The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
このお盆休みで思ったこと
暑い!だが晴れ上がらない!この夏中、事実上の梅雨だった。そして停滞前線の下では、集中豪雨となり例年通り水害となった。
何故か。どうやら寒気団が例年より南下して来ていたのが真相のようだ。何故か。それはいかなる気象ニュースを見ても解説してくれない。温暖化となにか関連があるのか。
欧州の渇水、熱波来襲は偏西風の蛇行によると言う。何故か。これも分からないようだ。
温暖化のシミュレーションをしていたようだが、こうした事象も予測できたのであろうか。こうした事象も予測できずに、温暖化の予測はできると言うのだろうか。それが科学的予測と言えるのだろうか。
“傾向として予測できる”と言うのならば、そう言わなければならない。決めつけるのは科学的態度ではあるまい。1週間先の天気予報もままならないのに、10年先、100年先の天候予想はムリなのは実感として承知していることなのだから。
それと、現在の温暖化が縄文時代の温暖化とどこがどう違うのかの議論が全く聞かれないのは、どういうことだろう。関東平野に縄文海進があったのは事実なのだ。それにもかかわらず、“シロクマが絶滅する”と言って騒ぐのはどういうことなのか。否、その違いが分かれば、少なくとも温暖化適応策のヒントになるはずなのではないかと思うが、温暖化を心配するばかりで思考停止し、温暖化議論が空転し、深化していないことに懸念したい。
その真夏の高校野球。正直言って何のためにやっているのか、と思う。
炎天下の甲子園。グラウンドには風は通らないという。何だか相当な無理ではないのか。
投手の連投が問題となった。最近は一人投手のチームはなく、無理な連投はルールで規制され、なくなってきているようだが。それは私立の全国から選手を集めることができる高校でなければできないことだ。公立高校ではもう参加が無理になってきている。一昔前の素朴な高校野球ではなくなってきている。
高校の専門化。私立の高校では“文武両道”が分業化しているという。つまり、“お勉強(進学)”コースと“スポーツ(野球含む)”コースに分けて、生徒を募集し教育・訓練し、高校の名を上げる。
そう、高校の名を上げることが目的で、真の目的は教育ではなく金儲けではないのか。
高校野球も高校や監督の名を上げるためにやっている。あからさまに言えば、そういうことだ。だから、生徒がそれで身体を潰そうが関係ない!そんな姿勢が透けて見える。それが教育なのか。育ち盛りの才能をすりつぶしても、高校や野球部監督の名が上がれば良いというのか。そういう動きを新聞社や報道機関が促進している。それで良いのだろうか。これは日本の高校のスポーツ全般に言えることではなかろうか。世界に10代の伸び盛りの子供たちをこんなことで消耗させ、商業主義に陥っている仕組みを持っている国はないのではないか。
これが戦前からの古き良き伝統であろうか。伝統はある時見直すべきものではないのか。いつまでもだらだらと継承すべき美風だとは思えないのだが・・・。また新聞社も新聞購読者も減ってきており、このようなことにかまけている経営状態でもあるまい。
当方としては、例年夏季2週間以上連日の休みなしで、報道関連のTV番組が見れないのは辛い。高校野球はBSにまわしてはいかがかと思うのだが・・・。
その高校野球中継で、関西では見れなくなった朝のTV番組で、ある政治コメンテータが“閣僚7人が旧統一教会と関係があったことに「これが自民党全体の縮図かもしれません」”というコメントがあった、とネット・ニュースで報じていた。
この番組、実は先月問題発言があったということで、自主規制していたという噂があったのだった。日本の報道の自由が忖度によって無くなっている典型例なのだが、他の報道番組ではお構いなく“旧統一教会と自民党との関連”を報道し続けたのを受けて、気を取り直してやり始めたかのようだ。
この報道以降も問題の暴露は拡がり続けている。与党自民党政調会長という要職の御仁の発言が歯切れの悪いことに注目が集まっている。歯切れが悪いので、その分余計に怪しい話になっている。
