「いいかげんにせい!」
円光は、実力をもって平安貴族の注意を自分の方へ向け直させた。単なる威嚇の姿勢をやめ、完全に叩きのめす積もりの一撃を、貴族の鼻先に撃ち込んだのである。榊のような武道の達人でさえ、円光渾身の一撃を避けるのは難しい。まして麗夢に気を取られているすきである。一閃の瞬きも許さぬ錫杖に、はっと驚いた貴族が反射的に手で頭をかばった、と見えたその時だった。麗夢、そして円光の目の前で、突然平安貴族が真っ白に破裂した。
「そのような大振り、当たるはずが無かろう?」
「なにっ!」
円光の錫杖は、平安貴族の鼻面から紙一枚挟む隙間を余して、がっちりと空中に固定されていた。錫杖だけではない。満身の力を込めた円光の腕も、瞬速の踏み込みを見せた足も、全く同じく白い蔓のようなものが絡み付いてその動きを封じていた。
それは、なめらかな軟体動物のように脈打ちながら、更に円光を締め上げた。
先端が次々に枝分かれし、髪の毛ほどの細さになって奇怪に身をくねらせながら、先へ先へと絡み付く。
次第に円光は白い蔓に全身をからめとられながら、元いた場所まで押し戻された。平安貴族は、右袖からその蔓の群れを伸ばしながら、平然と麗夢に振り返った。
「飛んだ邪魔が入ったがもう安心じゃ。さ、参ろう」
麗夢は、思わず足を引いた。異常な恐怖などこれまで掃いて捨てるほど経験し、時に円光ですら舌を巻く豪胆さを発揮する麗夢が、この白面の化物に気圧されていた。この得体の知れぬ姿が、麗夢自身に眠る忘れられた深い記憶を呼び覚ましたのかもしれない。麗夢のひるみは傍らにいたアルファ、ベータにもはっきりと伝わった。いつにない主人の変調ぶりに困惑した二匹だったが、一歩、そして二歩と平安貴族の白い顔が迫るにつれて、持ち前の勇気を奮い起こした。二匹は全身の毛を逆立たせ、うなり声を上げて麗夢と貴族の間に立ちはだかった。
「ほう、姫君を護る霊獣か。しかし何という事じゃ。霊獣達まで我に逆らおうとは、末法の世とはかくも乱れるものか」
一しきりため息をついた貴族は、ゆっくりと左手を懐に入れた。
「その方等の姫君を守り奉らんとする心がけは殊勝じゃが、我にまで歯向かうのはちとおこなるふるまいよ。よいか、これよりはこの高雅が姫君をお守り仕るゆえ、安堵してそこをあけるが良い」
「高雅。貴方、高雅って言うのね!」
後退りながら、麗夢は思わず飛び出た相手の名前を連呼した。突然名を呼ばれた高雅は、今し方の失態に苦笑いし、懐から左手を出した。
「これは失言よの。思い出されるまで黙しておこうと思っておったのに、つい名乗ってしまったわ」
高雅の左手は、二枚の短冊を掴み出していた。表札ほどの大きさの紙には、朱と墨で何やら複雑な文様と文字が書き付けられている。高雅は軽く手首をひねってその二枚を二匹に投げた。短冊は、一瞬緊張して身を強ばらせた二匹の頭上にひらひらと舞った。
「危ない! アルファ、ベータ!」
辛うじて口だけを自由にした円光が叫んだ。だが、アルファ、ベータの意識が円光の注意を理解した時にはもう遅かった。その瞬間、蝶のごとく一種華麗に舞っていた短冊は、はっと気づいたアルファの爪とベータの牙を潜り抜け、すっと二匹の額へ吸い付いたのである。
「ぎゃんっ!」
「アルファ、ベータ!」
麗夢の叫びにも、二匹は答える事が出来なかった。まるで突然液体窒素の海に放りこまれたかのように全身が硬直し、爪一本、目蓋一つ動かす事も出来無いようになっていたからである。
「夢守の呪符よ。そうなっては絶対に動く事は出来ぬ」
「貴様! アルファ、ベータ、それに拙僧を放せ!」
「小煩き坊主かな。いっそねじ殺してくれようか?」
高雅の言葉とともに、一時動きを緩めていた白い蔓がまた一斉に蠢きだした。円光は首を左右に振ってなんとか蔓を逃れようと必死になったが、蔓の動きは急速で次々と円光の顔にかぶさってくる。円光はこれが最後と残りの全力を振り絞って麗夢に叫んだ。
