The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
司馬遼太郎記念館訪問
未だ 梅雨入り前の頃だったが、東大阪に私用があり、ついでにかねてから行きたいと思っていた司馬遼太郎記念館に行った。
司馬遼太郎記念館というのは、作家・司馬遼太郎氏の没後、ご遺族と篤志家の手によって司馬氏の私邸の一部に記念館を建設されたものであり、そこには 膨大な蔵書が保存されている。その蔵書の凄さに圧倒されに行って見るべきだと、知人に言われて驚いていたものだったが、残念ながら これまで行けないでいたのだ。その知人とは江戸っ子だが、長期投資銀行のバンカーで たまたま神戸で一緒になったことがあったが その後東京・雪谷に戻った教養あふれる人だ。
実は、私は 東大阪市の合併前の布施市で育った。この記念館も 実は この旧布施市内にあるので 特に親しみを覚える。というか、江戸っ子に言われたことが 片腹痛かったのだ。記念館のロケーションは 近鉄・奈良線の沿線で、さらに言えば河内にある。下に 記念館の近くにあった地域案内図を写真に示すが、この奈良線の 河内小阪駅と八戸ノ里駅の間にあり、どちらかというと八戸ノ里駅の方が近いし、分かり易い。
司馬氏は、旧制上之宮中学から、旧制大阪外国語学校(後の大阪外国語大学)に進んだのだが、実は これらの学校はいずれも、近鉄・奈良線の当時のターミナル上本町駅、通称ウエロク(上本町六丁目)の近くなのだ。恐らく司馬氏は 約10分の電車通学をしていたことになる。大阪外大は 大阪商人の個人寄付による設立であり、そこには大阪商人堅気があるし、ここからも司馬氏は生粋の大阪人だと知れる。
私は阪神・近鉄で記念館を目指した。電車が目指す駅に近付くと窓から南側に樟蔭女子大が 見えたが、ここに“田辺聖子文学館”の垂れ幕があった。そうか この辺りは意外にも関西の作家達のゆかりの地なのだとの感慨を持つ。私は近鉄大阪線の八尾に近い所で子供時代を過ごしたが、当時この小阪界隈には 特に文教地区的雰囲気があり、ある種あこがれのある所だった。
下の写真は 記念館南東側、八戸ノ里よりの市街の風景で、古い時代の農村の面影を残している。実は、昔 この辺りは 一面の水田と 所々に蓮池のある所だった。小学校時代 学校にプールが未だ無く、この辺りに市立のプール・センターが出来、授業の一環として学校から歩いて行ったことがある。田圃の中にポツンとあるプールが印象的だったが、今となっては 具体的にどこなのか、よく分からない。八戸ノ里市街地の真ん中の大きな公園と体育館のある所だろうか。
さて、私は 小阪駅で下車して記念館に向かうことにした。商店街を抜けて、公園にさしかかったところで、記念館の方向を指し示す矢印を見つけるが、建て込んだ細い昔のままの道に 不安を覚えつつ、引き続く矢印に、従い、歩をつなぐ。
そして ようやくたどり着いた記念館が 写真の右側で 周囲とは異色な緑の多い邸宅である。総敷地面積2,000㎡とあるから相当な大豪邸と言える。司馬氏はこの界隈の相当に裕福な家庭の出身であったと思われる。
入口・記念館の門では、ボランティアとおぼしき人に入場券の自動販売機に導かれる。気がつくとこの人達は複数居られ、熱烈な司馬ファンと思われる。この案内者によると戸外の写真撮影は可だが、館内は不可とのこと。当然のことなのだが圧巻の蔵書の様子の写真は 撮れないことに幾分がっかり。
庭に入ると、居宅だと思われる建物があり、さらに奥に行くと、書斎と思われる前に立つことができる。
若い頃読んだ 渡辺昇一氏の“知的生活の方法”に書斎の重要性が書かれていて、当時の私は大いに戸惑いを感じたものだが 成る程 これが“書斎”というものだ。そう思わせる雰囲気というより貫禄は十分にある。あの雪谷の粋人が言っていた通りである。
記念館は 安藤忠雄氏の設計である。あの大山崎山荘新館と言い、ここ最近の このような建物は ほとんど安藤氏の手になるものというのだろうか。
館内に入って 右手奥に進むと、まさに息を呑む超膨大な蔵書の壁が目に入る。建物外観は 高さがないが、少なくとも4~5mは地面の下へ掘り込まれていて、11m以上の高さが確保されていて蔵書が収納されている。だから下のフロアに降りれば 正に圧倒される。蔵書の数2万冊以上から それを観覧者が一気に見渡すのにどうするべきか考えた上での設計だったのだろう。本を取出すはしごというか移動階段が目立つ。だが、これで蔵書の全てなのだろうか、との疑念も湧く。
膨大な蔵書と 所縁の品々を見た後、順路の別の部屋で司馬氏の人となりを説明するビデオが 上映されていた。
それによると、司馬氏は陸軍戦車隊で終戦を迎えたそうだが、その直前 “本土決戦”を控えて覚悟を定めている時、彼はフト、避難してくる人々を避けつつ戦場に向かうにはどうしたらよいか、という疑問が湧き、大本営から来た高級将校にぶつけたところ、小さな声で“轢き殺せ”と言われたという。司馬氏は その言葉に衝撃を受けたのだそうだ。
その衝撃から、“日本人はどこからきたのであろう。”との 疑問が湧いてきたという。つまり、国軍は本来自国民を守るためのものだが、その自国民を“轢き殺せ”という発想が 日本の歴史のどの部分から派生して来るものなのか、という疑問への変化となったそうだ。その疑問を解く 旅が“街道をゆく”になったという。“街道をゆく”の第2回“湖西の安曇人”に この疑問への台詞がある。司馬氏の独特な語り口、冗長な文体を楽しみたい。
日本人はどこからきたのであろう。
という想像は、わが身のことだからいかにも楽しいが、しかし空しくもある。考古学と文化人類学がいかに進もうとも、それが数学的解答のように明快になるということはまずない。が、まだ学問としては若いといえる日本語中心の比較言語学の世界になると、今後英才が出てきて、大きなかぎをさぐりあてるかもしれない。
・・・・・・・・
「日本人はどこからきたのでしょうね」と、編集部のH氏がつぶやいたのも、どうせちゃんと答えがあるはずがないという物憂げな語調だった。しかしこの列島の谷間にボウフラのように涌いて出たのではあるまい。
・・・・・・
この連載は、道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅げるならばというかぼそい期待をもちながら歩いている。
・・・・・・
街道はなるほど空間的存在ではあるが、しかしひるがえって考えれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っているのである。(この一文は第3回“朽木渓谷”による。)
司馬氏の “歴史好き”が 疑問の方向を 日本の歴史に向けさせたのであろう。氏は少年時代 地図を見るのも好きだったという。特に 中央アジア、だからモンゴル語を外大で専攻したのか。“21世紀に生きる君たちへ”では 次のように述べている。
私は歴史小説を書いてきた。
もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。
歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」
と、答えることにしている。
私には、幸い、この世にすばらしい友人がいる。
歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは―もし君たちさえそう望むなら―おすそ分けしてあげたいほどである。
ただ、さびしく思うことがある。
私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、21世紀というものを見ることができないにちがいない。
君たちは、ちがう。
21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。
・・・・・・・
もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。
ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。
こういう司馬氏の精神的背景をビデオで見て居て、司馬氏はやっぱり良くも悪くも 20世紀の人であるとの感慨が 私に湧いて来た。それはあくまでも司馬氏への単純な印象として、やっぱり何となく その発想や 作品全体に “セピア色”を色濃く感じてしまうのだ。戦後世代から見たギャップかも知れないが、まさに それが、司馬遼太郎の風格である、と言うことなのだろう。
どうしてそう感じるのか。多分 今 私が もっとも関心を持っている環境問題、その背後にあるエネルギー問題や食糧・水の問題、その根本原因である地球人口の過剰の問題に 司馬氏が触れることが無かったからではないかと思うのだ。これらの問題は 司馬氏にとっては、“公害問題”であり“土地投機問題”であったのである。“地球人口の過剰の問題”の端緒は 確かに20世紀では “公害問題”であり“土地投機問題”であったし、それに対し司馬氏は敏感な作家としての微妙な不安感を表明してはいたようだ。しかし、それは “日本人”としての“日本社会”への局地的・限定的不安感ではなかったか。“地球人口の過剰問題”という“地球人”としてのより根本的不安感とは ならなかったのではないか、と思える。だが客観的には過剰人口問題こそ、21世紀現代人の不安感の根っこにある問題なのだ。ところが、司馬氏は過去を通して未来を見据える境地にまで、逢着しなかったのかもしれない。また、その気も なかったのかもしれない。
司馬氏が 亡くなったのは つい先日のような気がするのだが、それが 早くも歴史のかなたへ去りつつあるような印象を与えている。それほど、時代の変化は 早いのかもしれない。
その激し過ぎる変化からだろうか、司馬氏の熱狂的ファンの多くが高齢者のように思えるのは、20世紀ノスタルジーへの共感からではないか、と思い到って ようやく記念館を辞去したのだった。
司馬遼太郎記念館というのは、作家・司馬遼太郎氏の没後、ご遺族と篤志家の手によって司馬氏の私邸の一部に記念館を建設されたものであり、そこには 膨大な蔵書が保存されている。その蔵書の凄さに圧倒されに行って見るべきだと、知人に言われて驚いていたものだったが、残念ながら これまで行けないでいたのだ。その知人とは江戸っ子だが、長期投資銀行のバンカーで たまたま神戸で一緒になったことがあったが その後東京・雪谷に戻った教養あふれる人だ。
実は、私は 東大阪市の合併前の布施市で育った。この記念館も 実は この旧布施市内にあるので 特に親しみを覚える。というか、江戸っ子に言われたことが 片腹痛かったのだ。記念館のロケーションは 近鉄・奈良線の沿線で、さらに言えば河内にある。下に 記念館の近くにあった地域案内図を写真に示すが、この奈良線の 河内小阪駅と八戸ノ里駅の間にあり、どちらかというと八戸ノ里駅の方が近いし、分かり易い。
司馬氏は、旧制上之宮中学から、旧制大阪外国語学校(後の大阪外国語大学)に進んだのだが、実は これらの学校はいずれも、近鉄・奈良線の当時のターミナル上本町駅、通称ウエロク(上本町六丁目)の近くなのだ。恐らく司馬氏は 約10分の電車通学をしていたことになる。大阪外大は 大阪商人の個人寄付による設立であり、そこには大阪商人堅気があるし、ここからも司馬氏は生粋の大阪人だと知れる。
私は阪神・近鉄で記念館を目指した。電車が目指す駅に近付くと窓から南側に樟蔭女子大が 見えたが、ここに“田辺聖子文学館”の垂れ幕があった。そうか この辺りは意外にも関西の作家達のゆかりの地なのだとの感慨を持つ。私は近鉄大阪線の八尾に近い所で子供時代を過ごしたが、当時この小阪界隈には 特に文教地区的雰囲気があり、ある種あこがれのある所だった。
下の写真は 記念館南東側、八戸ノ里よりの市街の風景で、古い時代の農村の面影を残している。実は、昔 この辺りは 一面の水田と 所々に蓮池のある所だった。小学校時代 学校にプールが未だ無く、この辺りに市立のプール・センターが出来、授業の一環として学校から歩いて行ったことがある。田圃の中にポツンとあるプールが印象的だったが、今となっては 具体的にどこなのか、よく分からない。八戸ノ里市街地の真ん中の大きな公園と体育館のある所だろうか。
さて、私は 小阪駅で下車して記念館に向かうことにした。商店街を抜けて、公園にさしかかったところで、記念館の方向を指し示す矢印を見つけるが、建て込んだ細い昔のままの道に 不安を覚えつつ、引き続く矢印に、従い、歩をつなぐ。
そして ようやくたどり着いた記念館が 写真の右側で 周囲とは異色な緑の多い邸宅である。総敷地面積2,000㎡とあるから相当な大豪邸と言える。司馬氏はこの界隈の相当に裕福な家庭の出身であったと思われる。
入口・記念館の門では、ボランティアとおぼしき人に入場券の自動販売機に導かれる。気がつくとこの人達は複数居られ、熱烈な司馬ファンと思われる。この案内者によると戸外の写真撮影は可だが、館内は不可とのこと。当然のことなのだが圧巻の蔵書の様子の写真は 撮れないことに幾分がっかり。
庭に入ると、居宅だと思われる建物があり、さらに奥に行くと、書斎と思われる前に立つことができる。
若い頃読んだ 渡辺昇一氏の“知的生活の方法”に書斎の重要性が書かれていて、当時の私は大いに戸惑いを感じたものだが 成る程 これが“書斎”というものだ。そう思わせる雰囲気というより貫禄は十分にある。あの雪谷の粋人が言っていた通りである。
記念館は 安藤忠雄氏の設計である。あの大山崎山荘新館と言い、ここ最近の このような建物は ほとんど安藤氏の手になるものというのだろうか。
館内に入って 右手奥に進むと、まさに息を呑む超膨大な蔵書の壁が目に入る。建物外観は 高さがないが、少なくとも4~5mは地面の下へ掘り込まれていて、11m以上の高さが確保されていて蔵書が収納されている。だから下のフロアに降りれば 正に圧倒される。蔵書の数2万冊以上から それを観覧者が一気に見渡すのにどうするべきか考えた上での設計だったのだろう。本を取出すはしごというか移動階段が目立つ。だが、これで蔵書の全てなのだろうか、との疑念も湧く。
膨大な蔵書と 所縁の品々を見た後、順路の別の部屋で司馬氏の人となりを説明するビデオが 上映されていた。
それによると、司馬氏は陸軍戦車隊で終戦を迎えたそうだが、その直前 “本土決戦”を控えて覚悟を定めている時、彼はフト、避難してくる人々を避けつつ戦場に向かうにはどうしたらよいか、という疑問が湧き、大本営から来た高級将校にぶつけたところ、小さな声で“轢き殺せ”と言われたという。司馬氏は その言葉に衝撃を受けたのだそうだ。
その衝撃から、“日本人はどこからきたのであろう。”との 疑問が湧いてきたという。つまり、国軍は本来自国民を守るためのものだが、その自国民を“轢き殺せ”という発想が 日本の歴史のどの部分から派生して来るものなのか、という疑問への変化となったそうだ。その疑問を解く 旅が“街道をゆく”になったという。“街道をゆく”の第2回“湖西の安曇人”に この疑問への台詞がある。司馬氏の独特な語り口、冗長な文体を楽しみたい。
日本人はどこからきたのであろう。
という想像は、わが身のことだからいかにも楽しいが、しかし空しくもある。考古学と文化人類学がいかに進もうとも、それが数学的解答のように明快になるということはまずない。が、まだ学問としては若いといえる日本語中心の比較言語学の世界になると、今後英才が出てきて、大きなかぎをさぐりあてるかもしれない。
・・・・・・・・
「日本人はどこからきたのでしょうね」と、編集部のH氏がつぶやいたのも、どうせちゃんと答えがあるはずがないという物憂げな語調だった。しかしこの列島の谷間にボウフラのように涌いて出たのではあるまい。
・・・・・・
この連載は、道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅げるならばというかぼそい期待をもちながら歩いている。
・・・・・・
街道はなるほど空間的存在ではあるが、しかしひるがえって考えれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っているのである。(この一文は第3回“朽木渓谷”による。)
司馬氏の “歴史好き”が 疑問の方向を 日本の歴史に向けさせたのであろう。氏は少年時代 地図を見るのも好きだったという。特に 中央アジア、だからモンゴル語を外大で専攻したのか。“21世紀に生きる君たちへ”では 次のように述べている。
私は歴史小説を書いてきた。
もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。
歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」
と、答えることにしている。
私には、幸い、この世にすばらしい友人がいる。
歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは―もし君たちさえそう望むなら―おすそ分けしてあげたいほどである。
ただ、さびしく思うことがある。
私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、21世紀というものを見ることができないにちがいない。
君たちは、ちがう。
21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。
・・・・・・・
もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。
ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。
こういう司馬氏の精神的背景をビデオで見て居て、司馬氏はやっぱり良くも悪くも 20世紀の人であるとの感慨が 私に湧いて来た。それはあくまでも司馬氏への単純な印象として、やっぱり何となく その発想や 作品全体に “セピア色”を色濃く感じてしまうのだ。戦後世代から見たギャップかも知れないが、まさに それが、司馬遼太郎の風格である、と言うことなのだろう。
どうしてそう感じるのか。多分 今 私が もっとも関心を持っている環境問題、その背後にあるエネルギー問題や食糧・水の問題、その根本原因である地球人口の過剰の問題に 司馬氏が触れることが無かったからではないかと思うのだ。これらの問題は 司馬氏にとっては、“公害問題”であり“土地投機問題”であったのである。“地球人口の過剰の問題”の端緒は 確かに20世紀では “公害問題”であり“土地投機問題”であったし、それに対し司馬氏は敏感な作家としての微妙な不安感を表明してはいたようだ。しかし、それは “日本人”としての“日本社会”への局地的・限定的不安感ではなかったか。“地球人口の過剰問題”という“地球人”としてのより根本的不安感とは ならなかったのではないか、と思える。だが客観的には過剰人口問題こそ、21世紀現代人の不安感の根っこにある問題なのだ。ところが、司馬氏は過去を通して未来を見据える境地にまで、逢着しなかったのかもしれない。また、その気も なかったのかもしれない。
司馬氏が 亡くなったのは つい先日のような気がするのだが、それが 早くも歴史のかなたへ去りつつあるような印象を与えている。それほど、時代の変化は 早いのかもしれない。
その激し過ぎる変化からだろうか、司馬氏の熱狂的ファンの多くが高齢者のように思えるのは、20世紀ノスタルジーへの共感からではないか、と思い到って ようやく記念館を辞去したのだった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 菅首相の矛盾 | 角界の騒動 » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |