The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
角界の騒動
名古屋場所が始まった。だが、テレビ・ワイド・ショーでの話題は 日本相撲協会の野球賭博トラブルへの対応だ。
内心、何でこんなことが 騒動の対象となるのか、とも思うのだが、問題の核心は“反社会勢力”との関係性にあるようだ。つまり、野球賭博が 暴力団の資金源になっているのではないかという“疑い”での騒動なのだ。それは明らかな確証があった上での騒動ではないのだ。“賭博”行為そのものが、問題であるとの見方と重なって何となく 大問題となっているのだろう。しかし、賭け事は 一般社会でも ゴルフなどで普通に行なわれている。角界を監督する立場の文科省ですら“サッカーくじ”を主催している、つまり胴元ではないか、との批判もあるにもかかわらず、なのである。
暴力団との具体的関係性についての立証は 今後の公権力の捜査によって解明されることになる。しかし、最近の冤罪事件の続発に見られるように、公権力による捜査結果も 直ちには絶対的に正しいものとは必ずしも言えない。
にも かかわらず相撲協会を“解雇”されてしまった2人の人権は 保護されていると言えるのだろうか。当人達が 素直にも それを認めてしまったことにより、そのことは 世間的には全く問題になっていない。
この 騒動は 冷静に見つめると、このように非常に不思議な事件なのだ。
この騒動に輪をかけるように 今春 確か相撲界を改革すると称して理事に立候補した 親方の行動も なんとなく 奇妙に映る。しかし、この騒動での被処分者の多くが この親方支持者であったというのならば、協会中央と 改革派の暗闘の結果という図式も 邪推できるのだ。
私としては、どうして 相撲取りが そこまで“野球賭博”に入れ揚げたのか不思議なのだ。相撲取りが “野球の試合に相撲どころではなかった”、というのは 非常に違和感を覚えるのだ。やるなら 当然 自分達の専門の“相撲賭博”ではないのか。当人達が “相撲賭博”と言うのならば、それは 当然、八百長に発展するものだろう。
かつて、プロ野球選手が “野球賭博”に関与した事件があったが、それには当然 八百長が絡んでいた。
そして、相撲界での その疑念は これまで幾度も週刊誌等で報道されていた。そして、それは協会によって 司法の公権力の下で否定されて来たいきさつがある。だから、この問題が、事実として明らかになれば それは 相撲協会の社会的破滅となる。
だから、返って 問題を“野球賭博”に留めて 人々の目を逸らしているのではないかと 勘ぐってしまうのだ。しかも、ついでに“改革派”を追放することもできた、という邪推も成立するのだろうか。だが、我らがマスコミ“正義の味方”、テレビのワイド・ショーは この論理的にはありうる妄想を 全く話題にしないし、それを口にするコメンテータは1人もいないのだ。これが、また不思議なのだ。あたかも 事前にマスコミ関係者間で談合されたかのような雰囲気すら感じてしまう。
とにかく、この 話題は 考えれば考えるほど 不思議に始まって不思議で終わる 奇妙な騒動なのだ。
そもそも プロの相撲界は 日本社会において 非常に特殊な世界になってしまっている。
日本のスポーツの多くは、明治維新後 海外から入ってきたものが殆どである。日本古来のもので スポーツとして生き残ったのは 武道であり、それは本来、武士階級のものであった。古来から庶民のものでもあったのは相撲だけである。なので、その来歴からして スポーツとしては異質で、歴史的遺物と言える慣習を抱えたまま今日に至っていると考えてよいのではないか。
ここからは、全くの門外漢である私の相撲に対する私見である。独断と偏見で“常識”を 逸脱している部分があるかもしれないが そういう部分があれば、お許しいただきたい。
江戸期以前において、普通の人は 殆どが肉体労働者であったが、そこから はみ出した“力の余った若い者”の多くは ヤクザモノとなったと思われる。単純に ヤクザモノとはならなかった者の一部に “駕籠かき”や“町火消し”、“相撲取り・力士”等が居たのではないかと想像する。この“力の余った若い者”の 親分が しっかりしていれば 彼らを人足として組織して、港湾労働者等として荷役や貨物輸送に従事させていたのではないか。恐らく そういう事業権を手に入れるための私闘もあっただろう。相撲は 神社祭礼などで、ショーとして開催し、力士の稼ぎとして成立していたのだろう。
そういう生業も 構想できず、単純に 暴力で人々を驚かせ、脅かすことによって金品を得て それを賭博によってさらに膨らませるという“生き方”がヤクザモノ・暴力団のシノギのプロト・タイプと言えるのだろう。
そう考えると、ヤクザと 力士は 紙一重に見えて来る。相撲を “武術”として捉える見方もあるようだが、力士は正規の“武士”ではなかったようだ。好意的に見ても 多くは武士と庶民の中間的階級と見做されていたと思われる。事実、幕末には、新撰組は大阪で 力士集団と暴力事件を起こしているし、長州では 不満分子としての相撲取りが奇兵隊の一部・力士隊を構成したりしていることを見ても、“武士”としてよりも どうもヤクザモノ的要素を持った庶民として 力士は存在していたものと想像できる。ヤクザと力士は 本質的に同根で、かなり親和性が高いのだ。
