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ひろ さちや・著“道元 正法眼蔵―わからないことがわかるということが悟り”を読んで

この選挙結果がどうなるか。目下それが興味の中心。このブログ記事が流れる頃は、既に結果判明していて、この記事は“気の抜けたサイダー”になり果てている。何だかバツが悪いが仕方ない。先週末、政治評論家・田原総一朗氏は次のように予測している。

 今回、自民党は30議席前後、減らすのではないだろうか。ただ、菅政権のままであれば、70議席以上減るだろうという予想もあったから、それよりは傷は浅い。野党は議席を増やすことになるが、政権交代をしてどのような政治を行いたいのか、野党の構想がいまだに見えない。そのため国民は、自民党への不満は抱えつつも、今回の衆院選の時点では、野党に政権を委ねようという意思はほとんどないのかもしれない。
 重要なのは、来年に予定している参議院選挙だ。このままでは自民党はだいぶ負けることになる。安倍内閣の時はいろいろと問題はあったが、衆院選3回、参院選3回と、国政選挙で6連勝している。6勝0敗だ。
 なぜここまで強かったかというと、安倍さんは選挙のたびに「目標」をつくる能力が長けていた。そのため次回の参院選では、世論が注目するような目標を岸田さんが打ち出すことができるか、これが大きなポイントになると思う。それができなければ参院選で自民党が敗れ、岸田内閣は短命で終わるだろう。

まぁ、そうなんだろう、それが最大公約数だろうというところなんだろう。だが、次の参議院選挙が“何を言って、何をしたいのか不明”の新内閣のアキレス腱になるとの見方は新鮮な印象だ。
また、自民の大物が落選して、多少の動揺が走ることを期待したい。いつまでも3Aの妖怪が跳梁跋扈というのも情けない。
だがその3Aの一角が落選の危機で錯乱状態だという。悪いことをして、秘書のせいにして逃れようというのはムシが良すぎる。煩悩の中で明日のことを思い煩い、少し地獄を見るくらいは当然であろう。この国が悪の栄える社会であってはならないが、現実は情けない限りだ。♪何から何まで 真っ暗闇よ~筋の通らぬ ことばかり~
一方、旧々自民でありながら時の流れ、何かの因縁で、野党から出馬している“大物”も接戦で大わらわの由。これも時代の流れであろうか。変わらない日本と言えども、ジワット変化しているのだろうか。老兵は消えゆくのみ・・・であろう。
だが、世界は急速に変化している。この時に、“ジワット”変化では遅いのだが・・・。兎に角日本も、何とか大きく変化することを期待したい。



さて、今回も ひろ さちや氏の本を紹介したい。3回も続けてだが、まぁ私の気の済むまで御勘弁願いたい。今度は ひろ さちや氏がNHKの番組“100分de名著”で解説した内容を本にしたもので、NHK「100分de名著」ブックス・シリーズの1冊“道元 正法眼蔵―わからないことがわかるということが悟り”だ。だが、この本の最後には放送されなかった特別章“道元の「哲学」とは何か”が付いている。全145頁の小冊子だが、道元の本質を分かり易く解説している良書だと思う。
NHK出版のウェッブサイトには次の案内が載っている。

「哲学者」道元へのアプローチ
難解な仏教思想書の内容がこの一冊でわかる! 思想家・和辻哲郎やアップルの創業者スティーブ・ジョブズにも影響を与えた『正法眼蔵』のエッセンスを明快に読み解く。ブックス特別章「道元の『哲学』とは何か」を収載。

目次
はじめに 智慧を言語化した哲学書
第1章 「身心脱落」とは何か?
第2章 迷いと悟りは一つである
第3章 全宇宙が仏性である
第4章 すべての行為が修行である
ブックス特別章 道元の「哲学」とは何か

ところで『正法眼蔵』は、道元の100巻にのぼる構想にもかかわらず、道元自身の示寂によって頓挫した。“だが、その遺志は、永平寺の第二世を嗣いだ弟子の懐弉(えじょう)によってある程度果たされた。懐弉は、生前の道元が示衆のためにつくった草稿を書写していたらしく、そこに「現成公案」を加えて75巻の『正法眼蔵』を編集した。道元入滅後2年目の建長7年(1255)にその編集が完了した。ところが、後年、道元が執筆して人に与えたものや、また道元が示衆のために用意しながら説法に使わずにおいたものがたすうあることが分かった。そのうちには道元の真筆のものもあった。それらの新発見の巻を加え、江戸時代、元禄3年(1690)ごろに、永平寺35世の晃全(こうぜん)によって編集されたものが95巻本の『正法眼蔵』である。この95巻本は、永平寺50世の玄透(げんとう)によって再編集され、大本山永平寺版として刊行された。今日、『正法眼蔵』といえば、この95巻本の大本山永平寺版が底本になっている。”(筆者によって、この本の引用部分の「です・ます調」を「だ・である調」に変更している。以下同様)