それにつけても、そういう反社会的団体と深い関係を持っていたという自民党議員達の当該団体への対応・態度がピエロのように見えるおぞましさ。こういう御仁が年月を経ると傍若無人の権力者となるのであろうことを思うと、情けなさが募るのは私だけであろうか。
ところで、お笑い芸人をはじめ、芸能人は反社勢力との付き合い、一緒に写真に写っていても不可にもかかわらず、国の政治を預かっている政治家たちは、反社勢力との写真撮影に写っていても可なのか。現首相もその団体の要人とのツー・ショットが暴露されている。(こういう不都合な真実は社会的に葬られている。)元・現首相になると何でも可なのか。大臣、副大臣、政務官、与党議員も可なのだろうか。これでは法の下の平等はどうなっているのであろうか。たとえその法が、成文法でなく慣習法や公序良俗、つまり“社会常識”であっても、法の下の平等は成立するのが法治国家であろう。
日本はこういう外国思想の反社会的団体の影響を受けた政党が与党である政権下にあって、なおもその先鞭をつけた元首相の“国葬”を支持する人々の意識が全く理解できないのだ。こう感じる私の方がおかしいのであろうか。
この件について右派の論客はすっかり鳴りを潜めている。特に、あの意気軒高だった右派の女性コメンテータの御発言を是非拝聴したいと思っていた。その方、元首相を評して“立派な国家観をお持ちだ”と絶賛していたのだが、そして亡くなった当初は非常に落胆なさっていたようなのだが。
ところが、そのお方のコメントが先週ようやく、ある週刊誌のコラムに載った。曰く、元首相はその団体活動を規制する法案を通したという主張。それを取り上げないマスコミはアンフェアだという。だが元首相ともなれば多少良いこともやるだろう。それにどの程度の規制内容だったのか。コトの本質はそんなところには無いのだ。それは“保守本流”を自称した人間のすることであったか、どうかということなのだ。
真の保守とは、正しく自立自尊の思想に基づくものでなければならないはずだが、彼の外国勢力はこの国を貶める思想の団体であった。あまつさえ右派の精神的主柱である神聖にして冒すべからざる“お上”をも冒涜する団体でもあった。それにもかかわらず、“立派な国家観をお持ち”だった元首相は3代にわたってこの団体を支持したという筋金入り。
そして与党の陣笠議員たちはこぞって、そのボスの指示の下、この団体に走ったのだ。この国の保守とは一体何者?自民党とは一体何者たちの政党なのだろうか。これが日本の正統保守と言えるのだろうか。これを似非保守と呼ばずして何と称するべきか。こういう政党に日本人は黙々とそして連綿と投票し支持し続けてきたのだ。
そして、繰り返すが果たして日本は法治国家なのだろうか?
この8/8には米FBIは、前大統領トランプ氏の邸宅マー・ア・ラゴの捜索を実施した。4組の最高機密を含む11組の機密文書を回収した、という。
日本では、検察当局は元首相を公職選挙法違反疑惑にもとづく捜索もしなかった。当局者の御立派な御忖度であったのか。そういう御忖度は法治国家であって然るべきことであろうか。
国家の民主主義は司法当局の腐敗・堕落から崩壊するのが世界史の教訓だという。
NHKのお盆の特番を見れば、戦前、日本は報道の自由を失って、そして戦争に突入して行ったことが良く分かった。
だが気が付けば、報道の自由は報道機関の忖度によって失いつつあり、民主主義の根幹である法治の精神は、司法当局の忖度によっても失いつつある。
本当に身も心もこの国は腐り果てているのではあるまいか。日本人はこの政治的社会的な危機的状態に気付いているのであろうか。怪談話ではないが考えればゾッとするような、お寒い状況となっているのではないか。
五輪汚職の報道も連日だ。これにはあるブラック企業が中心的役割を果たしている。このブラック企業もSDGsをやっているという。SDGsは悪行の隠れ蓑になっているのではあるまいか。SDGsは“掲げている目標16「平和と公正をすべての人に」では、世界のすべての地域を対象として、汚職や贈賄を無くしフェアな仕事環境を作り出すこと”を目標としているのだ。
だが、このブラック企業は利権まみれ、利権で生きているのではあるまいか。こういう会社は即刻、解体するべきではあるまいか。
