The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
緊急号外・この度の総選挙に臨んで
衆議院銀選挙、投票日が次の日曜日だ。既に不在者投票は始まっている。
選挙予測が取沙汰されているが、どうやら与野党接戦だという。
この期に及んで、何故接戦なのか。接戦するほど、与党はチャンと仕事をしてきたのか。21世紀になって日本は変わったか?世界は大きく変化しているようだが、日本社会は21世紀にふさわしい社会になっているか。自由と民主主義、多様性は進んでいるのか。私には、20世紀後半前期、つまり70年代からの変化には対応できていないように見えるが、それで良いのか。
その端的な事例が“選択的夫婦別姓制度”の選択だ。20年来議論して来て未だに決められない。反対だという与党が居る。これだけをとっても、決められない政治・社会になっても人々をある種の枠の中に押し込めたままに、放置している。それは人々の自由をその枠の中に押し込めて抑制しているのだ。いわば、人々の自由を拘束しているのだ。
その言い訳が振るっている。“人々の中にはまだまだ夫婦別姓に違和感を持つ人々がいる。議論が熟していない。”などというのだ。20年もの間議論をして来て、与党1党以外は皆“選択的夫婦別姓制度”に賛成だと意思表明しているにもかかわらず、反対なのだ。“まだまだ夫婦別姓に違和感を持つ人々”というのは、自分のことなのだ。自分以外の言うことは聞かない!という姿勢なのだ。
民主的な手順を無視して、人々の自由を拘束しているのが自由民主党なのだ。これは言うところの、“不当表示”であろう。最早議論の余地はないのだ。彼らを、正確な名称に改めるならば、“不自由非民主党”なのだ。
この実際とはま反対の“不当表示”の政党を未だに未練がましく、支持するのか。人々の自由を拘束しているのが自由民主党、それを支持するのか。民主的な議論を20年続けて来て、それでもなお“まだまだ違和感を持つ人々”つまり古い人間、それはとりもなおさず自分が反対しているので、それを押し付けてくる非民主的な自由民主党を支持するのか。
それで良いのか。昨日までの続きで、明日も生きて行くのが良いのか。古いままの不自由で良いのか。もう変えようではないか。
現にコロナ禍で皆、酷い目にあったではないか。これはほぼ、現与党のリードする政府によって様々な不作為が生じた結果だ。それを是認するのか。是認できるのか。意図的とも思えるマネジメント不足。科学性、戦略性のなさ。説明責任の放棄。
大切な人の命を失わせ、仕事を失わせ・・・それが“国民の生命・財産を守る”と言いきってきた御仁達であり、その御仁達が指導した与党、政権、政府の正体なのだ。
こういう与党を又選ぶのか。深く考えもせず、昨日までの続きで、明日も生きて行くのが良いのか。それで良いのか。
エコノミストの指摘では、日本の貯蓄が未だ増大しているという。これが日本経済の発展を阻害しているという。前回までも指摘してきたつもりだが、大手企業は内部留保を進めて、将来投資をしていない。賃金を抑制し人財に投資していない。消費が伸びない、投資が伸びない、では日本経済が発展する訳がない。
“貯蓄の増大”の原因は、国民全体が政府を信頼していない潜在意識のなせる業だ。潜在意識では信頼していないにもかかわらず、選挙ではそんな政府を支持するのか。意志表明では明示的にそんな政府を支持するのだ。何故なのか?自らの心にしっかりと問うべきではないのか。自分の正直な気持ちも分からないのか。
今や日本では、貯蓄できる余裕のある人々は少なくなってきている。そういう貧困も、現政権の政策の“御蔭”ではないのか。それでもこの政府を支持するのか。
N大の闇。それは日本の闇そのものだ。だからN大というのか?N大の闇は50年前に既に学生が告発していた。その高揚した学生運動を警察権力が圧殺し、悪は生き続けた。これが日本社会・政治の実態なのだ。だから数年前にも、その闇が明るみになったが、また悪は何故かしつこく生き続けたのだ。あたかもそこに裏の日本社会を見るのだ。巨悪はいつまでもこの日本社会で生き続けている。巨悪は国会にもはびこって来た。このままで良いのか。
人々は利用されているのだ。今や利権政治は頂点を極めている。ウソで塗り固めた政治。モリカケサクラ!国会での虚偽答弁オンパレードで嘘ばかり。国会を侮辱しているのは、国民を侮辱していることになるのだ。
それでもこの与党、政権、政府を支持するのか。3Aのウソにはもううんざりなのだ。今も、誹謗中傷、事実無視の選挙演説に奔走していると聞く。それを許して良いのか。それを支持するのか。
これでは“正義は死ぬ”。現に真面目なお役人は“自殺した”ではないか。そうでなくても、多くの真面目な官僚は左遷されている事実がある。
もういい加減にして欲しいのだ!!!
