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“社会正義”への感覚―“悪魔”の正体を見分ける基準

日本維新の会が その代表の舌禍によって混乱している。
その舌禍は、暗黙のグローバル・スタンダードたる“社会正義”に反していたことに起因している。だから国際的にも嫌悪されているのだ。そのことに、御当人達は気付いておらず、問題発言を撤回しようという動きは全くない。逆に“誤解された”として、全マスコミの“誤報”と強弁し、譲る気配はない。その傲慢さが原因で、何やら最近のテレビ番組での発言で また騒動が起きているらしいが、根本的に勘違いしている御人には何を語っても無駄ではないだろうか。たとえローカルに支持されたとしても、グローバルには拒否されるのだ。現に訪米できなかったではないか。

さて、「暗黙のグローバル・スタンダードたる“社会正義”」とは、何か。それは、いわゆるリベラリズムであると考えてよい。その基礎には、“自由”、“平等”そして“博愛”の徳目がある。何だか言い古された感のある言葉だが、これは、フランス共和制のスロ― ガンである「Libertéリベルテ, Égalitéエガリテ, Fraternitéフラテルニテ」に由来する。良く知られた言葉だが、それぞれの概念の本質を知ることは意外に難しい。
“自由”の解釈は、実は難しい。しかし、少なくとも一般人にとっては“政治権力からは、絶対的に自由”であるべきなのは常識だ。だが、一般人同士で“自由”を振り回すと衝突せざるを得ない。そこで、日本の現憲法では“公共の福祉”という歯止めを用意している。
“平等”はこれらの中では 比較的やさしい概念だ。それは 概ね2つの概念で成り立っている。それは“法の下の平等”であり、“機会の平等”である。
そして、最もつかみどころのないのが“博愛”だ。これは、フランス語のFraternitéフラテルニテだが、“これを「博愛」と訳したのは明らかに誤訳だ”とされる。この言葉は、実は、岡本薫氏によれば“一般のフランス人にとっても難解な用語であるため、例えば大統領などが国民に演説するようなときでも、「リベルテ、エガリテ、レスぺ・オ・ゾール」と言い換えられることが多い。この「レスペ・オ・ゾートル」とは、英語に直訳すると「レスペクト・フォー・アザース」であり、要するに「他者の尊重」という意味なのである。” とのことだ。私は、これを“他者への寛容”だと思っている。
これらの概念を、基礎にしない“社会正義”は、偽物であると思ってよく、それは「暗黙のグローバル・スタンダードたるリベラリズム」に反している。日本の右派の考え方には、特に“他者(の存在)への寛容”が乏しく、独善的であるのが特徴であるように思う。

さて、その日本維新の会の代表は、かつてあるテレビ番組のレギュラーでもあった。その番組でタレント弁護士として知られるようになり、負債で押し潰されそうな大阪府財政の実態を知り、正義感に燃えて府知事に立候補して当選した。
その“府政改革”において既得権者と戦う上において、政治的基盤が必要になり大阪維新の会を創設した。その改革が、大阪府市の二重行政の無駄を排除するための大阪都構想に発展し、そのための立法に国政進出を果たすべしと日本維新の会へ展開することとなった。大阪府市民の期待は、そこまでであった。沖縄駐留の米軍兵のマネジメントや、オスプレイの八尾誘致についてまでは、何も信託したつもりはなかった。にもかかわらず、あのような舌禍騒動を引き起こし、その挽回策としてのオスプレイ八尾誘致に至ってしまった。しかも、肝心の府市統合事業は頓挫傾向にある。いや、そもそも大阪府の財政は本当にしっかり改善したと言える状態なのであろうか。人々は彼のパフォーマンスに幻惑されてはいないだろうか。
とにかく、“大都市地域特別区設置法”が成立して以降、維新の会が国政進出するのは大阪府市民には余計なことであった。にもかかわらず、中央に向かって暴走するのは 密かなる政治的野心によるのは、間違いない。彼の背後には私心の無い人間として称揚する有力者が居て、御本人もそのように振る舞ってはいるが、これまでの経緯の大筋を見れば、衣の下に鎧が透けて見える。

これまで人材に恵まれなかった大阪政界にあって、府政、市政の改革を目指す橋下氏は府民・市民には人気があった。その人物が中央政界に野心を抱いている。今は少々翳ってはいるが、上手く回復できれば昇竜の勢いとなる可能性もあるので、その人物像を この際見極めておく必要はある。そのためには、彼の良心・信条が 何に依拠しているかが、重要な判断要素となる。ところが、残念ながらあの舌禍の経緯を見る限りにおいては、お寒い限りである。
それは、彼の発想は保守的であり 端的に言って“古い”からだ。正直言って、彼の議論は街の年寄りの床屋政談や居酒屋政談のレベルで、清新性を全く感じない。新進気鋭の政治家で改革を目指すはずにもかかわらず、清新さを感じないのは致命的だ。しかも、その発言で多くの人々の心を傷つけてしまった。