「麗夢殿! こやつの右肩を銃で撃ちなさい! そこに奴の本体が・・・ぐわっ!」
円光の言葉はそこまでだった。最期の悲鳴は、締め付ける蔓の力に抗し切れなくなったためかもしれない。実際円光は高雅の言葉どおりまさにねじ殺されるのを待つばかりであった。円光の鋼の肉体はきしみを上げつつもその圧倒的な力に耐えていたが、それが限界に達するのももはや時間の問題であったろう。アルファ、ベータも硬直しただけではすまず、白目を剥き、口から泡を吹きつつあった。息が出来ないでいるのだ。麗夢は選択を迫られた。この、高雅と名乗る謎の平安貴族とともにれいむとしてついていくか、それとも意を決して戦うかである。普段の麗夢なら、そんな事を悩みもしなかっただろう。たちまち右手の銃が火を吹いて、轟音一発、円光が指摘した相手の右肩を撃ち抜いていたに違いない。だが、この時の麗夢は明らかにおかしかった。呑まれているというのだろうか。相手の発する気にわけもなく怯え、抗いがたい何かを感じていたのである。麗夢は、すでに白い繭のようになった円光と窒息寸前のアルファ、ベータをもう一度見回し、ごくり、と息を飲んで高雅に言った。
「判ったわ。おとなしくついて行くから、みんなを放して!」
「・・・」
円光の繭からくぐもった声が漏れた。恐らく、「麗夢殿!」とでも悲痛な叫びを上げたのであろう。それでも、いやそれ故に麗夢は決心を変えなかった。意を決してそれまでの後退を止め、怖ず怖ずと前に出た麗夢を、高雅は歓喜の声で迎えた。
「おお! ようやくお聞きわけくだされたか。それでは参ろうぞ、れいむ殿」
高雅は真っ黒な口を見せつけるように唇を大きく釣り上げ、細い目をますます細くして、懐からまた一枚の短冊を出した。その短冊が音もなく飛翔し、麗夢の額に張り付いた時、麗夢の意識は暗転した。
円光は、実力をもって平安貴族の注意を自分の方へ向け直させた。単なる威嚇の姿勢をやめ、完全に叩きのめす積もりの一撃を、貴族の鼻先に撃ち込んだのである。榊のような武道の達人でさえ、円光渾身の一撃を避けるのは難しい。まして麗夢に気を取られているすきである。一閃の瞬きも許さぬ錫杖に、はっと驚いた貴族が反射的に手で頭をかばった、と見えたその時だった。麗夢、そして円光の目の前で、突然平安貴族が真っ白に破裂した。
「そのような大振り、当たるはずが無かろう?」
「なにっ!」
円光の錫杖は、平安貴族の鼻面から紙一枚挟む隙間を余して、がっちりと空中に固定されていた。錫杖だけではない。満身の力を込めた円光の腕も、瞬速の踏み込みを見せた足も、全く同じく白い蔓のようなものが絡み付いてその動きを封じていた。
それは、なめらかな軟体動物のように脈打ちながら、更に円光を締め上げた。
先端が次々に枝分かれし、髪の毛ほどの細さになって奇怪に身をくねらせながら、先へ先へと絡み付く。
次第に円光は白い蔓に全身をからめとられながら、元いた場所まで押し戻された。平安貴族は、右袖からその蔓の群れを伸ばしながら、平然と麗夢に振り返った。
「飛んだ邪魔が入ったがもう安心じゃ。さ、参ろう」
麗夢は、思わず足を引いた。異常な恐怖などこれまで掃いて捨てるほど経験し、時に円光ですら舌を巻く豪胆さを発揮する麗夢が、この白面の化物に気圧されていた。この得体の知れぬ姿が、麗夢自身に眠る忘れられた深い記憶を呼び覚ましたのかもしれない。麗夢のひるみは傍らにいたアルファ、ベータにもはっきりと伝わった。いつにない主人の変調ぶりに困惑した二匹だったが、一歩、そして二歩と平安貴族の白い顔が迫るにつれて、持ち前の勇気を奮い起こした。二匹は全身の毛を逆立たせ、うなり声を上げて麗夢と貴族の間に立ちはだかった。
「ほう、姫君を護る霊獣か。しかし何という事じゃ。霊獣達まで我に逆らおうとは、末法の世とはかくも乱れるものか」
