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株主総会とついでの美術鑑賞―神戸の会社の総会と“ベルギー奇想の系譜展”観覧

いよいよ自民党が全力を挙げて取り組もうとした都議選が開票された。自民党員の不祥事、舌禍が止まらないまま選挙は経過した。週刊誌をはじめとしたマスコミが自民党所属の議員たちの周辺に胡散臭いものはないかと嗅ぎまわった結果だ。このマスコミの動きにとうとう自民首脳が怒りの八つ当たり発言を始めたと7月1日の朝刊は報じていた。それが又公式の舌禍となっている。自民党にとっては図らずも負の連鎖となってしまっていて、結果大敗した。
さらに、公明党なしで自民単独で どこまでこの逆風の中戦えたのだろうか。公明党は、与党内で影響力を行使するためにも、ここで自民党に大打撃を与える必要があったはずだ。今後どのような動きとなって行くのか興味深い。とにかく現政権に対する一般の不信感はいよいよ頂点に達していることもあって、客観情勢は自民党には厳しいものとなった。
それにしても国政で野党第1党の民進党は今後どうなるのか。折角自民が議席減となっても、その反対側の票が割れるようだと、しっかりした受け皿とはなるまい。民進では戦えないと又脱走者が出るようでは、この国の健全議会、否民主主義は方向性を失うのではないかと懸念される。それが又日本の停滞の原因となるようではたまらない。

それにもかかわらず、安倍氏は結構へらへらして会見するのではないか。呑気に受け流して余裕のある雰囲気すら漂わせるのではないか。恐らく、都議選の結果は国政に影響しないとの台詞を用意しているだろう。
それは何故か。大変恐ろしいことだが先週このブログで話したことを決行する予定だからではないかと思われる。もし実行されれば、米軍が北を直接攻撃する条件が整うことになる。米韓首脳会談は、米国による韓国分政権の出方を伺うものとなったであろう。それが決行されれば、日本の右翼バネが炸裂し、政権支持率急上昇となるのを期待しているのだろう。
しかし、これでいよいよ日本の暗い時代の始まりとなる。世論は沸き立つであろうし、そのまま憲法改正へと突き進むのであろう。それが日本社会のアナクロニズム、逆行の時代となるのだ。


先週は、午前中神戸三宮で ある大手会社の株主総会があったので出かけた。去年社長が変わった。大手の社長の任期は短いように思う。これで長期経営戦略を立案し実行できるのであろうか。米国のゼネラル・エレクトリック社のトップは結構長く在任している。そして各経営者が個性的で時代に合った改革を推進している。しかも、後任には それができる人物を慎重に選んでいるようだ。その都度、“無難” な人物を選んでいる訳ではない。
この会社の社長は確かに、株主総会の運営は“無難”に運営できる人物だった。どこから突っつかれても“無難”に答えられる。アバウトで抽象的な答弁ではあるが首相の安倍氏のそれよりはるかにましだ。だがそれだけでは、確かに株価は上がらないのではないか。ある株主から“何で株が上がらないのか”と無駄な質問があったが、問題の本質は“無難”にやっているところにあるのではないか。否、そんな会社の株は買わないのが本来なのだ。
以前思い切った施策を打ち出したときは、この会社の株価は上がった。市場という社会が評価したのだ。しかし、それは内輪の論理で御家騒動となり終息した。その時のトップは変えられた。そして3年、またトップが変わったのだ。

しかし今、企業経営のトップが、その会社の運命を大きく左右している時代だ。シャープに引き続き、タカタや東芝の不祥事はいずれもトップの方針のいい加減さに起因しているのではないか。人格、識見にもとるものがあったためではないかと思われるが、どうだろうか。社会的正邪やその会社にとって価値あるものは何か、その会社は今何をしなければならないかを、的確に見抜いて、徹底して実践し実行させる力量が問われるのだ。内輪の取締役会で内輪の論理を振りまいて、内輪の権力闘争で勝利したものが、トップに座って平然とする、そういう時代ではない。どんな会社にも時代に応じた革新が必要な時代なのだ。

時価総額で日本のトップはトヨタ自動車だが、そのトヨタは世界では42位で、中国のアリババに追い越されたそうだ。日本の会社はこのようにどんどん時代に取り残されているのではないか。確かに、トヨタは目配り良くそつなく経営している。だが、それだけで良いのか。車は作れても、自動化の徹底した車作りは怪しい状況になりつつある。
優良企業のトヨタはまだましだ。日本の一般企業は“無難”に経営するために、積極的な将来投資は控え、従業員への配分も控え、ただひたすら内部留保に終始する、それが近年の日本企業のパフォーマンスではなかったか。その結果として日本の経済はデフレから脱却できず、社会に明るさはない。世界は躍動しているが、日本は停滞したままだ。
日本の株式市場に上場する海外企業はたったの1社だという。シンガポール市場にははるかに多くの外国企業が上場しているという。かつて東京市場はロンドン、ニューヨークと並んで3大市場として重視されていたが、その凋落は激しいのではないか。さらに、外資系の有力銀行はシティ・バンクを最後に全て撤退というか、政府当局が嫌がらせをして追い出してしまった。日本に融資したい企業がないのも要因だろうか。外国人が日本の株に今よりも もっと魅力を感じなくなるのは、それほど遠い将来ではないのではないか。

