The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
龍馬の墓と幕末維新ミュージアム
先々週、また京都での午後のセミナーに参加することにしたので、ついでに午前中にプチ観光した。
今回は、その時期に催しをしていた霊山歴史館へ赴き、その周辺も見て歩くことにした。その催しとは、「会津の武士道・会津藩と新選組」がテーマであった。NHK大河ドラマ“八重の桜”に便乗した印象もあるが、実は“新選組は本年で結成150年”であると言う。
さて、当日は例によって、阪急四条河原町からスタート。八坂神社から南下して、“維新の道”につながる道路に出る。
その南下する道路の左側つまり東側には高台寺の敷地が広大に広がっていて、うっかり間違えるとそちらへ吸い込まれてしまいそうだ。考えてみれば、この高台寺も史跡と言えるので、またいずれ拝観するべき所である。今日は、あくまでも目指すところは、幕末維新にゆかりの地。
道路そのものには、何の表示もないが気が付くと、登り勾配の坂道、ここが“維新の道”なのであろう。
この坂道を登りきったところで、左手が護国神社、右手が霊山歴史館。歴史館は、開館にはまだ早い時刻だったので一先ず護国神社の境内に入り、参拝。ここの境内奥の山には、坂本龍馬の墓があるというので行ってみることにしていた。その山の麓には、しっかりゲートが作られていて、そこに土産物のような物を置いてあり受付の女性が居たが、改札口のようなところに料金を入れて入場してくださいとの指示であった。
入ってみると そこには大きな墓地の配置図が掲げられている。お目当ては、坂本龍馬の墓なのだが、ここは維新の志士の共同墓地のようだ。お墓が沢山ありすぎて探すのが大変と思ったが、龍馬のは 坂を上がって直ぐのところに在るようだ。つまり、一番下にあることになる。一番上には、木戸孝允(桂小五郎)のひときわ目立つ大きさで所在するようだ。この扱いの差は、やはり歴史の奔流に生き残り 明治の元勲となったか否かなの差なのだろうと納得。
十分に把握しきれないまま、とにかく行ってみることにした。すると、案内図通り、展望台のあるところに、そのお墓はあった。さすがに周囲の墓とは区別された区画の鳥居の奥に、左側に坂本龍馬、右側に中岡慎太郎と表記されていた。展望台からは、京都市街が一望できる。ここに本当に、龍馬や慎太郎の遺骸や遺骨の一部でも埋葬されているのだろうか、との疑念が湧く。後で見た歴史館には、そのようであるかのような記述があったが、果たしてそうなのであろうか。
予定よりは時間があるようなので、一番上の木戸孝允のお墓まで行ってみることにした。その途中に、高杉晋作等のお墓もあるようなので、分かれば お参りしようかと思ったが、気が付くと そこは既に木戸氏のお墓であった。
後で気が付いたのだが、ここには坂本、中岡の墓のそばに、高知招魂社の小さな社があり、それ以外に熊本、岐阜、福岡、茨城、山口、京都の招魂社があった。しかし、鹿児島招魂社は無く、それと共に薩摩の志士の墓は無い。これは、どういうことなのだろうか。何か複雑で微妙な政治的背景があるような臭いがする。
さて、ほぼ予定時刻になったので霊山歴史館へ向かう。
先ずは、“八重の桜”の雰囲気満載の雰囲気。展示場の片隅に映像コーナーがあって、そこで戊辰戦争、取り分け会津戦争の概要が資料写真とナレーションで説明される。展示には、恐らくそのものではないだろうと思われるが、八重が鶴ヶ城で携行・使用したとされる同型のスペンサー銃の展示があった。騎兵用の銃だと言うが、細身でいかにも軽そうな外観である。それだけに至近距離でなければ威力はあったのだろうか、と思ってしまう。
ここまでは、歴史館一般にはあって当然の展示物と言えるが二階に上がる階段の下にあった大小の刀の展示には驚きであった。それには、龍馬を斬った刀とあり、そこには幕府見廻組の桂早之助が龍馬を斬ったのであり、それがその刀であると書かれていた。これは、私には大いなる衝撃であった。つい最近まで、龍馬の暗殺者は歴史の謎とされていたからだ。当初は新選組とするのが有力とされ、それもあって近藤勇は斬首されたようだが、一説によれば、龍馬の存在が面倒になった薩摩の手によるものとの推測もあったくらいだ。
