学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

ツルの寒ざらし(その2)

2016-02-01 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月 1日(月)10時43分2秒

続きです。(p670以下)

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神官との宗教問答

 その娘ツルは、長州萩で、ひどい寒晒しをうけたので後年までの語り草になった。「旅に行ったところで、どこより取り扱いがやさしかったのは薩摩で、もっともひどかったのが長州萩であった。これは旅から帰ってから、皆が体験を語りあった結果わかった」と、相川忠右衛門老人が私に語ったことがある。その萩に流された三百名のうち、ツル、スヰ、ゲン、喜代松らはもっともひどい拷問をうけた人々であった。
 明治二年、二十二歳だったツルは、十八日間役人から毎日毎日御用に呼び出された。
「お主はどれほど説き聞かせてもわからぬ奴じゃ。草でも喰え」「私はケモノではありません。草は喰べえません」「お主は日本人ではない。日本にできた着物を着ることはゆるさぬ。脱げ」「これは私がつくった着物です。脱げません」「唐にでも飛んでゆけ。日本の土を踏むな」「私は鳥ではないので飛べません。遣ってくだされば唐の国でもどこにでもゆきます」。
 こんなくだらない言い合いをした後、一週間全く食物を与えない。
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ということで、乏しい食料を同室の人に分けてもらうのを心苦しいと思っていたところ、 一週間後、今度は神官に呼び出されます。
神官は食物を一週間与えた後、

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「近頃お主は御飯を食べているか、天皇さまのご慈悲がわかったか」「わかりました」「わかったら、宗旨のこともお任せなさい」「食べても食べないでも、天皇さまのご慈悲はわかっています。しかし他のことなら別ですが、宗旨のことだけはしたがいません。【中略】
「どんなことがあってもお任せはいたしません。生命はささげてきています。何とでもなさってください。責められて気が遠くなり、お任せすると口を滑らすかもしれませんが、正気づいたら、きっと取り消します」
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といったやり取りの後、神官は「それではこれからお主を倒して見せる。お主を倒さねば他の人の改宗のさまたげになる。わしとお主との勝負だ。その通り思え」と告げると、翌日から腰巻一枚の裸で、冬のさなか、外庭の石の上に朝から晩まで座るように強制します。
夕方になると裸のまま室に帰すも、翌朝はまた寒晒しで、

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 一週間目には、目も口も開けぬほどの大雪となった。ツルもいよいよ死を覚悟した。一心にスピリツ・サント(聖霊)のお助けを祈った。しかし五体がガタガタふるえてことばにもならない。【中略】
 同室の婦人たちは、ツルのためにオラショを誦えて、神の助けを求めようとしたが、先立つものは涙で、声を出しうるものがない。やっとの思いでオラショを一区切り終わり、外庭に目をやるとツルの姿が見えない。いよいよ凌ぎ通すことができず改心者の部屋につれて行かれたのか、とがっかりしてよく見ると、黒い髪の毛が白雪の上に見えるではないか。雪に埋もれてしまったのである。
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ということで、夕方まで雪に埋もれ、死にそうになったツルを見て、とうとう役人が根負けして部屋に入れて暖めてやり、この日を最後に女性への拷問は行われなかったのだそうです。

「萩カトリック教会」のサイトに「萩殉教者記念公園」内の「奉敬致死之信士於天主之尊前」と書かれた石碑の写真が掲載されていて、そこに

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22才になったツルは腰しまき一枚にされて冬の戸外の石の上に正座させられ、一日中食事を与えられなかった、冬のこととて六日目に大雪が降った。ツルの姿が見えない。降り積もった雪で一面真っ白、その上に黒い物のがある、良く見るとツルの頭髪だったと、後世の老人たちは語り伝えている。
1873年(明治6年)禁制が解かれた。その間30人以上の人が殉教されたのである。

http://hagicat.net/%E6%AE%89%E6%95%99%E3%81%AE%E8%A1%97%E8%90%A9/%E6%AE%89%E6%95%99%E3%81%AE%E8%A1%97%E3%80%81%E8%90%A9

