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“日本企業のパフォーマンス”に思う―超ISO的視点?

先週半ばは、東洋ゴム工業㈱の免震ゴムの性能偽装問題で報道がにぎわった。その後は㈱東芝の不正会計処理。
週の後半は株主総会が多数開催されたが、電力会社は性懲りもなく無反省にも、原発回帰を明らかにした。果たして、それが日本社会に本当に貢献する道なのか熟慮してのことであろうか。否、持続可能な経済合理性すら疑われる行為ではないのだろうか。
あのタカタ㈱の社長も株主総会にはついに姿を現した。自らの会社の製品不良で大騒ぎになっているにもかかわらず、全て部下に任せきりであった。数年前、トヨタ自動車㈱の社長は米議会の公聴会に自ら出て発言したのとは、対照的で姿を現さず、説明責任を果たさなかった。にもかかわらず非難、バッシングは生じなかった。タカタの社長は高齢で病身であったからかと思っていたが、報道により株主総会での姿を見る限りそうではなかった。タカタの社長はトヨタの社長よりエライのか、非常に不思議な印象である。
日本の株価がようやく過去の高値を追う過程で、企業不祥事が目立つのはいかがなものか。外国人投資家の長期投資に期待したいが、こんな状況で日本企業の改革が進んでいると認められるのであろうか。

特にISO9001に関心の強い私には、東洋ゴムのISOとのかかわりはどうだったのかに意識が向かう。だが世間の関心はISOには既になく、報道もこの点を焦点に合わせることはなかった。今年は品質のISOと環境のISOが改訂になる予定で、その改訂内容は実行に移すには結構面倒なところが多いこともあって、一部のISO関係者の間では認証登録件数は減少しそうな予想も出ているようだ。これでいよいよISOマネジメントも化石化する傾向が強くなるかも知れない。ISO認証書は、化石の標本のように企業の応接間に飾られるだけのものになるのかも知れない。

建物の基礎に設置される免震ゴムと言えば、私は90年代の初めにあるゼネコンの研究所で展示されていたのを見たことがある。“ゴム・メーカーの言によれば千年保証だと言っている。どうやって千年も劣化しないことを確認したのでしょうネ。”と笑って説明していたことを思い出す。どのゴム・メーカーのものか説明者は明かしてくれなかったが、何だかゴム・メーカー開発担当者の切実な覚悟が伝わって来るような気がしたものだった。

一方、東洋ゴムの経営陣にとっては、免震ゴムは製品として0.7%の比率でしかなく、まなじりを決するほどの対象ではなかったという。要するに経営者の丁寧な眼差しの行き届かない製品だったということではないか。従いISO9001の適用される製品ではなかったのだろうと当初は思っていた。
ところが審査会社は“ダイバーテック事業本部”を対象に“マネジメントシステムの有効性が確認できないため”との理由で、認証の“一時停止”の処置を取っていた。どうやら建築用免震ゴムはこの事業本部の製品のようだ、ということが分かった。
もし東洋ゴムが製品の検査結果を改竄・偽装したのであれば、品質ISOの認証は取消となるのだろう。それにしても、記録が改竄・偽装されていても審査時にはそれを見抜くのは困難だ。ある意味 審査会社を欺いたとして、民事上の犯罪が成立するかも知れない。
東洋ゴムの社内コミュニケーションは“納期との兼ね合いで品質は保証できない”と製造部側が言っているという報道もあったが、これから推測するに開発中の製品で製造プロセスも製造の技術条件も確立できていない可能性もある。もし、そうだとすれば品質ISOの適用対象外となる。そうなると認証の取り消しは行き過ぎた処置だ。
実態はどうなのか、調査・検証するために時間が必要なのであろう。そのために認証の一時停止期間を“2015年6月22日~2015年8月21日(最大2ヶ月間)”として設定しているのであろう。ISO認証のルール上の課題としては、そんなところだろう。

気になるのは、先程の“納期との兼ね合いで品質は保証できない”との製造部の肉声から察するに、東洋ゴム内の研究開発部隊と営業部隊との間に在って、品質保証と製造責任を負わされた製造部隊のある種悲痛な叫びのようにも聞こえる。つまり、杜撰な開発により安定的な製造条件の確立が為されていないにもかかわらず、営業部隊は同業他社との熾烈な競争の中で顧客獲得を至上命題にモノが出来ればそれを金科玉条に納期もギリギリで即座に受注し、製造責任を製造部隊だけに押し付けている印象があるのだ。こういう部門間の軋轢は、激しい企業間競争の中にあってはしばしば起きるものだ。こういう時の経営者の裁定は重要である。開発部隊が発見し提示した技術条件で安定的な製造が可能かどうか、特異な技術条件に現状の製造設備機器は耐えられるのか、或いは適切な原料の調達は大丈夫か、その上で納期は厳守できるのか、その他顧客に迷惑をかけることがないか、等々を総合的に即座に判断する能力が経営責任者に問われるのである。本来はISOの仕組の中で検討され経営責任者に報告されなければならないはずだが、それがいい加減に為されることが往々にしてある。それを見抜くためには、それまでの事業展開や組織、各部署の従業員の能力も含めて十分な理解がなければならない。そういう意味で各部門の生え抜きの経営者・マネジャは必要であり、企業のタカラなのだ。
そういう能力がないため社内で軋轢があることを承知しながら、一時しのぎで見て見ぬフリをしてやり過ごすと、矛盾の行き着く先は事実と異なる偽装・改竄となる。そして仕様を満たさない製品はとりあえず無事出荷され一同ホッとするという図式になる。
見かけだけ新製品は無事出荷されてしまうと、今度は営業は拡販を画策し、イケイケドンドンとなる。震災に悩む日本社会で“この免震ゴムは大いに売れる”となり、相次ぐ受注となる。その結果 実際は仕様を満たさない製品が、次々と社会的に重要な物件にも提供され使用されて行く。製品開発と製造の近くに居て実情を知っている者がたまらず内部告発に及び、事態は露見する。

