街道をわたるとややこしい。チョット間違えると面倒。携帯をとりだしてマップを確認してOK。阪急駅前に出たが、食べログで確認していたうどん屋さんが閉店。ナンデヤ!こんな時に。駅の建物に入ったラーメン店というか中華料理屋さんがあり、店に貼られたチラシを見るが、食べたい冷やし中華が無い。ヤケクソで店に入って聞くと“あります”というので、直ぐに頼んだ。これで一安心。後は午後の研修に向かって力を蓄えるだけ。冷やし中華は少し個性があって美味かった。(ラーメン横綱 桂麺房 阪急桂店)
トランプ大統領候補が暗殺未遂となる事件 が起きた。やっぱり米国ではありうることなのだ。前々回の大統領選挙ではそれが起こり得るだろうとタカをくくっていたのだが、警察力がそれを許してこなかったようだ。御蔭でトランプ氏が大統領となって少なからず混乱があった。では今回なぜそうなったのか。狙撃を阻止する装置すらあるというのになのだ。否、ヘリコプターを1機飛ばすだけでも防げたはずとの話もある。しかし、自作自演はあり得ないだろう。
だが、この事件ああってもなおバイデン氏との支持率の差は大きくは広がらなかった。なので、もしバイデン氏が立候補を辞退し、若い人物を民主党が推せば、支持率は逆転することは十分ある。だからこそ、“もしトラ”も“確トラ”もありえないとする説も十分有り得るのだ。
一方、この国では現首相の政治力は静かに確実に失われて行っているという。だが、いつそれが明確になるのだろうか。
世界のコンピュータ・システムが不全に陥った。 技術によって世の中は進歩しているとの認識だがこういうことが起きると本当にそうなのだろうかと疑いたくなる。世界の仕組みがどんどん脆弱化しているような気がするのだ。
なんだがITによって無駄な時間も増えているような気もするのだ。例えば、目下ある組織が使っていてカスタマイズされたiPadを格安で引き取って、再度の初期化を行っているが手間がかかって仕方がない。1週間かかっても十分やり切れていない。だがこれも“便利”のための余計な時間なのだ。この矛盾、いつになったか解消できるのか。この矛盾はどこまで行っても解消の兆候は無く、むしろ拡大して行っているような気がする。それが“進歩”なのだろうか。
兵庫県知事の不祥事。一向に治まる気配無く、全く無駄な時間と金を消耗することになっている。これ以上地位に連綿としても全く無駄であり、自身の立場を悪くするばかりだ。浪人しても世間からは見捨てられること必定。人生は無茶苦茶になるだけで、生きて行けなくなる。どうするつもりなのか。アホアホのとことんのアホ!こんなんよう選んだモンヤ!!
さて、今回はさすがにマクラだけの投稿を避けることができる。先週末、いよいよ桂離宮参観に出かけることができたので、今回をそれを伝えたいと思っているからだ。桂離宮は小学生高学年時代以来のあこがれの場所だった。というのは、家に桂離宮の大きな写真集があり、これに日本文化の粋を集めているとの絶賛があったからだ。それを母と眺めていた記憶がある。母は遂に桂離宮参観の機会もなく亡くなってしまっている。ネットで簡単に予約できることを知らなかったこともある。
私は昨年夏に修学院離宮を訪れていて、離宮参観にネットで簡単に予約できることを知っていたので、今回もそうしたのだ。だが、今回は思いの外、何度も応募して“抽選の結果、まことに残念ながら落選になりました”との連絡を受けて失意にあったのだが、予約時刻を20分早めにずらすと、簡単に許可をもらえたのだ。どうやら、何度も申し込んだ参観日時は外人専用の枠だったようで、それならそのように予め表記しておいてほしかったのだ。
阪急桂駅は、阪急京都線から嵐山へ向かう分岐点に当たる。一般的にはそういう意識しか無く、ここが世界に誇る文化遺産の遺構の最寄り駅だとは思われていない。そして桂の街にもそのような気配を全く漂わせていない。だから、この街がそのような場所だと思っている人は一般的には少ないのではないだろうか。