著者は、『正法眼蔵』を哲学書として読めば、それほど難解ではないと指摘している。“哲学書というのは、何の前提もなく、ただただ人間の理性によって真理の世界を解明しようとするものだ。ということは、言語を駆使するわけだ。”
“ところが、ほとんどの人が『正法眼蔵』を禅の指南書として読んでいる。”しかし、禅の指南書であれば、禅は「不立文字・以心伝心」を根本としている。つまり“人間の理性・言語に拠らずに、真理の世界を味わわせようとする。のどの渇いたとき、一杯の水のおいしさを言葉によっていくら説明しても、渇きはおさまらない。それが禅のやり方である。”
ならば何故、道元は『正法眼蔵』を書き遺したのか。それは“ただただ言語を武器として、悟りの世界を解明し、叙述したかったのだ。それによって彼の信じる「正伝の仏法」を後世に伝えたかったのだ。わたしはそう考えている。”という。

それが哲学書ならば西洋哲学の西研先生の言葉、“哲学書を読むときは、それが何のために書かれたのか、つまり著者の問題意識を理解することが大切”を思い出す。そこで著者は、『正法眼蔵』において道元は何のために書いたのかを説明する。それには先ず、“彼は、釈迦から正しく教えられた仏教―正伝の仏法―を説いているのだと自負”していたのが前提になる。

その上で重要な鍵となる言葉の語法の解説となるが、先ず、しばしば仏教で使われる表現に“即”、“すなわち”の解説からスタートしている。例えば、“生死即涅槃”、“煩悩即菩提”、“仏即凡夫”や有名な『般若心経』の“色即是空”がある。この“即”は、一般には“イコール”の意味だと思われているが、それは間違っているという。
それは“イコール”ではなく、“同じものを別々の見方で捉えている”ことだ。“煩悩即菩提というのは、煩悩も悟りも同じものなのに、ある人はそれを煩悩と見、別の人はそれは悟りだと見ているということ”を意味しているとの指摘だ。正に、ここが仏教の基本だという。“世間では分別のあるのはいいことだが、仏教では「分別するな!」と教えている。分別智ではなしに、分別しない無分別智こそ、仏教の求める智慧なのだ。” “煩悩も悟りも同じものなのに、われわれはそれを煩悩と悟りに分別している。そういう分別をするな―というのが、仏教の教えなのだ。”という。

道元哲学を理解する次のキィワードは、“時節因縁”だという。それは“そのときそのときのあり方”といった意味だ。
“この世に存在する事物は、時々刻々と変化している。” “仏教では、これを「諸行無常」という。「行」とは、因縁によってつくりあげたものをいう。”
では、そのように時々刻々変化する相(すがた)のうち、どの相が本質なのか。『法華経』の「方便品」には次のようにある。

 ただ仏と仏とのみ、すなわちよく諸法の実相を究尽す

どの相が本質なのかは、残念ながら仏でなければ分らず、われわれ凡人には分からない。そこで、道元は“時節因縁”と言った。若い時、老いた時、苦しい時、様々な因縁によって苦しんでいる訳だが、それを正面から受け止めるべきだという。逃げるのが間違っていて、しっかりと受け止めて“自己のあり方を、しっかりと生きればよい”。そうでなければ一層苦しむことになる、それが“時節因縁”だという。
そうなれば
―即今・当処・自己―
が大切となる。「いま」、「ここ」で「わたし」が生きている。“その自己を、しっかり生きればよい。いや、死ぬときはしっかり死ねば良いのだ。” “生きているときに死の恐怖に怯える必要はないし、死ぬときに「死にたくない」と喚く必要はない。いやそうではない。「死にたくない、死にたくない」と喚く時節因縁になれば、思いきり喚けばいいのだ。”

次のキィ概念は、“道元の「時間論」”となる。それは
―ただ現在しか存在しない―
ここで、著者は釈迦の言葉「過去を追うな。未来を願うな。ただ現在を生きよ」を紹介している。キリストも“明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。”と言ったというのを思い出す。
こうした“時間”の概念イメージは、高速列車の先頭のパノラマ席に乗っているようなものだという。“その風景は一瞬の内に過ぎ去り、見えなくなってしまう。”だから、隣の人と見えるものが違うこともある。だが、その違いを確認する方法はない。“すなわち、世界は「現成」しているのだ。” “いま、おまえの前に現成している世界。それこそが世界であり、それ以外に世界はない。”これが“現成公案”の意味だという。いまを疎かにせず、しっかり生きよ!

