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神は細部に宿り給う

世間的にはISOマネジメントの規格要求事項が会社経営の要(カナメ)を示すものであるとの認識が 未だに非常に薄いのではないか、と最近痛感している。
会社の良し悪しを評価するのにまず、財務的指標に目が行くのは 当然として、次に目を持って行くべきは ISOマネジメントであると思っていたが、どうやら世間ではそういう認識は乏しいようだ。非常に 残念なことである。
ここに ISOマネジメントの業界関係者と世間の間に違和感に近い大きな温度差が 存在しているのではないか。お互いに 相手を“勘違いしている”と思っている部分があるように思うのだ。

今や中堅以上の企業であれば、ISO認証取得が 普通の企業としての当然の資格証明であるという時代である。
そうであれば、そのISO認証企業が どの程度のISOマネジメント・レベルであるのかは、非常に重要なことであり、この実態を知れば その企業の運営レベルを客観的にしかも端的に把握できるはずである。特に 製造業の会社については かなり正確な評価ができると 私は思っている。
但し、規格要求事項をどの程度 順守・履行すれば、その会社(組織)にとって正解なのかは“神のみぞ知る”というのが実態ではある。そして それが 歯がゆいところではある。そのため、その適切性を厳密に判定できないという限界は存在するのは事実だ。
だが、評価対象組織のマネジメントの適切性は おおよそISO9001を基準にして判断できると思っている。

しかし、ISOマネジメント業界以外の一般の人々には そのような認識は非常に乏しい。これは 何故なのだろうか。
まず 第一に想起されるのは、近年のISOマネジメントの社会的信頼を損ねる事件が頻発していることから、そんな重要な指標になり得るなどとは考えられていないと思われることである。しかし、どうも それがそういう認識の決め手では無いような気がする。
どうやらISOマネジメントは 些細な問題を対象にし過ぎているとの認識が 潜在的にあるからではないかと 最近思うようになったのだ。

財務・経理の状況は、決して些細な問題ではなく、正に主要な問題であることは事実であろう。しかし、本当にそうなのだろうか。実は 財務指標などというものは、企業活動の結果を示すものであって、企業活動の生の本質を正確に示しているものではないと思うのである。
“稼ぐに追いつく貧乏なし” 真剣な顧客満足の追求と、それを反映した生産活動であれば、一時的な赤字状態であっても やがて膨大な利益をもたらすこともあり得るのではないか。悪手を指さず正解を指していれば、必ず結果はついてくるはずである。これに対し手段を選ばずやるのは覇道であり、王道ではない。覇道はいずれ崩壊するものなのだ。
ISOマネジメントは大正解の手筋を示しているのである。少なくとも 悪手については全く示してはいない。

それに財務指標などというものは、現在の その企業の活動の状態を示しているものではない。過去の活動の結果を金額換算された数字に置き換えたデータなのだ。そうことに大方は気付いていないのではないか。スピード時代の現在にあっては、過去の残影を追っても 意味が無いことが多いはずだ。実は BSC(バランス・スコア・カード)はこうした 財務指標の弱点を突いて、積極的・攻撃的・予防的な企業パフォーマンスを生み出すために考案されたものだ。
一方、ISOマネジメントは、生産を中心とした活きた活動、今まさに行われている活動を統制するものである。だから BSCとISOマネジメントは非常になじみやすい。

また、財務的な目を基準にして最近は“内部統制”などと 今更の感のことがテーマになっている。そこでは文書化の重要性などもテーマの一つのようだ。これはISOマネジメントでは 当然の発想であるが、今更それが“内部統制”への騒ぎの原因になっていることに 私は多少の違和感を覚えるものである。
こうした騒ぎの原因は、手順やパフォーマンスの文書化や標準化とその正確な履行が マネジメント上非常に重要なことなのだが、そういう認識が 一般には 未だにないためではないか、と思うのである。
“そんな箸の上げ下ろしまで とやかく言うのか”、“そんな 些細なことまでルール化し、文書として残すのか”、“そんな面倒なことはできるハズがない”、“文書管理の手順がそんなに重要なのか” こういった認識が 大半の人々のものではないのか。
特に どの会社でも営業系の人々にこのような意識は一般的のような気がするのである。優秀あるいは熱心と言われるセールスマンこそ、そういう性向が はなはだしいような印象である。

だが、不正無く適切な“内部統制”を実現するには こうした“些細なこと”が手順どおり正確に運営されることが前提となるのである。不正の下では ずさんな決算書が作成されるであろうが、予め定められた手順どおりのパフォーマンスには、不正の入り込む余地はなくなり、おのずと適切な決算書・財務諸表は作成されることになる。手順の標準化がいい加減で野放しの業務分野には 不正の入り込む余地は大いにあるはずだ。
この意味で“神は細部に宿りたまう”のである。
そして、その“神”を ISOマネジメントは遵奉しているのである。経営に王道を求めるならばISOをやれ、と言いたい。

こうした統制の下で、一見些細な 会社員の振る舞いが その会社の社員特有の動きであったりする。その些細なところに その会社の優秀性を示すものがあったりするものである。そうした企業現場の第一線の活動の中に企業の真実はあると思うのである。まさに、そうした些細なところに“神は宿りたまう”のである、と信じている。
些細なことを おろそかにしないところにこそ、ISOマネジメントの真髄はあると思うのである。王道は些事にあり、と言える。

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