それで良いのか。そんな思いに駆られつつ総会は“無事”終了。今年から、来場できない株主のことを考慮してお土産は廃止だという。これが今年からの一般的傾向のようだ。これで神戸のお菓子屋さんの売り上げは確実に減ったはずだ。公平性の尊重、それも良いが、余裕のない社会や空気、それで良いのか、という複雑な思いもした。ある会社が始めたら、ほとんどの会社が右へ倣え、それで“無難”にやっている個性無き経営、それで良いのか。株主総会だけでしか一般株主と経営者がコミュニケーションする機会がない、しかしその総会ではすれ違いの一方的対話しか成立していない。多分中国共産党の大会はこのようではないだろうか。それで良いのか。“無難”にやっていては革新はできない。革新できなければ、それだけで、突然その会社が危うくなることもあるのが現代ではないか。


折角の三宮への外出。阪神電車でその次の次・岩屋駅に行けば兵庫県立美術館があり、今、“ベルギー奇想の系譜展”を開催している。その“ついで”との思いで、鑑賞に赴いた。
安藤忠雄の設計の美術館。やはり中へ行けば、その都度独特の気分に襲われる。受付から階段で会場に向かうが、その階段も独特だ。安藤氏の設計は快適に重点を置いていない。広い階段の縦空間の脇の狭い通路を危なっかしい思い出会場に入る。

会場に最初に在ったのはヒエロニムス・ボス工房の“トゥヌクダルスの幻視”であった。この絵はPRポスターに多用されていて、この絵画展の目玉なのであろう。この作品は、主催者の解説によれば、“15世紀から16世紀にかけて活躍した画家ヒエロニムス・ボスの工房による、騎士トゥヌグダルスの異界めぐりの夢を描いたものである”、とされ、“伝承によれば、ある日昏睡に陥ったトゥヌグダルスは、現世で罪を犯した人々が地獄で責めさいなまれるのを見て改悛し、修道士となった。”という。その幻視を絵にしたもの。“画面に大きく描かれた頭。目は黒い空洞で、鼻からは金貨銀貨が噴き出している。しかしボス工房が描く地獄の悪魔たちの姿はどこかユーモラスで、見る者の心を和ませる効果すらある。”ということだったように思う。普通の日本人には、この絵の文化的背景は分かり難い。
Wikipediaによれば、“トゥヌクダルスの幻視(Visio Tnugdali)は、12世紀頃にアイルランド人でベネディクト会系の修道士であったマルクスがラテン語で執筆した異世界幻視譚である。”という。“トゥヌクダルスが幻視した死後世界は、未判決者の魂の場と、既判決者の魂の場で構成されており、トゥヌクダルスの魂は地上から天使と共に上昇し、未決者の魂が存在する拷問所を通り、死の門より深淵へ落ちゲヘナへと向かう。その後、栄光の場へ向かい一望した後、天使により地上へと返される。この死後世界は大きくは「光明の世界」と「暗闇の世界」に分けられるが、未決者の魂が存在する場を煉獄とし、光明の世界を天国、死の門より下を地獄とも位置づけることができる。この幻視譚はのちのダンテ『神曲』などの幻視文学に大きな影響を与えた。”
ということで、ヨーロッパでは有名な逸話が背景になっているようで、ダンテも影響を受けたということ。だが本来おどろおどろしい逸話を、一般日本人に“かわいい”とまで言わしめるようなタッチにわざわざ仕上げたのは、どういう意図があったのだろうか。それが分かり難いのだ。
“15~17世紀のフランドル美術”で、ボスの世界からブリュ-ゲルの世界へとつながって展示されているが、やはり理解困難の印象だ。感覚で理解すれば済むのかもしれないが、それだけでは誤解もあろう。特に、個々の状況が意味するものの細かい点に、見てすぐ理解できるものではない。

その次の“19世紀のベルギー象徴派・表現主義”では、産業革命の波で工業化が進む社会となる中での、近代の不安がテーマになっているようだ。“骸骨や仮面といった伝統的な表象を用いて、鮮やかな色彩の中に自身が抱えていた孤独や怯え”を表現している、と解説にある。

“20世紀のシュルレアリスムから現代まで”では、私には時代的な“不安や怯え”の印象は薄れてしまい、何だか芸術家の観念が暴走又は押付けただけのモノといった感覚にとらわれる。レオ・コーペルスの作品“ティンパニー”は逆さまにされた骸骨が絵筆を咥えて、頭からテンパニーに打ち付けられてリズムをきざんでいる。トマス・ルルイの“生き残るには脳が足らない”は、巨大な頭部を持った人物が動きが取れずにいる状態を写実的に表現している。いずれも単に作者が面白がっているだけのように感じられる。現代文明の何に問題があると言いたいのか、想像力の乏しく繊細な感覚にも恵まれない私にはイミフだけだった。

だが、こうしたヨーロッパ芸術の延長線上に、ムンクやダリの作品があるのだろうとの理解はできたような気がする。そういった感覚を確認するためには、何だか少し物足りなさを感じる展覧会だった。まぁ、こういうこともあるものなのだろう。

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