さてここで、道元悟りの究極の“心身脱落”に至る。道元は中国での師の如浄の言葉“心身脱落”を“聞き間違った可能性がある。如浄はそれを「邪念をなくすこと」「煩悩を捨て去ること」といった意味で使ったのに、道元はそれを、文字通りに「ちっぽけな自我(エゴ)を脱落させること」と聞いたのだ。そして彼は、自我(エゴ)を脱落させて無我の境地に達したのだ。”
“一般に仏道修行は、心の塵を払うことだと考えられているが、道元によると塵(煩悩)と悟りはもともと同じもの(即)だ。だから、塵(煩悩)を払ってしまえば、悟りもなくなってしまう。われわれが払うべきものは、煩悩と悟りを分別する自我意識の方だ。道元はそういう意味で「心身脱落」を考えたのだ。”

そうなれば“心身脱落とは、伝統的な仏教の用語だと、「無我」になるだろう。それは我執(がしゅう:自我に対する執着)をなくすこと、あるいは超越することを意味する。”
しかし、道元は“有”と“無”は区別のない一つのものと見ている。“だから道元は、「無我」という言葉を使わず、「心身脱落」と言ったのだ。” “その心身脱落とは、それ故、道元は「忘れること」だというのだ。”
“無我”ではなく、“忘我”である。同時に他人(他己)にもこだわらず、そのこだわりを忘れること、それが“心身脱落”にほかならないという。

いつのまにか“わたしたちは、世界を「此岸(しがん)」と「彼岸(ひがん)」に分別している”との指摘がある。“此岸とは迷いの世界・凡夫の世界であり、彼岸は悟りの世界・仏の世界だ。そして、此岸から彼岸に渡らねばならないと考えている。仏教とは此岸から彼岸に渡るための教えであると、われわれは思い込まされている。”
“だが、道元によると、それが迷いなのだ。世界には此岸も彼岸もないのだ。世界は(本来)一つなのだ。”(括弧内筆者)
だが、例えば“仏性”には世界の場所によって濃淡があるのではないかとの議論はあるが、禅の世界ではそれも否定され、有りか無しかのどちらかとされる。さらに道元は“全宇宙が仏性であり、われわれはその仏性の中で生きている。その濃度など問題ではない”と考えていた。“濃度なんて考えなくてよい。ただ(それに向かって)歩めばよい。”(括弧内筆者)
“そのあなたのいる場所から、一歩でも上に向かえば、それが悟りだ。また、一歩でも下に向かえば、それが迷いだ。”
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は仏教的示唆に富んだ小説で、糸のどの地点にいるかは問題ではない。“大事なことは、上にのぼることだ”という。道元も次のように言っている。

 いわゆる仏向上事といふは、仏にいたりて、すすみてさらに仏をみるなり。

“われわれはただ歩みつづける。その歩みつづける修行こそが、悟り(証)にほかならない。それが”
―修証一等―
ということ。“少しでも学んで、努力する”それが人生なのであろうか。

ところでこのように、仏教で“分別するな”とは言うが、西洋近代科学は“分析”、つまり事物を分けて、“区別”してそれぞれの特質・特性を“究明”して発達してきた。これをどう解釈するのだろうか。
また“現在のみ、過去のことは忘れろ、反省するな、明日のことに惑うな”は、今の我等の常識では全く逆で、“過去の反省に立って、明日に備えて準備せよ!”と考えている。そしてこれを日常実践している。この矛盾をどう解消するのか。
やっぱり“禅即仏教”を言葉だけで理解しようとしていると、この矛盾に陥るのであろうか。
だから、ここで語られた完璧に腑に落ちる(悟る)までには至っていない。しかし、多少は“そのような考えもある”と理解できた“ような気がする”ので、悟りへの一歩前進、というところであろうか。いずれ、それが心身に滲みわたり、脱落にいたるのであろうか。いずれの明日を期待するということでは、煩悩に浸っているのであろうが・・・・・てな訳で、まぁこんなところで・・・。

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