桂離宮についてWikipediaでは次のように書いている。“京都市西京区桂にある皇室関連施設。江戸時代の17世紀に皇族の八条宮家の別邸として創設された建築群と庭園からなる。総面積は付属地を含め約6万9千平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである。離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)に宮内省所管となってからで、それ以前は「桂別業」などと呼ばれていた。”
またその場所については、次のようだ。“桂川西岸の旧・下桂村に位置する。ここは桂川とかつての山陰道(丹波街道)が交わる、交通の要衝であった。川と道の交点にはかつては「桂の渡し」があり、現在は桂大橋が架かる。”
どうやら、修学院離宮は“後水尾上皇の指示で(江戸幕府により)造営された離宮”だが、こちらは親王が私的に作った別邸で、本来は離宮ではなかった。しかしこちらの方が建設時期は早く、ひょっとして修学院離宮は桂別邸の舟遊びをうらやましく思った後水尾上皇が後から幕府におねだりして造営したものなのかもしれない。
また現地で入手したパンフレットによれば由緒について“後陽成天皇の弟・八錠宮初代智仁親王により、宮家の別荘として創建されたものである。幼少の頃より文武百般に秀でておられた親王は、17世紀初頭にこの地を得られて後、元和元年(1615年)頃に山荘の造営を起こされ、数年ほどの間に簡素の中にも格調を保った桂山荘を完成されている。親王の40歳台前半の時期にあたり、古書院が建てられたものと見られる。親王が没せられて後10年余りの間は山荘も荒廃期であったが、2代智忠親王は加賀藩主前田利常の息女富姫と結婚されて財政的裏付けもでき、山荘の復興増築などに意欲的に取り組まれた。”
地図では阪急桂駅から、ほぼ東北の場所にあり、歩いて1㎞15分の道程である。予約では11時からの参観なので、10時半頃には現地に着いていたい。だから、10時10分ごろには桂駅に到着しているべきで、実際にそのようにした。
だが、この日日差しはきつかった。地図によれば初めは電車線路に沿っていれば良いのだが、いずれ逸れて街中に入らなければならない。だが、今は一方で携帯でマップを見ながら歩けば良い。全く迷わず桂川街道に行き当たり、このあたりでようやく桂離宮への道標があり、問題なく入口に到った。もう既に20人程度の人々が待場の椅子に座っていて、案内の人が未だ椅子はあるというが、4人掛けの長椅子に3人で座っているからと詰めようとしたのだが、それを断って立って我慢した。強い日差しでやられて辛かったが・・・。それでほぼ10時半。入場は10時40分からだという。
ようやく時間が来て、入場できることとなった。順番的に一番入口に近いところに立っていたので、ナンバリングがたまたまNo.1となってしまった。ネットで受け入れのページを印刷した紙は持って行っていたが、それをさらに本人と確認する免許証等を持ち合わせていなくて慌てた。鞄を替えていたのだ。が、クレジットカードでも良いといので、助かった。
参観者休憩所で一息つく。ペットボトルに凍らせたお茶を持って行ったのでこれで、何とか過ごすことができた。掲示されている写真等を撮ったり、多少の案内のビデオを見たりした。やがて、スピーカーを持った小太りの男性が入ってきて、案内開始となる。
植え込みの中、スタートする。太鼓状になった橋、段差が細かく歩調と合わないので少々困る。やがてすぐ簡素な御幸門に到る。縄文時代以来の茅葺との説明。この道の向こうが本当の表門だという。外側からどのような門なのか、帰りに見て帰るのを忘れて残念。この本当の門での道幅は2.4m、それが御幸門では4.8mに仕掛けてあるという。同じ道幅で続いていると思い込んでいると錯覚する、ことを狙っているらしい。
御幸門から少し戻ってさらに奥へと進む。途中の小石を敷き詰めた道、これを“あられこぼし”と言う。小石の表面を平たい面にして敷き詰めて行く技、ベテランの職人でも20㎝/日しかできない、という。貴人が雨の日にあるいても足下が濡れないように水はけをよくしている。
そして外腰掛に到る。松琴亭での茶会の際の待合に使うのだという。茶会で亭主が準備をする間の待ち合わせだ。左手奥に雪隠があるが、これはトイレではなく、昔乗り物に乗って遠路やって来た時に型崩れした着物をお直しするためのブースだという。