一方では、コロナ感染では医療崩壊が起きているようだ。普通の事故で負傷した人が、コロナ陽性と判明してワザワザ放置されたという極端な事例もあったようだ。
政府は相変わらず、相変わらない。“検討することを始める”としか言わない。コロナ医療従事者はHER-SYS(ハーシス)インプットに疲弊しているという。健康保険番号をキィに入力すれば何とか負担軽減になるような気がするが、どうしてそれができないのだろう。韓国との違いはどこにあるのだろう。
全数把握することが大切とは何となく納得性のある議論だが、一体どういう分析に有効なのだろうか。“検討することを始める”ばかりの政府が何か有効な分析をしたという事例があったのか。
迅速なPCR検査が未だに不十分で、迅速に大量に実施できない。だから感染者がすり抜けて、感染拡大に寄与しているようだ。一旦、抗原検査で陰性でも、その後の検査で陽性になるという事例が多数あるようだ。
未だに、野戦病院を構築して感染者を十分に保護する態勢にならない。医療関係者の総動員体制ができず、相変わらず開業医は安穏に御過ごしのようだ。そのままで、3年が過ぎてしまった。政府は相変わらず、相変わらない一方、コロナ禍は刻々変化してきた。こういう動かない原因にも利権があるからだ、という。それでも、国民は怒らず、政府は相変わらず、相変わらない。
このままこの国は、何処へ漂流していくのだろうか。
この夏、この2週間ノーテンキで過ごしたが、“相変わらず、相変わらない”この国の状態に不安は募るばかりだった。
さて、そんなこの国に生きて何を目指すのか。虚無的になりながらも、とにかく元気に生き延びて、絶望的な状態を何とかしたいとは思っているが、こちらも“相変わらず、相変わらない”。
何故か。どうやら寒気団が例年より南下して来ていたのが真相のようだ。何故か。それはいかなる気象ニュースを見ても解説してくれない。温暖化となにか関連があるのか。
欧州の渇水、熱波来襲は偏西風の蛇行によると言う。何故か。これも分からないようだ。
温暖化のシミュレーションをしていたようだが、こうした事象も予測できたのであろうか。こうした事象も予測できずに、温暖化の予測はできると言うのだろうか。それが科学的予測と言えるのだろうか。
“傾向として予測できる”と言うのならば、そう言わなければならない。決めつけるのは科学的態度ではあるまい。1週間先の天気予報もままならないのに、10年先、100年先の天候予想はムリなのは実感として承知していることなのだから。
それと、現在の温暖化が縄文時代の温暖化とどこがどう違うのかの議論が全く聞かれないのは、どういうことだろう。関東平野に縄文海進があったのは事実なのだ。それにもかかわらず、“シロクマが絶滅する”と言って騒ぐのはどういうことなのか。否、その違いが分かれば、少なくとも温暖化適応策のヒントになるはずなのではないかと思うが、温暖化を心配するばかりで思考停止し、温暖化議論が空転し、深化していないことに懸念したい。
その真夏の高校野球。正直言って何のためにやっているのか、と思う。
炎天下の甲子園。グラウンドには風は通らないという。何だか相当な無理ではないのか。
投手の連投が問題となった。最近は一人投手のチームはなく、無理な連投はルールで規制され、なくなってきているようだが。それは私立の全国から選手を集めることができる高校でなければできないことだ。公立高校ではもう参加が無理になってきている。一昔前の素朴な高校野球ではなくなってきている。
高校の専門化。私立の高校では“文武両道”が分業化しているという。つまり、“お勉強(進学)”コースと“スポーツ(野球含む)”コースに分けて、生徒を募集し教育・訓練し、高校の名を上げる。
そう、高校の名を上げることが目的で、真の目的は教育ではなく金儲けではないのか。
高校野球も高校や監督の名を上げるためにやっている。あからさまに言えば、そういうことだ。だから、生徒がそれで身体を潰そうが関係ない!そんな姿勢が透けて見える。それが教育なのか。育ち盛りの才能をすりつぶしても、高校や野球部監督の名が上がれば良いというのか。そういう動きを新聞社や報道機関が促進している。それで良いのだろうか。これは日本の高校のスポーツ全般に言えることではなかろうか。世界に10代の伸び盛りの子供たちをこんなことで消耗させ、商業主義に陥っている仕組みを持っている国はないのではないか。
