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渡辺淳一著・文庫本“仁術先生”を読んで

先週、思わず都議選敗戦の弁を語る首相・安倍氏の姿を“結構へらへらして会見するのではないか。呑気に受け流して余裕のある雰囲気すら漂わせるのではないか。恐らく、都議選の結果は国政に影響しないとの台詞を用意しているだろう。”と想像していたが、実際は全く違っていた。
自身の責任については誤魔化していたが、全く自信のない雰囲気を漂わせていた。日頃“信なくば立たず”とうそぶいていたにもかかわらず、想像に大きく反して沈痛な面持ちであった。そもそも信有らば“(敵や反対者が)百万人といえども、我往かん”ではないのか。やはり“その言や虚なり”であって、本来彼には“信”などみじんも無いのだ。いわば嘘つきの虚勢でしかなかったのだ。
国会答弁でも野次られるだけでオタオタしてしまうので、“野次は止めてください”との台詞をノタマウ訳だ。信有らば、何を野次られても信念を貫き、その信じるところを語れば済むはずではないか。信なく、自信のないのが彼の実像に違いない。
その根拠なき虚勢に私もすっかり騙された訳だ。その政策実現のための戦略やシナリオなどと言うものは全く何もなかったのだ。恐らくこれまでも、その政権のスタート時点から、全くの“運のみマージャン”だったのだ。

私の想定した安倍氏のシナリオはこうだ。
北朝鮮の核とミサイル開発の進展に、最早ストップをかけられずに危険水域に入ったと認識した米国は、同じように北朝鮮に不信をかこつ中国と水面下で協力して、軍事力行使に踏切ると想像した。特に、キムジョンナム暗殺に至っては米中共に大いに不快感を催したと思ったのだった。現に、中国の外交筋は今年の初めから米国との間で頻繁に往来していたというので、この辺りの課題を協議していたものと思ったのだ。
米国は94年クリントン政権時にも北への実力行使を検討したが、その際は実際に攻撃すれば被害甚大となると予測されたので断念した経緯がある。しかし、今は当時とは異なり、性能の向上した巡航ミサイルが使用できる。従がい、こを使って北の反撃の余地を与えないような先制攻撃を行えば被害想定はかなり抑制できるのではないか。そのためには、千発のトマホ-クが必要と考えられる。そのためには3空母群が必要だが、4月は現実にカール・ヴィンソン、ロナルド・レーガンが集結し、ニミッツも米西海岸の本拠地からやって来るという状況だった。これにトマホ-ク100発以上搭載可能の攻撃用原潜が加われば十分に千発のトマホ-クを撃ち込む準備は整う。しかも6月上旬まで結構在韓米軍の家族の避難訓練は実施されていたようだ。これでいよいよ本気だと考えられた訳だ。
安倍氏は、それに合わせるかのように組織犯罪防止法を強行採決した。なぜ急にこんな無理筋を強行するのか。米軍の北への先制攻撃が現実化した場合、反撃能力の減少した北にとっては日本に潜入している工作員の活動に期待せざるを得ず、必ずテロ指令が飛ぶだろう。その秘密工作員の活動を事前に阻止するために共謀罪の適用を目指したのだと考えた訳だ。
又、実際に米軍の北への攻撃に合わせて自衛隊の特殊部隊を平壌への派遣を計画して拉致被害者救出するのだと、安倍氏ははしゃいでいるとの週刊誌報道もあった。北の秘密工作員の一斉逮捕とその後の拉致被害者救出は、日本の右翼バネの炸裂となり、一気に憲法改正に突き進めることになるとの、安倍氏のシナリオと考えたのだった。

だが現状では、米空母カール・ヴィンソンは既に母港に向かっていて、ニミッツは未だハワイ方面で、乗員の猛訓練中だろうか。ロナルド・レーガンも南シナ海方面に居る。つまり朝鮮半島近海には空母は1隻もいない。
これでは北への先制攻撃の戦力前提は崩れ去っているのが現状だ。しかも“米国防長官ジェームズ・マティスは、国防総省の記者会見等で「軍事的解決に突き進めば信じられない規模の悲劇的結果となる・・・外交的手段による解決のため、国連、中国、日本、韓国と協力して行く」と述べている。”という。
そうなると、安倍氏が夢想したと私が想定したシナリオは成立しない。そもそもそんなシナリオがあってのことではなく、全ては彼の知性の限界を超えていたのかもしれない。