今回東洋ゴムで起きた事実はこれとは少し違うかも知れないが、こういう筋書きに近いものだと私は憶測する。だが、この筋書きには問題は多数存在する。
ここではISOで言う設計検証や妥当性確認の不十分について殊更に言う気はない。何故ならば、関係者はISOの要求事項は熟知し、それに対応した“矛盾しない記録”は恐らく周到に残されていただろうからである。記録は承知の上で偽装・改竄されているのだ。
とは言うものの少なくとも妥当性確認の不十分が問題なのは後から見れば疑いようがない。しかし本当の問題はその先にある。何故、妥当性確認が不十分のまま、それを承知の上で出荷したのか。そういう状況を許す企業文化が問題ではなかったか。特に、この東洋ゴムでは数年前にも同じような偽装をしていた事実がある。是正処置が不十分な企業体質なのだ。こういう厳しさのない文化を許容し、放置すればさらに同様の問題を繰り返すのは明らかだ。
ここで期待する企業文化とは、ISO規格の厳格な適用とそれに基づく社内ルールの実行が厳正に為されることを通じて、社員・従業員のパフォーマンスがISO規格の背景にある“考え方”を理解し、自主的に実践できる文化を醸成できているか、というところにある。
しかし、一旦出来上がった企業文化の是正は非常に困難な作業で、ファウンダーや創業者のような余程の指導力がなければ達成不可能だ。つまりは、厳正な経営者やマネジャがその時々の事業全体を理解しどこに問題があるのか洞察し、何があっても厳しく指示・指導できるようでなければ難しい。
そういう経営者・マネジャが居ないことが このような緩い企業文化の醸成となったのであろう。または居ても問題を適切に解消できていなかったのであろう。そのため各部門の責任者は その決められた職務だけを果たすことしか考えない余裕のない状態に陥ってしまっていたのだろう。さらに、品質マネジメントの本質は何かを経営者も含め誰もが理解していないことも考えられる。そして、自分の経営する組織がそういう情けない風土・文化となっていることに気付く素養のないトップ・マネジメントの存在もあるのではないか。
社内政治の力学解析のみに長けて、その勝者となっただけのトップ・マネジメントであれば、自らの地位に汲々とするばかりで後は野となれ山となれ、一時的に我が身が健在の時だけ生き残れば万々歳。そんなところにまともなマネジメントは存在しない。そんな組織にまともなカルチャーは育たない。組織は時と共に腐って行く。気が付けば、最早手の施しようもない状態になっている。そんな日本企業が多いのではないか。

ならば、そうならないようにISO規格を作れば良いはずだが、それは殆どは暗黙知に近いテーマから成り立っている。だから規格のような形式知には出来ない。生身の風土やカルチャーを客観的に表現できる形式記号は存在しない。また何をやるにしても程度の問題があるが、程度の適切さも適宜変化する人間の組織では基準設定は困難だ。
そういう訳で、先週の指摘と矛盾するようだが経営者のKKDは重要だ*。品質経営でISO9001は基本として重要だが、そうした経営者の過たないKKDも等しく重要ではないか。否、適切なKKDを持ち得ていない指導者を経営者として送り出さないような組織風土や文化も重要なのだろう。しかし、そうした優良な組織風土や文化の醸成は、日々の注意深く意識的で強力な指導がなければ不可能なのだ。

*KKDとは、経験と勘と度胸の略。

冒頭に述べた、不祥事のあった日本の経営者にそういうKKDがあったのだろうか。社内の力学政治のみに長けて、その勝者となっただけのトップ・マネジメントばかりではないだろうか。目前の抗争に打ち勝つことや一時的な利益にばかり目を奪われるような規模の小さな経営者、或いは政治家もそうだが、そういう人材が日本を牛耳っているのでは日本の将来は無い。つまりはビッグ・ピクチャーを持ち得ず、目先の問題に汲々とし姑息に日々をやり過ごすことばかりに専念している指導者ばかりではないのか。昨今の国会審議もそうだが、何だかそれが日本全体の実態のような気がしない訳でもない。

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