峠の険峻は行き同様に榊一行を苦しめたが、晴天にまだ星のきらめきが残るうちから動き出した精鋭の前では、その背を灼いてへたりこませようとした太陽も、敗北を認めざるを得なかった。頂上の涼風に生き返る心地したのがついこの間のことであったのに、今、榊等の間を吹き抜ける風は、汗ばんだ肌にやもすると寒気を憶えさせる質のものに変わりつつあった。
(もう秋だな)
榊は、その風に故郷の田畑を思い浮かべた。
(帰ったら、さっそく稲刈りの準備を進めなくてはならぬ)
榊は、故郷へと流れていく雲を眺めつつ、あれこれ思い出すようにこの数日の不思議な激闘を反芻した。結界、死者をよみがえらせる秘術、化け物を生んだ奇怪な遺産、そして夢守。榊はあの夜悪夢から自分を救ってくれたのは貴女だったのだな、と麗夢に礼を言ったが、今となってはそれ自体が夢のように思えないこともない。
あれから麗夢は悲しさを忘れるためか、一段と積極的に結界を作るのに躍起になった。鬼童、円光も手を貸したが、榊としては特に何をするでもなく、てきぱき動く三人を黙って見ていただけである。それでも作業を終えた三人は、榊との別れを惜しみ、揃って榊の出立を見送った。最後に榊は、一同を見回して言葉をかけた。
「ではこれにて我らは鎌倉に帰るが、皆さんはこれからいかがなされる?」
鎌倉まで同道なされるなら、歓迎するがとの榊の言葉に、円光と鬼童は目を合わせて麗夢を見た。麗夢は言った。
「私は、ここで智盛様の後生を弔い、再び悪夢が目覚めないように見守ることに致します」
そうですか、と名残惜しげに榊が呟くと、私もこれでお別れです、と言いながら、鬼童が満を持した笑顔を浮かべて、一つの包みを差し出した。きょとん、として受け取った麗夢は、促す鬼童につられて包みを解いた。その中から現れたのは、二尺ばかりの大きさの、十二単もあでやかな一体の人形であった。
「これは・・・」
「夢見人形と名付けました。貴女の気を込めれば、未来永劫、智盛卿を見守る礎となりましょう」
鬼童は少しばかり顔を赤らめながら、麗夢に言った。
「麗夢殿にそっくりだな。しかし、いつこれを?」
鬼童のはにかみに新鮮な驚きを覚えながら、榊は問うた。
「ええ、暇を見て少しづつ。最も、こういう使い方をする予定ではなかったのですが・・・」
では一体どういう積もりで、と円光は聞いてみたかったが、それよりも、良くあの忙しさの中で、あのように器用に、という驚きの方が大きかった。
「鬼童殿には随分驚かされ申したが、まさかそのような技までお持ちとは」
改めて深々とおじぎをする麗夢と、かえって恐縮する鬼童を眺めながら、明らかに虚を突かれた円光は、ほろ苦い想いを感じずにはいられなかった。何か対抗できるものを用意したい。そんな円光の秘めた心は、やがて一つのものを形づくった。
「では拙僧は、結界の大岩に麗夢殿の姿を写し取ろう」
「御坊は、絵をお描きになるのか!」
鬼童の驚きに少しばかり面目躍如した円光は、さりげない風に、まだ寺にいた頃、仏の姿を好んで写し取っていたことを鬼童に告げた。鬼童は、是非見たいものだと言い出して、先程の「お別れです」をあっさりと反古にした。その滑稽な物言いに皆は久しぶりに笑ったが、ひとしきり笑った榊は、名残惜しさを振り切って、では、お別れだと三人に告げた。
「麗夢さん、何かあったら鎌倉の私の元に知らせて下さるといい。出来る限りの助力をさせていただく故」
対して麗夢は頭を垂れたが、ごめん、と立ち去ろうとする榊の足を留めて言った。
「皆さん、夢守の首を使わずに作った結界は、いずれ時古びれば自然と破れましょう。今からこの様なことを申し上げるのも気の早い話ですが、もしその時が来たら、また力をお貸し下さいね」
「勿論! いつでも、何処にいようとも意の一番にはせ参ずる!」
「私こそ、何を差し置いても参上つかまつる!」
いや私が先だ、いや僭越ながら拙僧の方が早い、と延々続ける二人にあきれつつ、榊はそれはいつ頃のことかと問い返した。麗夢はしばし宙を見つめて考えていたが、やがて息を飲んで麗夢の言葉を待つ二人に、こう答えた。
「そうですね。およそ、八百年ほど後のことでしょうか?」
「八百年?!」
榊はその時自分がどれほど目を丸くして驚いたかは棚に上げて、円光、鬼童が同時にして見せたそっくりな表情を一生忘れることはあるまいと、一人笑いを抑えるのに苦労した。だが、その八百年後の手助けには、自分も人数に入っているのである。
「八百年か・・・」
「え、何かおっしゃいましたか?」
そばにいた佐々木源太が、榊の独り言を聞きとがめた。いやなんでもないと手を振った榊は、少し怪訝な顔をして向こうの郎党達の輪に去っていく若者の背を眺めながら、何故この男にはあの記憶がないのだろうかと不思議の思いが拭えなかった。佐々木だけではない。ここに集う百人ことごとくが、誰一人として夢隠しの郷で遭遇した不思議な出来事を全く記憶していないのである。彼等は炎天下、ほとんどいる可能性のない平智盛を捜して当てもなく山中をさまよったことしか憶えていなかった。八条大夫の運命など、無理と無茶を重ねた挙げ句の病死という記憶が刷り込まれているのである。勿論そこには、狂える探求者崇海のことも、美しい夢守、麗夢のことも、鬼童、円光のことすら欠落しているのだった。出立前にその事実に気づいた榊は、何人もの郎党を捕まえては執拗にその事実を問い正し、気味悪がられる代償に、自分が選ばれた一人であるということを、改めて認識することになった。
「八百年、か。」
榊はもう一度口の中でその言葉をじっくりかみしめると、悩みを吹っ切るように一声高らかに宣下した。
「出立だ! 鎌倉に帰るぞ!」
懐かしき、鎌倉の名に鼓舞されて、漲る闘志も溌剌と、百人の武士達が動き出す。それは、戦いに明け暮れる男達にとって、ごくありふれた日常の一景であった。
終わり
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