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広島日帰り旅―マツダ株主総会参加と広島城観光

FIFAワールドカップ要するにサッカー・ワールドカップで、政治報道が無くなってしまった。その間、“働き方改革一括法”が強行的に可決されてしまった。悪政極まれり。国会等での民主的手続きは無視され続けて、悪法が次々可決されていった。特定秘密保護法、安保関連法(集団的自衛権)、改正刑事訴訟法(通信傍受の対象拡大と規制緩和、司法取引の導入、取調べ可視化は極一部)、組織的犯罪処罰法改正法(テロ等準備罪、共謀罪」)、そして今回の“働き方改革一括法”等々、これ以外にも運用を警戒するべき法律多数。
この制改正された法律は、大抵、即日目の前で牙をむく可能性は低い。だから、野党が騒ぐのは大げさな話に違いない、とうそぶくのは間違っている。怪しい運用が懸念される法律は、必ずいずれそのように運用されるものと考えた方が良い。

例えば、“国旗及び国歌に関する法律”。これは1999年(平成11年)8月13日に成立し即日公布された。この法律の成立について、時の官房長官は会見でにこやかに、“この法律に罰則規定はありませんので、これが成立したからと言って、違反しても処罰されることはありません。法律をよく読んで頂きたい。”と言っていたことを何故か、私は鮮明に記憶している。この発言をしたのは、自民党のリベラリストとして著名な故・野中廣務氏だった。しかし、その後この法律の規定を基礎にした他の法規制によって、処罰された人は現実にいるのだ。“正当な”裁判を経て処罰されているのだ。憲法で保障された思想・信条の自由は、ある局面で“法に従って”侵害された事実があるのだ。
私も、国旗・国歌法そのものには問題があるとは思わないが、その制定によって、それを根拠にその精神を捻じ曲げた解釈で、悪意の自治体条例を制定して、処罰された事例なのだ。そういう悪意解釈の可能性のある法案は、すべからく悪法と言ってよいのだ。その点で、安倍政権下で成立した法律は、殆ど怪しい運用の可能性が高いのだ。それを懸念した野党が、“真摯・誠実”に政権に質問するのだが、政権側は“不正”に拒否し、強行採決を続けてきたのだ。

安倍氏のお友達は、大阪北部地震発災いわば人の不幸を自らの好機(幸運の機会)ととらえ、ドサクサに会見をやった。その会見で強引なウソをついた。安倍スキャンダルに登場する人物はこのように不誠実な人物ばかりだ。“類は友を呼ぶ”正に御当人自身がそうだ。“謙虚に受け止めながら、この委員会を通じて真摯な説明を丁寧に行っていくことで国民 の理解を得ていきたい。”とは、正に首相の国会答弁での発言らしいが、これが真っ赤なウソなのは、誰も否定し得ない。
そうしたいい加減な言葉にあっさり騙され続けるアホでマヌケな多数の衆愚によって、政権支持率は何故か増加している、という。高い支持率で、政権は何でもアリになってしまっていて、その延長上に悪法の制改正がたて続けられるのだ。国民は自覚するべきだ。騙されているのだと。

安倍政権で景気が良くなった、と言うがこれも騙されている。経済が好転するのは概ね前政権の努力の結果であることが多い。その上政権が交代する寸前で、円安に転換した。これは貿易収支が黒字から赤字に転換したのを見たトレーダーが狼狽えて円売りしたのが切っ掛けだ。円安となり交易条件が変化し、日本の大企業の収益が変化したのが大きい。アベノミクスはそれを見て、日銀に政策金利を異様に下げるように強制し、それこそモラル・ハザードだと抵抗する日銀総裁の白川氏を馘首し、ズブズブの黒田氏へすげ替えてアベノミクスを推進したのだ。そして日銀とGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)に株を買わせ、好況を演出している。大株主が日銀だと言う企業は結構多いという。これは歪んだ国家資本主義だ。いずれツケが回ってくるのは間違いない。
シロからクロへの転換。御蔭で市中銀行は今や青息吐息で今やエライコッチャだが、政権に忖度するマスコミは強く指摘しない。そもそもがモラルなど糞喰らえ政権なのだ。
若者の就職率が良くなったのは、単純に労働人口が減ったからなのだ。アベノミクスの御蔭でも何でもない。むしろ国家的課題がここに内在していて、これも将来に火種を残しているのだ。