一しきりため息をついた貴族は、ゆっくりと左手を懐に入れた。
「その方等の姫君を守り奉らんとする心がけは殊勝じゃが、我にまで歯向かうのはちとおこなるふるまいよ。よいか、これよりはこの高雅が姫君をお守り仕るゆえ、安堵してそこをあけるが良い」
「高雅。貴方、高雅って言うのね!」
後退りながら、麗夢は思わず飛び出た相手の名前を連呼した。突然名を呼ばれた高雅は、今し方の失態に苦笑いし、懐から左手を出した。
「これは失言よの。思い出されるまで黙しておこうと思っておったのに、つい名乗ってしまったわ」
高雅の左手は、二枚の短冊を掴み出していた。表札ほどの大きさの紙には、朱と墨で何やら複雑な文様と文字が書き付けられている。高雅は軽く手首をひねってその二枚を二匹に投げた。短冊は、一瞬緊張して身を強ばらせた二匹の頭上にひらひらと舞った。
「危ない! アルファ、ベータ!」
辛うじて口だけを自由にした円光が叫んだ。だが、アルファ、ベータの意識が円光の注意を理解した時にはもう遅かった。その瞬間、蝶のごとく一種華麗に舞っていた短冊は、はっと気づいたアルファの爪とベータの牙を潜り抜け、すっと二匹の額へ吸い付いたのである。
「ぎゃんっ!」
「アルファ、ベータ!」
麗夢の叫びにも、二匹は答える事が出来なかった。まるで突然液体窒素の海に放りこまれたかのように全身が硬直し、爪一本、目蓋一つ動かす事も出来無いようになっていたからである。
「夢守の呪符よ。そうなっては絶対に動く事は出来ぬ」
「貴様! アルファ、ベータ、それに拙僧を放せ!」
「小煩き坊主かな。いっそねじ殺してくれようか?」
高雅の言葉とともに、一時動きを緩めていた白い蔓がまた一斉に蠢きだした。円光は首を左右に振ってなんとか蔓を逃れようと必死になったが、蔓の動きは急速で次々と円光の顔にかぶさってくる。円光はこれが最後と残りの全力を振り絞って麗夢に叫んだ。
「麗夢殿! こやつの右肩を銃で撃ちなさい! そこに奴の本体が・・・ぐわっ!」
円光の言葉はそこまでだった。最期の悲鳴は、締め付ける蔓の力に抗し切れなくなったためかもしれない。実際円光は高雅の言葉どおりまさにねじ殺されるのを待つばかりであった。円光の鋼の肉体はきしみを上げつつもその圧倒的な力に耐えていたが、それが限界に達するのももはや時間の問題であったろう。アルファ、ベータも硬直しただけではすまず、白目を剥き、口から泡を吹きつつあった。息が出来ないでいるのだ。麗夢は選択を迫られた。この、高雅と名乗る謎の平安貴族とともにれいむとしてついていくか、それとも意を決して戦うかである。普段の麗夢なら、そんな事を悩みもしなかっただろう。たちまち右手の銃が火を吹いて、轟音一発、円光が指摘した相手の右肩を撃ち抜いていたに違いない。だが、この時の麗夢は明らかにおかしかった。呑まれているというのだろうか。相手の発する気にわけもなく怯え、抗いがたい何かを感じていたのである。麗夢は、すでに白い繭のようになった円光と窒息寸前のアルファ、ベータをもう一度見回し、ごくり、と息を飲んで高雅に言った。
「判ったわ。おとなしくついて行くから、みんなを放して!」
「・・・」
円光の繭からくぐもった声が漏れた。恐らく、「麗夢殿!」とでも悲痛な叫びを上げたのであろう。それでも、いやそれ故に麗夢は決心を変えなかった。意を決してそれまでの後退を止め、怖ず怖ずと前に出た麗夢を、高雅は歓喜の声で迎えた。
「おお! ようやくお聞きわけくだされたか。それでは参ろうぞ、れいむ殿」
高雅は真っ黒な口を見せつけるように唇を大きく釣り上げ、細い目をますます細くして、懐からまた一枚の短冊を出した。その短冊が音もなく飛翔し、麗夢の額に張り付いた時、麗夢の意識は暗転した。
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