話は変わるが、北朝鮮のミサイルが飛来する際に有効と政府が言うJアラートは有効に機能するのだろうか。軍事ジャーナリスト・田岡俊次氏は否定的だ。その見解を首肯せざるを得ないのは、北がミサイル実験をすれば、第一報は必ず“韓国軍によると、北朝鮮が日本海に向けて発射した模様です。”となっている。決して“自衛隊によれば”とはならない。その上、先日の7月4日の実験でもそうだったが、どこに落下すると予測されるとは決して言わなかった。
日本海には自衛隊のイージス艦が米軍と協力して常時監視の任に就いているはずだ。何故だろうか。簡単に情報発信すれば、軍の機密が漏れる(能力が仮性敵に知れてしまう)、とでも言うのだろうか。もしそれが本当ならば、国民の安全より“軍の機密”が優先していることになる。ならば、全く戦前と同じ発想ではないか。それで良いのか。何だか背筋が寒くなる思いがするが、どうだろうか。
こんな状態で、実際に日本本土に北朝鮮のミサイルが飛来した場合、Jアラートは有効に機能するとは思えないのだ。今まで、一度たりともミサイルの落下予測地点を公表していない。それは実はその能力がないからではないか。改めて田岡俊次氏の見解は正しいのではないかと思えるのだ。
そうであれば、日本の北のミサイル防衛は本来心もとないものであるのだから、関西にPAC3が配備されていないからと言って、東京と差別されていると拗ねてみても意味のないことかも知れない。

それにしても、7月4日の北のICBM実験はいよいよ米軍側を精神的に追い詰めた可能性はある。8月には米韓合同軍事演習があるという。7月11日以降の日本の公安の動きに注目するべきだ。本件は、軍事に素人のトランプよりも専門の米軍首脳がどう考えるかにかかっているので、これを機会に北への攻撃の可能性はある。だが、その前に“国会の閉会中審査を10日に行い、前川喜平・前文科事務次官の参考人招致する”ことになっている。自民党にとって都合の悪い話は11日より前に済ませるつもりかも知れない。
まぁ、何とでも勘ぐれるものだ。差当り、今週中にその動きの山場が来ないとは言えない。

それに加えて、災害列島。九州は地震に豪雨。日本人は大変だ。ハザードマップは大切だが、未だに地価が下がるから止めろという声が町村レベルであるとの報道を見た。現実から目を背けても何も始まらない。


さて、このところ思わず長い前書きになって申し訳ない。もしかして本文より長い?でも、短くできるほど現実はそう簡単じゃない。
先週はISO9001審査員資格の移行準備のため東京のISO審査員教育機関に研修会出席のため赴いた。その道中、新幹線の中その他で渡辺淳一著の文庫本“仁術先生”を読んだので、とりあえず その感想を寄稿したい。折角の東京への旅、ついでに井の頭公園とジブリ美術館、国立新美術館開館10周年記念“ジャコメッティ展”と三菱一号館美術館“レオナルド×ミケランジェロ展”にも行ってみた。別の機会に報告したい。

これは医師しか知らない裏側のメディカル・ユーモア小説だが、私は、渡辺淳一氏の本を結構読んできたつもりだが、同氏小説のカテゴリーには無かったのではないかと思われる。本のカバーにそういった意味のことが書いてあり、旅で気楽に読みたかったので買った次第だ。
この文庫本の構成は、“仁術先生”の第1話~第4話と“腰抜けの二人”の短編5小説と、エッセー“「医は仁術」といっても”から成っている。目次でそれを確認してページをめくると、紙片の中央下に“はじめに”とあり“ここに収録された短編小説は、1972年から73年にかけて発表された作品”なので、舞台となった社会的状況、医学的問題などは現在とはかなり違っているので、そのつもりで読んで欲しいという意味の注意書きがあった。わざわざそんなことを書くのかと、若干違和感を覚えたが、読者の勝手な誤解を恐れた まぁ編集者の親切心なのだ。渡辺氏の小説家としてデビュー直後の各種の雑誌、新聞に掲載された作品で、これまで単行本にもなっておらず、初めて再び世に出したものという。ユーモア小説とはいっても、登場人物はいずれも真剣に生きている。その結果がはからずも他人から見るとフフフとなってしまう人生の一面を切り出しているのだ。

5つの小説の主人公はいずれも円乗寺優先生になっているが、どうも渡辺氏の若い時の経験に基づいた話だろうと思われる。そして、本当は優秀な医学者でありながら、突然権威ある堅苦しい大学病院を辞め、町医者としてお気楽に生きようとする人情味ある“先生”は渡辺氏の理想の姿なのだろう。この先生酒好きで、専門は外科だが、町医者として内科、婦人科、何でも診る。