首相のモラル・ハザードを許す国家が、この現代において成立しているのだ。この驚くべき現実、それがこの日本なのだ。それがやがて、国民全体のモラル・ハザードへ変展するのではないか。その歴史的転換点にあるような気がする。
サッカーで、日本代表チームはセネガルとの2,3位決定において、警告数などに基づく フェアプレーポイントで優位にあったので、ルールに基づき決勝トーナメント進出となった。今が歴史的転換点であるとするならば、今後はこのようなことは期待できなくなるかも知れない。勝利のためには何でもアリOKが余りにも強調され“時間稼ぎ戦術”が大いに肯定されるならば、それがモラル・ハザードへ変展する萌芽となるかも知れない。正にどっちに落ちるかの転換点に立っているのだ。その自覚が求められる。

現政権否定の声が大きくなり、日本の精神が正常化することを切に望むが、どうなることか。


さて今回は先週、かねてより行ってみたいと思っていた広島でマツダの定時株主総会開催が予定され、私の都合とタイミングが整合し、参加したので報告したい。また招集通知に今年もマツダ・ミュージアム見学への当日参加が可能とあり、それも予定した。当日昼間ではそれで過ごせるが、それだけで日帰りはいかにも勿体ない。という訳で、既に原爆資料館を訪れた者としては、次の観光候補として広島城を見ることとした。それで大体一日は過ごせるはず。
当初日帰りには新幹線利用でなければ不可能だが、これではコスト高になると夜行バス利用を考えた。だが、ネットで調べたが神戸‐広島間の夜行バスは無いものと思われ、広島1泊か早朝の新幹線利用のいずれかの選択となった。変な安宿には泊まりたくないので、新幹線利用止む無しとなった。
そこで神戸から新幹線ではなく、姫路まで新快速利用として姫路・広島間を新幹線、勿論自由席として金券ショップへ。すると有難いことに姫路・広島間と西明石・広島間の自由席特急券は同じ料金なので、喜んで西明石発の切符を購入。後は自宅最寄のJR駅で開いている金券ショップで、その最寄駅から西明石までの格安切符を前日までに入手した。帰りは、勿論バスとしてネットで申し込んで、コンビニで支払いを済ませる。今や、座席も自分で選べるという仕組みに少々驚く。
それにしても心情的には、これまで言ってきたようにJRを利用するのは不安があった。新幹線が止まれば、1~2時間での復旧は期待できまい。ならばこの予定は根底から無意味となる。逆に対等のビジネスであれば、その方がむしろやり直しが効くはずだが、株主総会出席などと言う個人的事情には誰の補償もない。

さて当日は無事西明石へ。早朝は快速や新快速がないので、普通電車。そして、07:22西明石発/こだま731号は07:34姫路着。ここで乗り換え、07:45姫路発/さくら545号08:45広島着。
よかった、JRトラブルなし。新幹線改札内の土産物名店街にて、尾道ラーメンを購入。買い物していても、在来線の山陽線・08:53発広行きに予定通り間に合う。これもマツダ本社の最寄駅・向洋に全く予定通り08:59着。総会は10時スタートなので余裕たっぷり。“向洋”は私は神戸・六甲アイランドの街同様、“コウヨウ”だと思い込んでいたが、車掌の車内アナウンスでは“ムカイナダ”と言ったのには少々の驚き。

実は、マツダ本社を訪れるのは2度目だ。90年代に広島で鉄鋼協会・金属学会の技術論文発表会があって、その催しの一つにマツダ工場見学会があったと記憶している。その時は団体バスでやって来たのだった。JRでアクセスするのは今回が初めてだった。
向洋の駅前は企業城下町の雰囲気たっぷり。飲み屋中心の飲食店、広い場所ではないが結構ある。自動車通勤者も多いのでそうそう多数の飲み屋にはならないのかも知れない。やがて、大通りに面した、これも大規模とまでは言えそうにないが、診療科の充実していそうな中規模のマツダ病院の大きな赤い字での表示が目に入る。
その通りの向こう北側にマツダ本社ビルはある。周りの歩く人々と、建物の雰囲気で行くべき所は直ぐに分かった。

何だか雰囲気に少し違和感がある。高齢者が多いのは、こうした総会の通例だが、それにしてもこの感覚は何なんだろう。いわゆるローカル臭なのかも知れないと気付いた。恐らく、その土地、土地の特有の空気感が、それは高齢者であればあるほどそういう空気感を強く持っているのに違いないので、そうなるのだろうと思った。関西の総会では感じなかったが、恐らく関東からやって来る人には何か違和感を感じられるのかも知れない。
受付の玄関から奥の建物に渡り廊下を移動して、4階であったろうかエレベータで上がり、講堂に入り、空席を作らないように係員が誘導する。キチキチに並んだ椅子に座る。写真撮影禁止。後から思えば、総会前1時間弱もあったのだが、結構もてあますことなく開会した。

