続きです。(p670以下)
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神官との宗教問答
その娘ツルは、長州萩で、ひどい寒晒しをうけたので後年までの語り草になった。「旅に行ったところで、どこより取り扱いがやさしかったのは薩摩で、もっともひどかったのが長州萩であった。これは旅から帰ってから、皆が体験を語りあった結果わかった」と、相川忠右衛門老人が私に語ったことがある。その萩に流された三百名のうち、ツル、スヰ、ゲン、喜代松らはもっともひどい拷問をうけた人々であった。
明治二年、二十二歳だったツルは、十八日間役人から毎日毎日御用に呼び出された。
「お主はどれほど説き聞かせてもわからぬ奴じゃ。草でも喰え」「私はケモノではありません。草は喰べえません」「お主は日本人ではない。日本にできた着物を着ることはゆるさぬ。脱げ」「これは私がつくった着物です。脱げません」「唐にでも飛んでゆけ。日本の土を踏むな」「私は鳥ではないので飛べません。遣ってくだされば唐の国でもどこにでもゆきます」。
こんなくだらない言い合いをした後、一週間全く食物を与えない。
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ということで、乏しい食料を同室の人に分けてもらうのを心苦しいと思っていたところ、 一週間後、今度は神官に呼び出されます。
神官は食物を一週間与えた後、
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「近頃お主は御飯を食べているか、天皇さまのご慈悲がわかったか」「わかりました」「わかったら、宗旨のこともお任せなさい」「食べても食べないでも、天皇さまのご慈悲はわかっています。しかし他のことなら別ですが、宗旨のことだけはしたがいません。【中略】
「どんなことがあってもお任せはいたしません。生命はささげてきています。何とでもなさってください。責められて気が遠くなり、お任せすると口を滑らすかもしれませんが、正気づいたら、きっと取り消します」
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といったやり取りの後、神官は「それではこれからお主を倒して見せる。お主を倒さねば他の人の改宗のさまたげになる。わしとお主との勝負だ。その通り思え」と告げると、翌日から腰巻一枚の裸で、冬のさなか、外庭の石の上に朝から晩まで座るように強制します。
夕方になると裸のまま室に帰すも、翌朝はまた寒晒しで、
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一週間目には、目も口も開けぬほどの大雪となった。ツルもいよいよ死を覚悟した。一心にスピリツ・サント(聖霊)のお助けを祈った。しかし五体がガタガタふるえてことばにもならない。【中略】
同室の婦人たちは、ツルのためにオラショを誦えて、神の助けを求めようとしたが、先立つものは涙で、声を出しうるものがない。やっとの思いでオラショを一区切り終わり、外庭に目をやるとツルの姿が見えない。いよいよ凌ぎ通すことができず改心者の部屋につれて行かれたのか、とがっかりしてよく見ると、黒い髪の毛が白雪の上に見えるではないか。雪に埋もれてしまったのである。
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ということで、夕方まで雪に埋もれ、死にそうになったツルを見て、とうとう役人が根負けして部屋に入れて暖めてやり、この日を最後に女性への拷問は行われなかったのだそうです。
「萩カトリック教会」のサイトに「萩殉教者記念公園」内の「奉敬致死之信士於天主之尊前」と書かれた石碑の写真が掲載されていて、そこに
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22才になったツルは腰しまき一枚にされて冬の戸外の石の上に正座させられ、一日中食事を与えられなかった、冬のこととて六日目に大雪が降った。ツルの姿が見えない。降り積もった雪で一面真っ白、その上に黒い物のがある、良く見るとツルの頭髪だったと、後世の老人たちは語り伝えている。
1873年(明治6年)禁制が解かれた。その間30人以上の人が殉教されたのである。
http://hagicat.net/%E6%AE%89%E6%95%99%E3%81%AE%E8%A1%97%E8%90%A9/%E6%AE%89%E6%95%99%E3%81%AE%E8%A1%97%E3%80%81%E8%90%A9
という解説が出ていますが、これだけ読んだ人はツルは死んでしまったと思うはずですね。
しかし、ツルは何とか生き残り、
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明治六年帰郷してから、ツルは岩永マキが創立した十字会に入って孤児の養育と自己修養に励み、鯛の浦(南松浦郡)、神浦(西彼杵郡)などで働いてから、大正十四年十二月、浦上の十字会で逝去した。享年七十八歳(寒晒しの模様については浦川和三郎司教「旅の話」による)。
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とのことです。(p674)