これが戦前からの古き良き伝統であろうか。伝統はある時見直すべきものではないのか。いつまでもだらだらと継承すべき美風だとは思えないのだが・・・。また新聞社も新聞購読者も減ってきており、このようなことにかまけている経営状態でもあるまい。
当方としては、例年夏季2週間以上連日の休みなしで、報道関連のTV番組が見れないのは辛い。高校野球はBSにまわしてはいかがかと思うのだが・・・。
その高校野球中継で、関西では見れなくなった朝のTV番組で、ある政治コメンテータが“閣僚7人が旧統一教会と関係があったことに「これが自民党全体の縮図かもしれません」”というコメントがあった、とネット・ニュースで報じていた。
この番組、実は先月問題発言があったということで、自主規制していたという噂があったのだった。日本の報道の自由が忖度によって無くなっている典型例なのだが、他の報道番組ではお構いなく“旧統一教会と自民党との関連”を報道し続けたのを受けて、気を取り直してやり始めたかのようだ。
この報道以降も問題の暴露は拡がり続けている。与党自民党政調会長という要職の御仁の発言が歯切れの悪いことに注目が集まっている。歯切れが悪いので、その分余計に怪しい話になっている。
それにつけても、そういう反社会的団体と深い関係を持っていたという自民党議員達の当該団体への対応・態度がピエロのように見えるおぞましさ。こういう御仁が年月を経ると傍若無人の権力者となるのであろうことを思うと、情けなさが募るのは私だけであろうか。
ところで、お笑い芸人をはじめ、芸能人は反社勢力との付き合い、一緒に写真に写っていても不可にもかかわらず、国の政治を預かっている政治家たちは、反社勢力との写真撮影に写っていても可なのか。現首相もその団体の要人とのツー・ショットが暴露されている。(こういう不都合な真実は社会的に葬られている。)元・現首相になると何でも可なのか。大臣、副大臣、政務官、与党議員も可なのだろうか。これでは法の下の平等はどうなっているのであろうか。たとえその法が、成文法でなく慣習法や公序良俗、つまり“社会常識”であっても、法の下の平等は成立するのが法治国家であろう。
日本はこういう外国思想の反社会的団体の影響を受けた政党が与党である政権下にあって、なおもその先鞭をつけた元首相の“国葬”を支持する人々の意識が全く理解できないのだ。こう感じる私の方がおかしいのであろうか。
この件について右派の論客はすっかり鳴りを潜めている。特に、あの意気軒高だった右派の女性コメンテータの御発言を是非拝聴したいと思っていた。その方、元首相を評して“立派な国家観をお持ちだ”と絶賛していたのだが、そして亡くなった当初は非常に落胆なさっていたようなのだが。
ところが、そのお方のコメントが先週ようやく、ある週刊誌のコラムに載った。曰く、元首相はその団体活動を規制する法案を通したという主張。それを取り上げないマスコミはアンフェアだという。だが元首相ともなれば多少良いこともやるだろう。それにどの程度の規制内容だったのか。コトの本質はそんなところには無いのだ。それは“保守本流”を自称した人間のすることであったか、どうかということなのだ。
真の保守とは、正しく自立自尊の思想に基づくものでなければならないはずだが、彼の外国勢力はこの国を貶める思想の団体であった。あまつさえ右派の精神的主柱である神聖にして冒すべからざる“お上”をも冒涜する団体でもあった。それにもかかわらず、“立派な国家観をお持ち”だった元首相は3代にわたってこの団体を支持したという筋金入り。
そして与党の陣笠議員たちはこぞって、そのボスの指示の下、この団体に走ったのだ。この国の保守とは一体何者?自民党とは一体何者たちの政党なのだろうか。これが日本の正統保守と言えるのだろうか。これを似非保守と呼ばずして何と称するべきか。こういう政党に日本人は黙々とそして連綿と投票し支持し続けてきたのだ。
そして、繰り返すが果たして日本は法治国家なのだろうか?