総会では、先ずは会社側の説明を確か総会議長の会長がした。今後の動向を社長が説明。会長はこの総会後の取締役会で退任し、社長が会長に、取締役の一人が社長に就任が決まっていたようだ。途中で事前の資料に無い説明が入って、少々困惑。こういう一般人を相手にする説明会では、配布される資料に記載されていない事項を説明するのは厳禁だ。中には、それで押し通す会社があったが、その会社結局市場の評価も悪く、最近その会社の株を売った。その会社は米国の会計方式で財務説明するのだが、彼らはその方が分かり易いと信じているようだが、ここは日本、事前に配布されている資料も日本方式で記載されているので、実に分かり難い。
一通りの会社説明の後、質問時間となった。どうやらマツダの内情に詳しいが野党的で五月蠅いおじさんの質問が始まった。大体は、こういう人は自説を演説するのだが、それがあまり本質を突いたものではないことが多い。本質を突いたものであっても、議長によって巧くかわされるのが常だ。質問者が替わっても、このおじさん五月蠅く野次を飛ばす。議長が何度も、“議長の指示に従わない場合は、退場をお願いすることがあります。”と言っていた。しかし、最後まで実力行使なく、何とか総会は無事、予定通りと思われるように終わった。
日本での株主総会はこのようなもの。一体、何のためにやるのか。昔、総会屋というのがいたはずだが、私はその頃は仕事をする年代で、そうした総会に出席した経験はない。それにしても、会社や役員の雰囲気や、経営状態説明の対応で、会社の状態は分かるような気がするので、その点では有効と思って出席することにしている。

総会後、本社玄関に戻ると、ミュージアム見学希望者はそこで待機することとなった。玄関からバス移動。4号車に乗車。ミュージアムはグーグル・マップではまるで、この本社ビルの近くのように表示されているが、それは違う。実際は本当の工場の中にあり、その組み立てラインが見れるようにしてある。実際には宇品工場の中にある。そのため、バス移動中も撮影禁止。
ミュージアム到着後、エントランスを入った所で軽食が出る。アンデルセンのミックス・サンドだった。これで十分、有難い。飲み物は何種類かあったが、当然のように牛乳はなく、アルミ・ボトル・コーヒーを選ぶ。そこにはグレーのロード・スターと赤いアテンザが置いてあって、飲食後、運転席に座ろうとするが、座席調整が拙いのか、短い脚が入れづらい。着席してしまうと居心地は良さそうなのだが、少々問題ありか。
15分程度の飲食時間で見学開始。ミュージアムの構成は、歴史展示、ロータリー・エンジン展示、技術展示(設計から組み立てまでの要点展示)、U1組立実ライン(殆ど出来上がり最終工程)、場内展望、未来展示(マツダの考える技術動向)、それとミュージアム・ショップとなっていた。ミュージアム内は原則写真撮影可だが、実ラインと場内展望、途中の渡り廊下には窓があるが、外への撮影は禁止。
歴史展示では、昔見たような車はあったが、残念ながら乗った車はなかった。特に80年台に売れたファミリアは展示がなかった。これは当時マツダを救った車だったはずだが。
ロータリー・エンジンは私も機械専門ではないので、詳しくは未だに知らない。案内の女性も“何故燃費が悪いのか”の質問には答えられずにいた。誰かが“1サイクルで3回点火するからや”という人が居たが、後でネットで調べるとウソくさい。
技術展示も自動車作りの専門家でなければ興味は薄いのかもしれない。とにかく早足だった。
組立ラインは中でも面白かった。ロードスターとCX-5の混合生産だとの説明だったように思う。後から調べると車台は違うようだが?可能なのか。部品供給のバケット車は自社製の由。窓ガラスの縁に接着剤を分厚く塗るのだが、ロボットが位置を確認して素早く動いていた。矢張り、マツダがPRする赤い車が売れているのか、目立った。
未来展示は、マツダの主張する“Well-to-Wheel”の考え方の主張の展示だ。一見、流行らない愚直な主張だが重要な点を突いている。電気も大半の本源は所詮化石燃料ではないか。それを考慮してCO2の排出を語るのが本来で、見かけだけで電気自動車だというのは、どうなのか。なるほど確かに電気が再生エネルギーに完全転換できるのなら話は別だが、そうは簡単に移行しないと見る向きの主張だ。水素も水の電気分解で作るので同じこと。とはいえ、どこでどのような技術革新が起きるか分からないので、ハイブリッドや電気でトヨタと協力する態勢に持ち込んだという合理的戦略なのだ。
ミュージアム・ショップでは乗った或いは乗っている車の模型がなかったので、買いたいものはなかった。この辺りがマツダの規模では無理な注文なのかも知れない。見学会は予定よりも早め午後2時前に終了。

JR向洋から新白島へ向かう。これも“シンシロシマ”と読むと思っていたが、“シンハクシマ”が正解。ここには、新交通システム・アストラム・ラインが北側から市街へ入っている。どういうシステムか見たかったが、軌道は神戸の新交通と同じようで車両は見れなかった。ここから勿論徒歩で広島城を目指す。