選挙予測が取沙汰されているが、どうやら与野党接戦だという。
この期に及んで、何故接戦なのか。接戦するほど、与党はチャンと仕事をしてきたのか。21世紀になって日本は変わったか?世界は大きく変化しているようだが、日本社会は21世紀にふさわしい社会になっているか。自由と民主主義、多様性は進んでいるのか。私には、20世紀後半前期、つまり70年代からの変化には対応できていないように見えるが、それで良いのか。
その端的な事例が“選択的夫婦別姓制度”の選択だ。20年来議論して来て未だに決められない。反対だという与党が居る。これだけをとっても、決められない政治・社会になっても人々をある種の枠の中に押し込めたままに、放置している。それは人々の自由をその枠の中に押し込めて抑制しているのだ。いわば、人々の自由を拘束しているのだ。
その言い訳が振るっている。“人々の中にはまだまだ夫婦別姓に違和感を持つ人々がいる。議論が熟していない。”などというのだ。20年もの間議論をして来て、与党1党以外は皆“選択的夫婦別姓制度”に賛成だと意思表明しているにもかかわらず、反対なのだ。“まだまだ夫婦別姓に違和感を持つ人々”というのは、自分のことなのだ。自分以外の言うことは聞かない!という姿勢なのだ。
民主的な手順を無視して、人々の自由を拘束しているのが自由民主党なのだ。これは言うところの、“不当表示”であろう。最早議論の余地はないのだ。彼らを、正確な名称に改めるならば、“不自由非民主党”なのだ。
この実際とはま反対の“不当表示”の政党を未だに未練がましく、支持するのか。人々の自由を拘束しているのが自由民主党、それを支持するのか。民主的な議論を20年続けて来て、それでもなお“まだまだ違和感を持つ人々”つまり古い人間、それはとりもなおさず自分が反対しているので、それを押し付けてくる非民主的な自由民主党を支持するのか。
それで良いのか。昨日までの続きで、明日も生きて行くのが良いのか。古いままの不自由で良いのか。もう変えようではないか。
現にコロナ禍で皆、酷い目にあったではないか。これはほぼ、現与党のリードする政府によって様々な不作為が生じた結果だ。それを是認するのか。是認できるのか。意図的とも思えるマネジメント不足。科学性、戦略性のなさ。説明責任の放棄。
大切な人の命を失わせ、仕事を失わせ・・・それが“国民の生命・財産を守る”と言いきってきた御仁達であり、その御仁達が指導した与党、政権、政府の正体なのだ。
こういう与党を又選ぶのか。深く考えもせず、昨日までの続きで、明日も生きて行くのが良いのか。それで良いのか。
エコノミストの指摘では、日本の貯蓄が未だ増大しているという。これが日本経済の発展を阻害しているという。前回までも指摘してきたつもりだが、大手企業は内部留保を進めて、将来投資をしていない。賃金を抑制し人財に投資していない。消費が伸びない、投資が伸びない、では日本経済が発展する訳がない。
“貯蓄の増大”の原因は、国民全体が政府を信頼していない潜在意識のなせる業だ。潜在意識では信頼していないにもかかわらず、選挙ではそんな政府を支持するのか。意志表明では明示的にそんな政府を支持するのだ。何故なのか?自らの心にしっかりと問うべきではないのか。自分の正直な気持ちも分からないのか。
今や日本では、貯蓄できる余裕のある人々は少なくなってきている。そういう貧困も、現政権の政策の“御蔭”ではないのか。それでもこの政府を支持するのか。
N大の闇。それは日本の闇そのものだ。だからN大というのか?N大の闇は50年前に既に学生が告発していた。その高揚した学生運動を警察権力が圧殺し、悪は生き続けた。これが日本社会・政治の実態なのだ。だから数年前にも、その闇が明るみになったが、また悪は何故かしつこく生き続けたのだ。あたかもそこに裏の日本社会を見るのだ。巨悪はいつまでもこの日本社会で生き続けている。巨悪は国会にもはびこって来た。このままで良いのか。
人々は利用されているのだ。今や利権政治は頂点を極めている。ウソで塗り固めた政治。モリカケサクラ!国会での虚偽答弁オンパレードで嘘ばかり。国会を侮辱しているのは、国民を侮辱していることになるのだ。
それでもこの与党、政権、政府を支持するのか。3Aのウソにはもううんざりなのだ。今も、誹謗中傷、事実無視の選挙演説に奔走していると聞く。それを許して良いのか。それを支持するのか。
これでは“正義は死ぬ”。現に真面目なお役人は“自殺した”ではないか。そうでなくても、多くの真面目な官僚は左遷されている事実がある。
もういい加減にして欲しいのだ!!!
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