“仁術先生”の第1話は他人には言えない病気を抱えた寿司屋の若い夫婦の話。だがその夫も妻もお互いに本当の病気のことは知らずに元気よく自分達のお店で頑張っている。そして、先生に連れられて一緒にその店で寿司を食べた製薬会社の営業マンが真相を知って食べてしまった寿司が気になり、オタオタして終わる内容。

第2話は子供のいない下町夫婦が普通に生きていたが、ある日その嫁さんが急に痙攣をおこして卒倒して騒ぎとなった。果たして、その原因は・・・やっぱり忙しい男と寄る辺の欲しい女のドタバタ劇。

第3話。体格も良く健康な若者だが、新婚にもかかわらず不能で悩んでいる。屈強にもかかわらず様々な心理的圧迫で不能になった?その治療にはベテランの女性看護師による風俗嬢まがいの施術となる。そしてこの治療は大切にもかかわらず“健保ききません”という表題。

第4話は、円乗寺先生の未だ経験の乏しい時に診た若い女性の“不定愁訴”の話。不定愁訴とは、“一定しない身体の不調の訴え”で “すべて本人だけが感じ、他人からは窺い知れない”客観的でない症状であることが特徴。このため、どんな検査をしても異常がない。とうとう若い先生は心理的なものとして適当な投薬をして事実上見放してしまう。その後 その女性患者は音信不通のまま自殺した・・・。先生、それ以来“まず女を見たら妊娠と思え。”を教訓にした。
この小説、若い男性医師が若い女性患者を診察するシーンは圧巻でエロティック。恐縮だが、読んでいて途中で私は真相を直感した。専門家になると知識が多すぎるので、逆に先入観の隘路にはまってしまうものなのだろう。

“腰抜けの二人”も若い無給医―今は居ないのかもしれないが、以前は大学病院医局の若い医者は無給だった―が、北海道の炭鉱の病院にムリヤリ派遣され、遂に落盤事故に遭遇した患者を前に戸惑う経験談のようだ。
大学の教授の意向で影響下の病院へ若い医者が派遣されるのは、医学界の常識だった。少なくとも、私の主治医が2000年代に“大学研究室の意向で○○病院へ転任です。”と言っていたので、つい最近までその傾向はあったのかも知れない。しかし今は逆にその教授の強権支配が薄れて来ているので、僻地の病院に若い医者が行かなくなっているという弊害が出ていると、報道番組で指摘していたように思う。これは僻地の病院では経験が乏しくなってしまい、“お勉強できない”という客観状況が原因らしい。
この話では落盤事故で3人が被害者となり、1名は死亡した。そしてその1人が2人に挟まれて、実は何らダメージを受けておらず事故に驚き腰が抜けただけだったが、既に新聞等に歩行困難な重症を負ったと発表してしまっていた。そこでそのまま偽の治療を施して無事やり過ごし、医師共にお互い“腰抜け”だったという話。

エッセー“「医は仁術」といっても”では、医者の社会的地位はやはり時代に応じて変化して来ている。昔は“「赤ひげ診療譚」のような奇特な医者もいたが、あれは特異だから評判になったので、大半の医者はそうではない。”患者が金持ちなら吹っ掛けたが、貧者には仁術を適用して、バランスをとった。“こんな具合だから「医は仁術」が実際にどれほど実行されたかは疑わしい。”
このように昔は法や制度が不備で、それを義理人情で“人々はたすけ合い、仁術を施す医者もいた。”医者の側も“現在の医師とは比べものにならぬほど、自分は人の命を預かる選ばれた少数者だという、自負と矜持を持っていた”。
今はこの逆で、“法の支えができ、がんじがらめに成文化されればされるほど、社会からモラルは失われていく。”というが、この渡辺氏の発想は私には新鮮に感じる。.
その上、現代は“医師は多いが、それだけに一人の医師の使命も薄い。時代は医師に一介の技術者で、かつ、スペシャリストであることを要求している。”“そこに「医は仁術」的な口当たりのいいモラルだけを要求するのは安易すぎる”と言っている。確かに、社会的に適切な医師の待遇というものを考える必要がある。これを渡辺氏は“モラルには金がかかる”と言っている。社会の進歩にはモラルの進歩も必要だ。そのモラルに限らず、日本の医療体制、医師の育成も含めて大丈夫なのだろうか。

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