結構容易にお城北側に到着。生い茂った木立の中に陸軍幼年学校跡があった。原爆で施設は壊滅し、残った門をここに残したとの案内板の記述。大学時代、所属した研究室の教授は幼年学校出身だと聞いていたが、ここにあったのか。被爆時はどうだったのだろう、と思いをいたす。
この南に広島城裏御門があり、そこから進入。原爆のせいだろうが建物はなく、石垣だけだ。石の階段を上ると広場がある。そこにも敷石の跡がある。ここに日清・日露の両戦争時の大本営と天皇の行在所があった、という。城の完璧な内堀の中なので、警備体制は十分であっただろうと思われる。
この内堀の北西の角に天守閣がある。これも原爆で倒壊し、戦後昭和33年に再建された鉄筋コンクリートの建物だ。実は、私は子供の頃昭和34年の春休みに、父の仕事で連れられて広島に来たことがあるので、再建ホヤホヤだった訳だ。その時、父の会社のお姉さんに案内されて原爆資料館と広島城に来たことがあったのだった。細かい点は殆ど忘れてしまった。

天守閣の内部は歴史資料館になっている。毛利輝元が築城したとあった。時期は秀吉に大坂城や聚楽第を見せられた後の事だという。実は近世の城として、現存する内堀より外側の広い範囲に外堀があり、それ以外にも河川を利用して町ごと防御することが出来たようだ。従い、結構大きな城下町だったようだ。そういうこともあり、日清・日露戦役時に大本営を広島城に移したのだろう。つまり天皇も出張したので広島が首都だった訳だ。従い、帝国議会もここに移動したともあった。
甲冑などの展示もあったが、珍しいのは日本刀の模造品で、持てるように展示されているのがあった。私も持ってみたが、重たすぎず持ち易い感触だったのは意外だった、模造品とは言え、さすがだ。
この地は頼山陽の出身地だと言う。頼山陽は京都、大坂で活動した江戸期の学者で、生まれも大坂だったようだが、育ちは広島。父君が広島竹原の出身で、広島藩の学者となって縁があったようだ。
このように、日本は江戸期と言えども、江戸=今の東京が日本の中心ではなく、むしろ関西や各大藩の城下に文化があったことが分かる。最近のアホなマスコミが作る、江戸期のイメージは東京中心に展開しているかのような印象があるが、そのイメージは明らかに間違っているのだ。最近の“NHKスペシャル シリーズ「大江戸」”は東京中心でなければならないような作りには呆れる。特に“第2集 あきんどが花開かせた「商都」”とは笑止千万。日本の江戸期の商都はあくまでも大坂。その点で江戸はOne of Themの地方都市でしかなかった。北海道からの北前船は、江戸は全く通過しなかった。あくまでも商都・大坂が起点であり、蝦夷地の物産を日本経済の中心地“天下の台所”に運んだのだ。北前船の中継都市は、日本海沿岸諸都市であり、また瀬戸内諸都市でありそれぞれに繁栄したのだ。
最上階で、広島市街を展望。西側に異様に巨大なマンション群があって、景観上少々残念の限り。以前連れて来られた昭和34年の春、は天守閣最上階から広島駅が見えたように思う。原爆ドームでも感じたことだが、広島は都市景観にもう少し配慮するべきだ。
小雨の中、南の二の丸跡。ここは木造で最近再建されたもののようだ。御蔭で城というか昔の趣きが味わえる。

小雨の中、バス・センターになっている“そごう百貨店”に向かったが、何故か東側に行き過ぎてしまい思わず時間を消耗してしまった。ここで土産と夕食弁当、ビールとつまみを買うつもりだった。土産は“にしき堂・生もみじ饅頭”6個入りを買った。弁当は“すきやき弁当”、つまみにする蒲鉾がなかなか見つからないが何とか竹輪を買った。ビールは発泡酒を探したが、見つからず一旦バス・センターの売店を期待したが、売店そのものが新規開店待ち状態、仕方なく無用に高いビールを“そごう”の階下に戻って買った。
これで、16:40発三宮行きのバスに無事乗れた。乗車直前何だか建物全体が2,3度激しく揺れたように感じたが、誰も動揺する気配なく、地震に違いないが、この反応には驚き危ういものを感じた。車中、ビールとつまみで酔っぱらうつもりだったが、酔わず、そのまま弁当を食べる。この弁当は期待通りだった。後は車中読書。無事9時前に帰神。結構、楽しんだ一日だった。

感じた些細なことを細々としかも長々書き過ぎたようで、申し訳ないが浅学菲才、文才なく申し訳ない。ここまで辛抱強く読んでいただき感謝。

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