相撲界は そういう歴史的背景を持った内部慣習を 部分的に残存したまま コンプライアンスが厳しくなった現代に生き残ってしまったため、世間(カタギの社会)との間に ギャップがあまりにも大きくなってしまったものと思われる。
ところが、さら悪いことに 昭和期に “偉大な横綱”が登場し、武士道を手本にした“相撲道”を 提唱したことで、その目標とするべき精神性の形而上と 現実の形而下の分裂が はなはだしくなってしまったのではないか。つまり 世間的には 至高の“相撲道”を奉じる関取達として 尊敬を集めるようになってはいたし、事実 特に 横綱には“品格”が 要求されたりしていた。また昭和天皇が 相撲が 大変 お好きであったことも、その“品格”的要素に拍車をかけたのではないか。
このややこしくなった実態矛盾を 相撲の世界しか知らず、世間の変化を理解できない人達だけで構成される相撲協会では 解決しえず、それを問題としてすら認識できず、非合法な内部慣習を解消できず、残存させる結果となったのではないか。
恐らく、こういう角界は 外国人力士達にとっては 協会の“言っていること”と実態のあまりにも大きな落差から、非常に奇妙に映っているような気がしてならない。
こう考えると、最早、相撲は 通常のスポーツとしては 成立し得ないような気がする。“相撲道”や“相撲の品格”を言うのならば、近代スポーツとして見るには 面白味に欠ける結果になるような気がする。朝青龍は そういう問題点を明らかにしてくれたように思う。相撲は 近代スポーツとしてではなく、形式美と 虚構の品格の中で 文化財として生き残る道しかないのではないか。そのような日本的ショーとして生き残るならば、八百長も可ではないか。ショーにはシナリオが必要なのだが、もっとも そうなれば 賭博は成立しないことになるのだが、返って その方がプロレスと同じになり、良いのではないか。それが 本来の姿だったのかもしれない。
そうでないならば、柔道が 外国人も理解できる“ジュウドウ”と化した道しかないのではないか。国際化は 日本的精神性からは 遠い世界への道なのだ。良い所の両取りで 生き残りは不可能ではないかと思うのだ。
とにかく、こういう問題を解消するためには、相撲協会は力士以外のノン・プロパーも入れて改革しなければならないだろう。特に 協会理事長は 一定期間ノン・プロパーに任せて改革しなければならないと思う。それは今回のような一瞬の暫定処置では全く意味がないのは当然だが、そこへ 納まるべき人が 高級官僚であるのは 何をかいわんやの印象である。

内心、何でこんなことが 騒動の対象となるのか、とも思うのだが、問題の核心は“反社会勢力”との関係性にあるようだ。つまり、野球賭博が 暴力団の資金源になっているのではないかという“疑い”での騒動なのだ。それは明らかな確証があった上での騒動ではないのだ。“賭博”行為そのものが、問題であるとの見方と重なって何となく 大問題となっているのだろう。しかし、賭け事は 一般社会でも ゴルフなどで普通に行なわれている。角界を監督する立場の文科省ですら“サッカーくじ”を主催している、つまり胴元ではないか、との批判もあるにもかかわらず、なのである。
暴力団との具体的関係性についての立証は 今後の公権力の捜査によって解明されることになる。しかし、最近の冤罪事件の続発に見られるように、公権力による捜査結果も 直ちには絶対的に正しいものとは必ずしも言えない。
にも かかわらず相撲協会を“解雇”されてしまった2人の人権は 保護されていると言えるのだろうか。当人達が 素直にも それを認めてしまったことにより、そのことは 世間的には全く問題になっていない。
この 騒動は 冷静に見つめると、このように非常に不思議な事件なのだ。
この騒動に輪をかけるように 今春 確か相撲界を改革すると称して理事に立候補した 親方の行動も なんとなく 奇妙に映る。しかし、この騒動での被処分者の多くが この親方支持者であったというのならば、協会中央と 改革派の暗闘の結果という図式も 邪推できるのだ。
私としては、どうして 相撲取りが そこまで“野球賭博”に入れ揚げたのか不思議なのだ。相撲取りが “野球の試合に相撲どころではなかった”、というのは 非常に違和感を覚えるのだ。やるなら 当然 自分達の専門の“相撲賭博”ではないのか。当人達が “相撲賭博”と言うのならば、それは 当然、八百長に発展するものだろう。
かつて、プロ野球選手が “野球賭博”に関与した事件があったが、それには当然 八百長が絡んでいた。
そして、相撲界での その疑念は これまで幾度も週刊誌等で報道されていた。そして、それは協会によって 司法の公権力の下で否定されて来たいきさつがある。だから、この問題が、事実として明らかになれば それは 相撲協会の社会的破滅となる。
だから、返って 問題を“野球賭博”に留めて 人々の目を逸らしているのではないかと 勘ぐってしまうのだ。しかも、ついでに“改革派”を追放することもできた、という邪推も成立するのだろうか。だが、我らがマスコミ“正義の味方”、テレビのワイド・ショーは この論理的にはありうる妄想を 全く話題にしないし、それを口にするコメンテータは1人もいないのだ。これが、また不思議なのだ。あたかも 事前にマスコミ関係者間で談合されたかのような雰囲気すら感じてしまう。