では、どうしてそんな彼に人気が出たのか。それは、最初は テレビで見たオモロイ弁護士という見方があったかもしれない。それが、やがてこれまで誰も口にしなかった“大阪都構想”という革新性に満ちた政策を打ち出した。そこに 沈滞した大阪改革の芽を人々は見たのではないか。住み慣れた大阪市の解体には若干の不安を感じつつも、これまでの腐敗した行政の枠組を この際一旦壊して立て直す必要があると感じたのだろう。交通局の民営化によって、市民の足が少しでも“安くなり、職員がより親切になる”ことを期待したかもしれない。
それに、彼は演説が上手い、マスコミの使い方が上手い、という評価もある。これはテクニックの問題であり、政治的野心があれば、誰もが目指したいところだろう。

作られたイメージで政治家を評価すると大きな間違いを犯す。そうした苦い事例として、ナチスを率いたヒットラーがある。
橋下氏の演説について、川上徹也氏はヒットラーの演説にある“ストーリーの黄金律”を、見事に踏襲していると解説している。その本の中で川上氏は“ナチスは、当時最も理想的な憲法を持っていた民主国家ワイマール共和国で、「民主的」「合法的」に政権を奪取した”と指摘している。勿論、様々な陰謀をめぐらした上での外見上の「民主的」「合法的」ではあるが、この点において歴史上の他の独裁者とは際立った違いがあると言っている。演説こそ、民主社会で合法的に政権を奪取する武器であることを理解して、橋下氏が ヒットラーを“学習”していたとしても何の不思議もない。

また、史上悪魔のごとき所業をなしたと思われるナチスの政策には、驚くほど進歩的なものが多数あったという。国民車フォルクスワーゲンの開発を ポルシェ氏を起用して行い、アウトバーン建設等の公共事業による景気回復などは つとに有名なエピソードだ。しかし、もっと驚くようなきめ細かい施策を多数実施していたらしい。この点については、武田知弘氏の“ナチスの発明”に詳しい。
その中で驚嘆するべきことは、当時既に“ナチスはロハス”だったとして、“ナチスはこの(有機農業や自然農法)の概念をいち早く取り上げ、すでに実験的な農業に取り組んでいた。”と紹介していることだ。その当時、日本には化学肥料がようやく知られるようになったばかりで、農業改革を目指す宮沢賢治は化学肥料のセールスマンをしていたほどだったという。また、化学工業の発達していたドイツにあって、増加するガン対策のため、“ガン発生に関係する危険な食品、薬品を禁止する法律がいくつも出され、低脂肪食の推進、生活習慣の改善運動など様々な方策がとられた。また公共の場での喫煙を禁止”したとも指摘している。勿論、きめ細かいアスベスト対策も既に行っていた。これらは、すべてゲルマン民族繁栄のためのみに実施されたものであり、労働者や女性を保護する政策も多数実施していた。さらには、ラジオの普及は言うに及ばず、テレビ放送、公衆テレビ電話、電子顕微鏡の開発、ジェット機、ヘリコプター、ロケット等々、様々な技術開発と国民への普及に腐心していたようだ。

こういうエピソードを知ると“悪魔”も良いことをするものだ、という感慨を持ってしまうが、考えてみれば人を魅了するには“一面の真実を語り、一見先進的な思想”が必要なのだ。そうでなければ、人々を納得させ強力な支持を得ることはできない。全ての“悪魔”は、そうやって人々を欺いている。それが “悪魔”の特徴であり実体なのだ。
では、そういう“悪魔”と“正義の戦士”をどうやって見分けるのか。それは、普遍的な社会正義を語り、それを実践しようとしているか否かではないかと思う。普遍的な社会正義は、リベラリズムであろう。
ナチスは、視野狭窄の狂信的なゲルマン至上主義であり、特に ユダヤには非寛容で妥協することはなかった。そしてついには、ユダヤへのホロコーストに至り、史上まれに見る“悪魔”となり下がった。

さて、果たして日本の右派には、視野狭窄の狂信性や非寛容はないと言えるだろうか。いや逆に、何としても“歴史から謙虚に学ぼうとしない性癖”に、それを見るように思う。また、その懐古趣味に、歴史に無反省である傾向を見て取れるのではないか。“戦後レジームからの脱却”を呼号し、憲法改正を掲げる自民改正案を見る限り、明治憲法への限りない回帰、つまり“戦前レジームへの回帰”を目指しているとしか見えない。繰り返すが、そこには清新性はない。
“維新の会”という団体名や、その政策目標に“船中八策”などと呼称する懐古趣味にも、その後の歴史から学ぶ意識が乏しいイメージが浮かぶ。そういう潜在意識が、あの橋下発言となって 露見したのではないだろうか。そこには、意識の後進性が見事に表現されているのだが、何としても それに気付かないのは救いようがない。

米国が人権尊重を国是とするのは、それがグローバル・スタンダードであるリベラリズムの発露であり、それを追求し、現実との差を埋めるのが政治の目的であるからであり、それを語らないと、ひとかどの政治家とは見做されないからだ。それでも人権抑圧の中国との対話を欠かさないのは、“寛容”の姿勢を示すためでもあるのだ。そういう政治哲学の基本を理解できない日本の政治家には、政治を語る資格はない。まして国際社会では全く評価されない。
このように絶えず歴史から学び、普遍的な“自由・平等・寛容”を標榜し、実践するか否かが、“悪魔” と“正義の戦士”を見分けるクライテリアではないかと思うのだが、いかがだろうか。

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