この8/8には米FBIは、前大統領トランプ氏の邸宅マー・ア・ラゴの捜索を実施した。4組の最高機密を含む11組の機密文書を回収した、という。
日本では、検察当局は元首相を公職選挙法違反疑惑にもとづく捜索もしなかった。当局者の御立派な御忖度であったのか。そういう御忖度は法治国家であって然るべきことであろうか。
国家の民主主義は司法当局の腐敗・堕落から崩壊するのが世界史の教訓だという。
NHKのお盆の特番を見れば、戦前、日本は報道の自由を失って、そして戦争に突入して行ったことが良く分かった。
だが気が付けば、報道の自由は報道機関の忖度によって失いつつあり、民主主義の根幹である法治の精神は、司法当局の忖度によっても失いつつある。
本当に身も心もこの国は腐り果てているのではあるまいか。日本人はこの政治的社会的な危機的状態に気付いているのであろうか。怪談話ではないが考えればゾッとするような、お寒い状況となっているのではないか。
五輪汚職の報道も連日だ。これにはあるブラック企業が中心的役割を果たしている。このブラック企業もSDGsをやっているという。SDGsは悪行の隠れ蓑になっているのではあるまいか。SDGsは“掲げている目標16「平和と公正をすべての人に」では、世界のすべての地域を対象として、汚職や贈賄を無くしフェアな仕事環境を作り出すこと”を目標としているのだ。
だが、このブラック企業は利権まみれ、利権で生きているのではあるまいか。こういう会社は即刻、解体するべきではあるまいか。
一方では、コロナ感染では医療崩壊が起きているようだ。普通の事故で負傷した人が、コロナ陽性と判明してワザワザ放置されたという極端な事例もあったようだ。
政府は相変わらず、相変わらない。“検討することを始める”としか言わない。コロナ医療従事者はHER-SYS(ハーシス)インプットに疲弊しているという。健康保険番号をキィに入力すれば何とか負担軽減になるような気がするが、どうしてそれができないのだろう。韓国との違いはどこにあるのだろう。
全数把握することが大切とは何となく納得性のある議論だが、一体どういう分析に有効なのだろうか。“検討することを始める”ばかりの政府が何か有効な分析をしたという事例があったのか。
迅速なPCR検査が未だに不十分で、迅速に大量に実施できない。だから感染者がすり抜けて、感染拡大に寄与しているようだ。一旦、抗原検査で陰性でも、その後の検査で陽性になるという事例が多数あるようだ。
未だに、野戦病院を構築して感染者を十分に保護する態勢にならない。医療関係者の総動員体制ができず、相変わらず開業医は安穏に御過ごしのようだ。そのままで、3年が過ぎてしまった。政府は相変わらず、相変わらない一方、コロナ禍は刻々変化してきた。こういう動かない原因にも利権があるからだ、という。それでも、国民は怒らず、政府は相変わらず、相変わらない。
このままこの国は、何処へ漂流していくのだろうか。
この夏、この2週間ノーテンキで過ごしたが、“相変わらず、相変わらない”この国の状態に不安は募るばかりだった。
さて、そんなこの国に生きて何を目指すのか。虚無的になりながらも、とにかく元気に生き延びて、絶望的な状態を何とかしたいとは思っているが、こちらも“相変わらず、相変わらない”。
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