霊山歴史館のホームページにも、“慶応3年11月15日、見廻組肝煎桂早之助がこの脇差を持って、京都・近江屋の一室で坂本龍馬を斬ったといわれている。・・・・桂早之助は西岡是心流を習い、17歳で目録を受け特に小太刀の名手だったといわれている。(室内での闘争には小太刀が有利なので、見廻組は早之助を起用したとあった。暗殺1ヶ月半後の)慶応4年正月、(桂早之助は)鳥羽伏見の戦いで撃たれて戦死、行年28歳。脇差はのちに桂家から霊山歴史館に寄贈された。”[括弧内は、筆者の磯野による追記]と、記載している。
こういう証拠物が あるということは、ずいぶん以前から知られていた“事実”だったのではないか。それにもかかわらず異説が多数出たのは何故か。刀自身が偽物とする根拠のようなものがあるのだろうか。何よりも、下手人・桂がその直後に死んでしまっている、というのもあまりにも好都合な印象ではある。私には“歴史の謎”とされていたことが、謎である。
1階は会津戦争一色のムードだったが、それより上った2階では それ以前の幕末の騒乱が中心となっている。“龍馬を斬った刀”以外は、驚くような展示物はないが、映像展示は面白かった。特に、池田屋事件は 人形写真を上手く使って結構迫力ある仕上がりになっていて、不思議な感覚になった。
“会津藩と新選組の貴重な資料を展示”とあるが、“新選組”という名称は、“江戸中期に会津藩の藩主を護衛する部隊を設置したことがあったことに由来する”とあったのも、私にはトリビアであった。この事実は、“八重の桜”でも斎藤一に語らせていた。
出口付近には、土産物が展示されていて 貼る“家紋”が売られていたが、我が家の家紋は一般的にありそうだが、探すとないという、微妙な家紋なのだが一応探してみると有ったので、思わず買ってしまった。
しばし意識は歴史のかなたにあったが、明るい初夏の戸外に出て現実の世界に戻る。思わず 喉の渇きを癒すためにポットの冷えたティーズティ・ニュー・ヨーク・オレンジを飲む。
維新の道の坂を下って、少々迷いつつ何とか円山公園の長楽館に出る。ここで本来は 食事を摂るべきかも知れぬが、外観写真だけ撮ってまたのお楽しみとする。後で知ったが、1週間以上前の予約を入れないと食事は無理らしい。喫茶ならばなんとかもぐりこめそう、のようだ。
そこから河原町に 予定を急ぎ、有効期限間際の株主優待券で牛丼を食す。この現実の落差いかんとも・・・。
今回は、その時期に催しをしていた霊山歴史館へ赴き、その周辺も見て歩くことにした。その催しとは、「会津の武士道・会津藩と新選組」がテーマであった。NHK大河ドラマ“八重の桜”に便乗した印象もあるが、実は“新選組は本年で結成150年”であると言う。
さて、当日は例によって、阪急四条河原町からスタート。八坂神社から南下して、“維新の道”につながる道路に出る。
その南下する道路の左側つまり東側には高台寺の敷地が広大に広がっていて、うっかり間違えるとそちらへ吸い込まれてしまいそうだ。考えてみれば、この高台寺も史跡と言えるので、またいずれ拝観するべき所である。今日は、あくまでも目指すところは、幕末維新にゆかりの地。
道路そのものには、何の表示もないが気が付くと、登り勾配の坂道、ここが“維新の道”なのであろう。
この坂道を登りきったところで、左手が護国神社、右手が霊山歴史館。歴史館は、開館にはまだ早い時刻だったので一先ず護国神社の境内に入り、参拝。ここの境内奥の山には、坂本龍馬の墓があるというので行ってみることにしていた。その山の麓には、しっかりゲートが作られていて、そこに土産物のような物を置いてあり受付の女性が居たが、改札口のようなところに料金を入れて入場してくださいとの指示であった。
入ってみると そこには大きな墓地の配置図が掲げられている。お目当ては、坂本龍馬の墓なのだが、ここは維新の志士の共同墓地のようだ。お墓が沢山ありすぎて探すのが大変と思ったが、龍馬のは 坂を上がって直ぐのところに在るようだ。つまり、一番下にあることになる。一番上には、木戸孝允(桂小五郎)のひときわ目立つ大きさで所在するようだ。この扱いの差は、やはり歴史の奔流に生き残り 明治の元勲となったか否かなの差なのだろうと納得。
十分に把握しきれないまま、とにかく行ってみることにした。すると、案内図通り、展望台のあるところに、そのお墓はあった。さすがに周囲の墓とは区別された区画の鳥居の奥に、左側に坂本龍馬、右側に中岡慎太郎と表記されていた。展望台からは、京都市街が一望できる。ここに本当に、龍馬や慎太郎の遺骸や遺骨の一部でも埋葬されているのだろうか、との疑念が湧く。後で見た歴史館には、そのようであるかのような記述があったが、果たしてそうなのであろうか。