とにかく、この 話題は 考えれば考えるほど 不思議に始まって不思議で終わる 奇妙な騒動なのだ。
そもそも プロの相撲界は 日本社会において 非常に特殊な世界になってしまっている。
日本のスポーツの多くは、明治維新後 海外から入ってきたものが殆どである。日本古来のもので スポーツとして生き残ったのは 武道であり、それは本来、武士階級のものであった。古来から庶民のものでもあったのは相撲だけである。なので、その来歴からして スポーツとしては異質で、歴史的遺物と言える慣習を抱えたまま今日に至っていると考えてよいのではないか。
ここからは、全くの門外漢である私の相撲に対する私見である。独断と偏見で“常識”を 逸脱している部分があるかもしれないが そういう部分があれば、お許しいただきたい。
江戸期以前において、普通の人は 殆どが肉体労働者であったが、そこから はみ出した“力の余った若い者”の多くは ヤクザモノとなったと思われる。単純に ヤクザモノとはならなかった者の一部に “駕籠かき”や“町火消し”、“相撲取り・力士”等が居たのではないかと想像する。この“力の余った若い者”の 親分が しっかりしていれば 彼らを人足として組織して、港湾労働者等として荷役や貨物輸送に従事させていたのではないか。恐らく そういう事業権を手に入れるための私闘もあっただろう。相撲は 神社祭礼などで、ショーとして開催し、力士の稼ぎとして成立していたのだろう。
そういう生業も 構想できず、単純に 暴力で人々を驚かせ、脅かすことによって金品を得て それを賭博によってさらに膨らませるという“生き方”がヤクザモノ・暴力団のシノギのプロト・タイプと言えるのだろう。
そう考えると、ヤクザと 力士は 紙一重に見えて来る。相撲を “武術”として捉える見方もあるようだが、力士は正規の“武士”ではなかったようだ。好意的に見ても 多くは武士と庶民の中間的階級と見做されていたと思われる。事実、幕末には、新撰組は大阪で 力士集団と暴力事件を起こしているし、長州では 不満分子としての相撲取りが奇兵隊の一部・力士隊を構成したりしていることを見ても、“武士”としてよりも どうもヤクザモノ的要素を持った庶民として 力士は存在していたものと想像できる。ヤクザと力士は 本質的に同根で、かなり親和性が高いのだ。
相撲界は そういう歴史的背景を持った内部慣習を 部分的に残存したまま コンプライアンスが厳しくなった現代に生き残ってしまったため、世間(カタギの社会)との間に ギャップがあまりにも大きくなってしまったものと思われる。
ところが、さら悪いことに 昭和期に “偉大な横綱”が登場し、武士道を手本にした“相撲道”を 提唱したことで、その目標とするべき精神性の形而上と 現実の形而下の分裂が はなはだしくなってしまったのではないか。つまり 世間的には 至高の“相撲道”を奉じる関取達として 尊敬を集めるようになってはいたし、事実 特に 横綱には“品格”が 要求されたりしていた。また昭和天皇が 相撲が 大変 お好きであったことも、その“品格”的要素に拍車をかけたのではないか。
このややこしくなった実態矛盾を 相撲の世界しか知らず、世間の変化を理解できない人達だけで構成される相撲協会では 解決しえず、それを問題としてすら認識できず、非合法な内部慣習を解消できず、残存させる結果となったのではないか。
恐らく、こういう角界は 外国人力士達にとっては 協会の“言っていること”と実態のあまりにも大きな落差から、非常に奇妙に映っているような気がしてならない。
こう考えると、最早、相撲は 通常のスポーツとしては 成立し得ないような気がする。“相撲道”や“相撲の品格”を言うのならば、近代スポーツとして見るには 面白味に欠ける結果になるような気がする。朝青龍は そういう問題点を明らかにしてくれたように思う。相撲は 近代スポーツとしてではなく、形式美と 虚構の品格の中で 文化財として生き残る道しかないのではないか。そのような日本的ショーとして生き残るならば、八百長も可ではないか。ショーにはシナリオが必要なのだが、もっとも そうなれば 賭博は成立しないことになるのだが、返って その方がプロレスと同じになり、良いのではないか。それが 本来の姿だったのかもしれない。
そうでないならば、柔道が 外国人も理解できる“ジュウドウ”と化した道しかないのではないか。国際化は 日本的精神性からは 遠い世界への道なのだ。良い所の両取りで 生き残りは不可能ではないかと思うのだ。
とにかく、こういう問題を解消するためには、相撲協会は力士以外のノン・プロパーも入れて改革しなければならないだろう。特に 協会理事長は 一定期間ノン・プロパーに任せて改革しなければならないと思う。それは今回のような一瞬の暫定処置では全く意味がないのは当然だが、そこへ 納まるべき人が 高級官僚であるのは 何をかいわんやの印象である。

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