ここに座ると向かいに見事な蘇鉄が植わっている。当時としては南国にしかない珍しい植物、来客の目を驚かす仕掛けだという。薩摩の島津氏から贈られたものだという。
茶席の松琴亭に向かって、飛び石の道を行く。池の眺めがよい。洲浜と天橋立に見立てた池に突き出した作りが見える。わざわざ天橋立と称したのは初代智仁親王の奥様が宮津の出身であったことから懐かしんでのこととガイド・アナウンスがあった。やがて、対岸に書院本体が見えるようになる。間もなく松琴亭に到る。中には竈もあり、市松模様のふすまあり、ここは冬の茶会用の建物。なので下に火床をしつらえて食べ物を温める戸棚も備えられている。この建物の西側には船着き場がある。
松琴亭を過ぎると、狭い通路の石段を登るようになって来る。ガイドは時々1年に1度くらい参観者に事故を起こすことがあると言っていたが、恐らくこのあたりか。
高みに登って一寸疲れる。天井へ見上げると額に“賞芲亭” とあった。“芲”は実は“花”のことだという。花をめでる場所、つまり春の茶室とのこと。峠の茶屋を意識した。
ここは居った池から出た土砂を積み上げて作った丘で、離宮内で一番高い場所とのこと。
これを下って、園林堂(おんりんどう)に向かう。桂離宮では珍しい本瓦葺宝形造り屋根の持仏堂とのこと。かつてここに八条宮・桂宮家の位牌と八条宮家と関わりの深い細川幽斎 を画いた掛軸や幽斎が読んだ 和歌の短冊があったという。
細川幽斎には智仁親王への「古今伝授」(『古今和歌集』の解釈などを秘伝と して伝える)により桂宮家のあつい崇敬があった。明治14年(1881年)に第十二代淑子内親王の薨去に よる桂宮家廃絶の後,位牌は宮家菩堤寺の慈照院 (相国寺の塔頭)に遷され,その他の掛軸等は宮内 省(宮内庁)が収蔵施設で保存することとなった由で、園林堂は空堂になっているという。
笑意軒は離宮内で一番南に位置する茶室で、隣接する水田を眺めることができるという。戦後、民家が立て込みだしたので慌てて農地を買い、元の持ち主の農家に貸与して耕作を続けて貰っているという。
軒下の額の下に6つの穴が開けてあり、どの穴も同じではなく作られている。土壁の竹組から構造を変えているので、わざわざ面倒なことをして、粋を重要視したことが分かる。
笑意軒を出ると視界が開けて、やがて左手に書院が見えてくる。正しく子供のころ写真集で見た直線の美である。珍しく思わずため息が出た。すると直ぐ古書院の脇に出て、月見台となる。何ということもない。
次に建てこんだ様子で、月波楼に到る。書院に一番近い茶室。書院に月見台があるから不要では?やっぱり茶をたてて観月したかったのだろう。月が上がると正面に見える位置らしい。真反対の対岸には松琴亭が見える。池に臨む位置も絶妙か。
月波楼を出て、中門を出ると、これで振り出しに戻ったことになる。
すっかり暑さにやられて、元気なく休憩室に戻った。部屋の冷房も効いたが、凍らせたペット・ボトルのお茶が大いに助けとなった。
ここで改めて、パンフレットと入場券の写真を示しておく。
昨夏、修学院離宮を訪れて、天皇が志した本当に離宮だったのでその雄大さに驚いたものだったが、桂離宮は親王の私邸の発展形であり、規模は雄大ではないが、簡素で細やかさが日本文化の粋を集めていると言える。あの池は船を浮かべて楽しむにはいささか小さいように感じるのでかなり小さい舟に限るだろう。徒歩で回遊しただけでも十分に楽しめる。
今度は雪の冬にでも来ようかと思っている。
暑さにやられたが、12時を回っており昼食時だ。街に戻って食事としたい。ほぼ元来た道をもどれば済む話だが、やっぱり街に入り込むとなると桂川街道をわたるとややこしい。チョット間違えると面倒。携帯をとりだしてマップを確認してOK。阪急駅前に出たが、食べログで確認していたうどん屋さんが閉店。ナンデヤ!こんな時に。駅の建物に入ったラーメン店というか中華料理屋さんがあり、店に貼られたチラシを見るが、食べたい冷やし中華が無い。ヤケクソで店に入って聞くと“あります”というので、直ぐに頼んだ。これで一安心。後は午後の研修に向かって力を蓄えるだけ。冷やし中華は少し個性があって美味かった。(ラーメン横綱 桂麺房 阪急桂店)
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