予定よりは時間があるようなので、一番上の木戸孝允のお墓まで行ってみることにした。その途中に、高杉晋作等のお墓もあるようなので、分かれば お参りしようかと思ったが、気が付くと そこは既に木戸氏のお墓であった。
後で気が付いたのだが、ここには坂本、中岡の墓のそばに、高知招魂社の小さな社があり、それ以外に熊本、岐阜、福岡、茨城、山口、京都の招魂社があった。しかし、鹿児島招魂社は無く、それと共に薩摩の志士の墓は無い。これは、どういうことなのだろうか。何か複雑で微妙な政治的背景があるような臭いがする。
さて、ほぼ予定時刻になったので霊山歴史館へ向かう。
先ずは、“八重の桜”の雰囲気満載の雰囲気。展示場の片隅に映像コーナーがあって、そこで戊辰戦争、取り分け会津戦争の概要が資料写真とナレーションで説明される。展示には、恐らくそのものではないだろうと思われるが、八重が鶴ヶ城で携行・使用したとされる同型のスペンサー銃の展示があった。騎兵用の銃だと言うが、細身でいかにも軽そうな外観である。それだけに至近距離でなければ威力はあったのだろうか、と思ってしまう。
ここまでは、歴史館一般にはあって当然の展示物と言えるが二階に上がる階段の下にあった大小の刀の展示には驚きであった。それには、龍馬を斬った刀とあり、そこには幕府見廻組の桂早之助が龍馬を斬ったのであり、それがその刀であると書かれていた。これは、私には大いなる衝撃であった。つい最近まで、龍馬の暗殺者は歴史の謎とされていたからだ。当初は新選組とするのが有力とされ、それもあって近藤勇は斬首されたようだが、一説によれば、龍馬の存在が面倒になった薩摩の手によるものとの推測もあったくらいだ。
霊山歴史館のホームページにも、“慶応3年11月15日、見廻組肝煎桂早之助がこの脇差を持って、京都・近江屋の一室で坂本龍馬を斬ったといわれている。・・・・桂早之助は西岡是心流を習い、17歳で目録を受け特に小太刀の名手だったといわれている。(室内での闘争には小太刀が有利なので、見廻組は早之助を起用したとあった。暗殺1ヶ月半後の)慶応4年正月、(桂早之助は)鳥羽伏見の戦いで撃たれて戦死、行年28歳。脇差はのちに桂家から霊山歴史館に寄贈された。”[括弧内は、筆者の磯野による追記]と、記載している。
こういう証拠物が あるということは、ずいぶん以前から知られていた“事実”だったのではないか。それにもかかわらず異説が多数出たのは何故か。刀自身が偽物とする根拠のようなものがあるのだろうか。何よりも、下手人・桂がその直後に死んでしまっている、というのもあまりにも好都合な印象ではある。私には“歴史の謎”とされていたことが、謎である。
1階は会津戦争一色のムードだったが、それより上った2階では それ以前の幕末の騒乱が中心となっている。“龍馬を斬った刀”以外は、驚くような展示物はないが、映像展示は面白かった。特に、池田屋事件は 人形写真を上手く使って結構迫力ある仕上がりになっていて、不思議な感覚になった。
“会津藩と新選組の貴重な資料を展示”とあるが、“新選組”という名称は、“江戸中期に会津藩の藩主を護衛する部隊を設置したことがあったことに由来する”とあったのも、私にはトリビアであった。この事実は、“八重の桜”でも斎藤一に語らせていた。
出口付近には、土産物が展示されていて 貼る“家紋”が売られていたが、我が家の家紋は一般的にありそうだが、探すとないという、微妙な家紋なのだが一応探してみると有ったので、思わず買ってしまった。
しばし意識は歴史のかなたにあったが、明るい初夏の戸外に出て現実の世界に戻る。思わず 喉の渇きを癒すためにポットの冷えたティーズティ・ニュー・ヨーク・オレンジを飲む。
維新の道の坂を下って、少々迷いつつ何とか円山公園の長楽館に出る。ここで本来は 食事を摂るべきかも知れぬが、外観写真だけ撮ってまたのお楽しみとする。後で知ったが、1週間以上前の予約を入れないと食事は無理らしい。喫茶ならばなんとかもぐりこめそう、のようだ。
そこから河原町に 予定を急ぎ、有効期限間際の株主優待券で牛丼を食す。この現実の落差いかんとも・・・。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« “社会正義”へ... | リスクに関す... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |