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本郷和人(著)“乱と変の日本史”を読んで

新型肺炎もアホアホ政権の危機管理能力の欠如が明らかになり、いよいよ本物のパンデミックと化してきた印象だ。通常、こういった非常事態には対策本部を設置して、対応政策を発する部署を一元化して、さらに刻々変化する事態と即応した対応策を毎日、あるいは12時間毎にブリーフィングして国民一般に説明して行くべきものだが、そうした態勢に全くなく、政府は何を考えているのか、さっぱり分からない状態に終始している。

例えば疑わしい症状の人々を、新型肺炎か否か判定するためのPCR検査を実施して早急に判定し、通常のインフルエンザか新型コロナかを見極めて必要に応じて隔離する作業が必要だったが、長い間疑わしくても湖北省との関係がなければ、検査は実施しないとの“湖北省しばり”の政令が優先されて来た。その間、中国本土では武漢・湖北省から飛び散った不顕性感染者の春節時に中国人が多数来日しているはずで、大勢の日本人が感染したことが疑われる。潜伏期を考慮すれば、今週あたりから国内感染者が多数発症すると思われていたが、どうやらその通りとなって来たのだ。
とにかく非常事態時には刻々と変化する状態の中で一体何が起きているのか、できる限り事実を把握するのが第一のはずだが、政府は何故かPCR検査能力には限りがあるとして、検査を実施しようとしていなかった。しかし、そのための検査装置も検査能力も実は特定の公的機関以外の民間機関にも結構あるというのが、事実のようである。また検査のための試薬も何万人分のものを生産し用意することが十分できるということのようだ。

こういう状況下で加藤厚労大臣がダイアモンド・プリンセス号乗船者全てにPCR検査を実施したいと表明したが、菅官房長官が検査能力には限りがあるとこれを否定したので、乗船者全てにPCR検査を実施するとの声は消えてしまった。本件に関し、この政権内で誰が最高責任と権限を持っているのか明確でないままずるずると事態は悪化していて、船内の“武漢化”が指摘されて結構時間が経つ。ついに米国から日本の対応に疑念が発せられる事態に至り、ようやく米国側が米国人を救出する動きに転じた。
該船は英国船籍なので、英国が主体的に動き日本政府に働きかけを行うのが本来のもののようだ。ならば建前でいえば日本政府はこの船の日本人乗船者を保護する動きだけをしてもかまわないもののようである。実に複雑だが、複雑であればそれだけ、建前で動くというのも考え方ではあるまいか。

とはいうものの乗船者への人権は確保されているとは言い難い。たとえば、“武漢化”した船内で乗船者にいきなり係官がやってきて“1時間以内に荷物をまとめて下船する準備をするように。”、しかもスーツケースの使用は不可、との指示を出すという。そして何処へ行くとも告げられずに、バスに乗せられて某所に隔離。これはあたかもナチスがユダヤ人を虐殺した時とほぼ同じ扱いではないのか。事前に何があって、どういう方針で何をするのか、一切の説明をしない。これでは基本的人権が守られているとは言えまい。とにかく、現政権の説明責任の希薄さが発揮されているが、これは世界常識として認められるものではあるまい。

先週末、国内で感染者が多数明らかになってきた。感染後の潜伏期を過ぎた、春節終了後2週間のちょうど今頃と符合する。十分に予測された事態だが、アホアホ政権の危機管理能力の欠如から、先手を打った対応策は一向に明らかになっていない。厚労大臣は、週末のテレビ番組に連日出演していた。いかにも暢気で悠長な印象ではないか。フェーズが変わったというのなら、それに応じて今後どうするのか直ちに表明するべきではないのか。それにもかかわらず、14日にフェーズが変わったとの認識の後、その対策会議を16日の夕刻に開催するというのはいかにも遅すぎる。このネット時代にテレビ会議は15日朝にでも開催できるものではないか。そもそもフェーズが変わるのは十分予測された事態だ。予め手はずを決めておくべきBCPではなかったか。これでは事態は悪化するばかりだ。

こうして国内感染者と発症者、重傷者さらに死者が今後どんどん増大する懸念が確実になってきた。こうなると高齢者をはじめ既往症を抱えた人や免疫力の低い体質の人々の健康管理が問題になる。そのための緊急の医療体制の構築が必要と識者は警告している。しかし、アホアホ政権の危機管理能力の欠如で、後手ゴテにまわってしまっている。
それにもかかわらず、憲法改正に当たって緊急事態対応条項の制定が必要だとの主張が漏れ聞こえて来るのは、どういう意図があるのか。