という解説が出ていますが、これだけ読んだ人はツルは死んでしまったと思うはずですね。
しかし、ツルは何とか生き残り、

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 明治六年帰郷してから、ツルは岩永マキが創立した十字会に入って孤児の養育と自己修養に励み、鯛の浦(南松浦郡)、神浦(西彼杵郡)などで働いてから、大正十四年十二月、浦上の十字会で逝去した。享年七十八歳(寒晒しの模様については浦川和三郎司教「旅の話」による)。
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とのことです。(p674)
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ツルの寒ざらし(その1)

2016-02-01 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月 1日(月)09時09分28秒

片岡弥吉(元・純心女子短期大学副学長、1908-80)の『日本キリシタン殉教死』(時事通信社、1979)は四部構成、全七百ページの大著ですが、「Ⅰ 布教と発展」に早くも秀吉の弾圧と「日本二十六聖人殉教」が登場し、「Ⅱ 殉教と潜伏」・「Ⅲ 試練と信仰」ではひたすら殉教の話が続きます。
そして「Ⅳ 復活と再弾圧」は幕末・明治維新期を扱いますが、その内容は、

1 パリ外国宣教会
2 信徒発見─キリシタンの復活
3 浦上四番崩れ
4 明治政府の浦上処分
5 "旅"─一村総流罪の悲劇
6 公使団の警告と政府の反発
7 "旅"の話─信仰を貫いたキリシタン
8 政府、外圧で実情調査実施
9 近代日本の夜明け─弾圧停止

となっていて、「7 "旅"の話─信仰を貫いたキリシタン」に「ツルの"寒ざらし"」という話が出てきます。
ここに登場するツルという女性は「カルタゴのヴィクトリア」を彷彿とさせますね。(p669以下)

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清四郎とツル

 本原郷山中の清四郎一家は、家族離散のはなはだしい例の一つである。家頭清四郎は明治元年六月、津和野に流され、二年二月十八日殉教した。五十五歳であった。清四郎の子光蔵と娘ツルは萩に流された。母ミツと娘ハツは、どこに流されたのであろうか。津和野藩の異宗徒人員帳には居所知れず、とある。
 津和野に流されてから九ヵ月目、仙右衛門らが氷の池に投げ込まれるような拷問をうけていたころ、清四郎は牢屋で病気に苦しんでいた。一八六七年(慶応三年)小島牢、桜町牢でひどい拷問をうけた体が本復しないのに、またこの異郷で寒さと飢餓に悩まされた上、赤痢にかかっていたのである。

「苦しみを天主にささげて気強く耐え忍ぶようにと仙右衛門が励ますと『あまり苦しいので思わず声が出るのじゃが、心では決してそれを忘れておらぬ。生命を天主さまに献げている』と答えた。後では、よく自制して、うなり声一つ出さなくなった。仙右衛門ら十一人が福羽美静に呼び出されたとき、自分だけ彼の前で信仰を公表できないのが残念だと口惜しがった。しかし、十一人が信仰をひるがえさないで帰って来たのを見て大いに喜んだ。
 死の前夜、一同枕頭に集まって彼のために祈った。清四郎も一緒に祈っていたが、祈り終わるや一同に向かい『私はやがてパライツ(天国)にゆく。行ったら、天主さまにお願いして、十一人ひとり残らず、天主さまのみ側に引き取っていただくから、それを頼りにして辛抱しなされ』と言った」

と、浦川和三郎司教の「旅の話」(浦上切支丹史)には記されている。
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福羽美静(1831-1907)は神仏分離・廃仏毀釈の過程で特別な存在だった津和野藩の国学者ですが、自ら津和野に流されたキリシタンの取調べをやっていたんですね。

松岡正剛氏の悲憤慷慨(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a80fe944a26ac2247dabaf7b3eadd7a

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