ところで、安倍首相は法学部出身。この法学部で“特別法は一般法に優先する”という法学の原則を修得し、理解しなかったのだろうか。検事長の定年延長にあたって、検察庁法を適用せずに“検察官も国家公務員で、国家公務員法が適用される。”と御断言の由。そして、これを閣議決定したとのこと。ならば特別法の存在意義はなくなる、否、そんな原則は無視して、時の政権にとって都合の良い方を閣議決定で選択できる、ということを示した。法の適用が無原則で恣意的であるのが、近代的法治国家であろうか。重大な問題だが、マスコミは新型肺炎ばかりに注目している。

その一方で、安倍氏の国会軽視の暴言が目立つ。こんな下品な首相がかつて居ただろうか。これもマスコミは大きく取り上げない。このままで良いのか?

まぁ兎に角、これまで“何かやってる感”ですべてをやり過ごして来たアホアホ政権の正体がその無能ぶりを発揮するだけなのだろう。それで世界の信用を大きく落とすことになるのだろう。かつて華々しく人口に膾炙したアホノミクスも何時の間にか、言われなくなった。果たして景気は良くなったのか。それを推進したブレーンの経済学者もフェード・アウトしている。取り残されたのは日銀ばかり。
それどころか、昨秋の消費税増税の経済へのダメージは結構大きいようだ。間もなく実態を示す数字が明らかになるという。その上に、この新型肺炎による中国を巡るサプライチェーンの寸断は相当な打撃になる気配がある。先週まで金融市場は現在方向感を失っているが、これに気付いた場合、暴落をもって反応するに違いない。中国初のコヴィット不況は目前ではないだろうか。

このように40%の人々が闇雲にアホアホ政権を支持したツケが回って来るのだ。曰く“(このアホアホ以外に)人は居ない”と分かったようなことを言って思考停止してきたのだ。
下手すればオリムピックの延期という前代未聞が起きないことを祈るばかりだ。そうなれば日本は原発事故以来の二番底を迎えることになる。危機管理の下手な日本、今後将来どうなることやら!


さて、先週は久しぶりに読書を終えたのでここで紹介したい。本郷和人(著)“乱と変の日本史”である。今を知るにはできる限り歴史を学ぶべきであろうか。この本の目次は次の通り。

序・乱と変から何がわかるか
第1章・平将門の乱
第2章・保元の乱、平治の乱
第3章・治承・寿永の乱
第4章・承久の乱
第5章・足利尊氏の反乱
第6章・観応の擾乱
第7章・明徳の乱
第8章・応仁の乱
第9章・本能寺の変
第10章・島原の乱
第11章・日本史における「勝者」の条件

ここで聞き慣れない“治承・寿永の乱”や“観応の擾乱”、“明徳の乱”とは何だろうか。“治承・寿永の乱”とは端的には“源平の合戦”を指している。
“観応の擾乱”は“南北朝の対立が絡んでややこしく見えますが、一言で言えば、観応元(1350)年から同3(1352)年に起きた室町幕府に起きた内部抗争”だと説明している。具体的には“最初に将軍・足利尊氏の執事(家宰)である高師直と、尊氏の弟で副将軍の直義が争い、師直が敗死。次に直義と尊氏が戦い、敗北した直義の死によって終わる”抗争事件のことだという。
“明徳の乱”は“明徳2(1391)年末、守護大名の山名氏清・満幸らが室町幕府に対し起こした反乱”であり、“この明徳の乱を読み解くと、「わかりにくい」と言われている応仁の乱を簡単に理解することができる”と著者は言う。
そして、最終章の“日本史における「勝者」の条件”は実は“西南戦争”を例に「勝者」の条件を示している。

この本に関して、私には意見、感想を差し挟む素養は全くなく、知ることばかりであった。なので、書かれていることを端的に紹介することにとどめたい。著者は最終章でこの本を総括して、次のように述べている。

“武士の時代700年間を俯瞰すると、次のようになります。
まず、天皇の下のひとつの権門と位置付けられていた武士が自立、東国に政権を打ち立てました。東国政権は京都の朝廷をも飲み込むのですが、関東や東北を切り離して小さめの国家を作ります。その後、政権争いに端を発した10年に及ぶ乱のあと、それはバラバラになりました。それらは全国的な争いののちに統一されるのですが、その過程で宗教勢力は排除され、武士はサラリーマン化していきます。そして、武士の手によって、武士の時代を終わらせた。“

そう、この本は日本史における武士の役割を総括したものだと、読み終える頃になってようやく気付いたという我ながらの間抜けに恥じるばかり。
この本の“はじめに”は次のように書きだしている。“日本史を概観すると、中世に乱と変が多い”それは、“中世が「武士の時代」”だったからで、“武士とは闘争することを表稼業”としていて、それが存在理由だったからであり、“彼らは話し合いによる、政治的解決はあまり得意ではありませんでしたから、戦いが多くなるのは当然のことでした。”
ここで気付くべき話、だった。

先の、この本の総括はこの本を読んでいれば良く分かるのだが、読んでいなければ少々分かりにくい。当然重要なので少々説明する。
“武士が自立、東国に政権を打ち立てた”は頼朝による鎌倉幕府成立を指す。“関東や東北を切り離して小さめの国家を作る”は鎌倉幕府や足利政権下での鎌倉公方や関東管領、或いは遡っての奥州藤原氏3代の繁栄を示すものであろうか。
“政権争いに端を発した10年に及ぶ乱”は勿論、応仁の乱。“端を発した政権争い”は目次で示した“観応の擾乱”や“明徳の乱”を指すのであろうと想像できる。
そして最後の“武士の時代を終わらせた武士”とは言わずと知れた“ラスト・サムライ”西郷隆盛のこと。従って、武士の時代が終わったのは、明治維新1868年ではなく西南戦争の終息1877年をもってと解釈している。

ここでこの本の一つの軸になっている、“権門体制論”と“東国国家論”についてこの本による説明を紹介する。
“権門体制論”は元阪大の黒田俊雄教授(故人)が唱えた議論で、中世日本にも国家が形成されており、天皇という王をトップに貴族(公家)、武士(武家)、僧侶・神官(寺家・社家)が輔翼する体制を言い、貴族は政治、武士は治安維持と軍事、僧侶・神官は祭祀祈祷を分担。公家、武家、寺家は各内部にある権門勢家を中心にまとまり、世襲原理で連なり、それらの経済基盤は荘園である、というもの。
“東国国家論”は東大や名古屋大を歴任した佐藤進一教授(故人)が唱えた議論で、京都の天皇を中心として貴族を束ねた政権と東国・鎌倉に武士を束ねた幕府将軍の政権があり、両者は並立していたというもの。
例えば、平清盛は当初は権門体制の中に居たが、これから脱しきれずに終わってしまい、源頼朝が東国国家の建設に成功したという言い方ができることになるのだろうと思う。日本史を概括する概念として知っておけば面白い。

そうそう、“将軍権力の二元論”も紹介されている。“将軍は、主従制的支配権(軍事)と統治権的支配権(政治)のふたつを保持していた”という議論。佐藤進一教授の提唱とのこと。足利政権下で“尊氏と(実弟の)直義の二頭政治を論証”、“軍事を担っていた尊氏から主従制的支配権、政治を担っていた直義の権力のあり方から統治権的支配権という言葉が生み出され、そのふたつが合わさって将軍権力が立ち現れる”というもの。これは徳川政権でも言えることのようだ。

当初、武士は文字も読めず承久の乱で上皇が北条泰時に発した院宣を読める武士が居らず、困ったことがあったとの吾妻鏡の一節を紹介している。その後、その武士達も様々に学び統治者として成長していく。そして“撫民の思想”にいたるのだが、その過程をつぶさに追うことがライフワークだといきなりこの本のどこかで、告白していたように思うのだが、それがどこに書いてあったのか捜し切れないでいる。もしかしてマボロシー?思い違い?

この本の冒頭に謎の言葉が紹介されている。“フランスの哲学者アレクサンドル・コジェーヴは「人間の歴史を学びたいのであれば、日本の歴史を学べ」と述べました。つまり、われわれは最高のテキストを持っているわけです。”この言葉、具体的にどういう意味なのか知りたいとは思うが、その根拠はこの本では示されていない。
またこの本では歴史や歴史学の機微が様々な箇所で紹介されており、やっぱり頭のいい人の話は面白い、がこの本を読んでの感想だ。

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