学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「有耶無耶の間に自然消滅になりました」 (by 岡田重家氏)

2016-02-22 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月22日(月)12時15分7秒

「伯爵前田利同氏の家扶」の「岡田重家氏談」、続きです。

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 かくして翌年三四月頃に至りますと、僧侶の中からも苦情を申出ますし、本山からも種々交渉があり、太政官からも穏当に処置するやうにとの交渉がありました、元来当藩は他藩に比して過激であつたのです、当藩でも稍々之を自覚して居つたものですから、以前廃毀した堂宇を没収した地所の、旧藩士に下されたものは、再び還す訳には行きませんでしたが、その代りに他に相当の地面を下附し、一旦破壊せられた寺院は、再び建立せらるゝ事となり、急遽帰農帰商した僧侶も、復た僧籍に入るやうになり、寺院合併の令は、茲に解放の観を呈し、仏教は漸く復興するに至りました、
 かくて四年七月十四日廃藩置県となり、利同氏は東上して大学南校に入り、六年に洋行し、五年三月三府七十二県の制定と共に、新川県が出来て、旧藩の事務は県知事の引継となり、是に於て藩政の革新も、兵備の拡充も用ないことゝなり、随つて寺院合併の挙も、有耶無耶の間に自然消滅になりました、
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これで談話の部分は終わりです。
岡田重家氏からの聞き取りは何時行われたのか、日付は書いてないのですが、この後で、<記者曰はく、富山藩の寺院合併の状況等に就いて、左に「越中史料」に依り、当時の文書を附記せん>として「海秀閣合寺規則」と「富山市沿革志」を転載し、最後に「(明治四十五年四月八日発行仏教史学第二編一号所載)」とあるので、仮に明治45年(1912)だとすれば合寺令布達の43年後ですね。
岡田重家氏の語る合寺令の内容は、必ずしも記録に残る合寺令の内容とは一致しないので、あるいは若干の記憶の混乱があるのかもしれません。
また、「寺院合併の令は、茲に解放の観を呈し、仏教は漸く復興するに至りました」と書いた後で廃藩置県の話になるので、このあたりも安丸良夫氏のような研究者の書き方とはずいぶん違います。
興味深いのは前回投稿で引用した「代々武庫に蔵めてあつた古い武具なども、藩士の守旧思想を破壊して、進取の志気を鼓舞せん為めに、甲冑を除く外は、総べて神通川の半島河原と云ふ地に取出しまして、焼いて仕舞ひました、鎧などは金ばかり取残して、皆焼払いました」という部分で、このような話は浄土真宗側の記録・主張には出てきませんが、武士にとっては相当強烈な、廃仏毀釈よりむしろこちらの方がよっぽど時代の変化を痛感させられた驚天動地の出来事なのかもしれません。

>筆綾丸さん
譴責されたのは富山藩だけで、東本願寺には富山藩に対してこういう指示を出したぞ、と連絡しただけだと思います。
西本願寺に言及していないのは、おそらく参照した史料(「旧富山藩管内寺院合併諸達等」)が東派のものだからで、実際には西本願寺にも同様の連絡が行っているはずですね。

「すこぶる下情怨屈のおもむきあい聞こえ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7290be1432b841907da85c976fc0f9a5

>佐田介石
佐田が合寺令に関して本山に送った報告書があるので、後で少し紹介します。
対応をめぐって大洲鉄然・島地黙雷とは対立したそうです。
晩年は西本願寺からも離脱し、奇人で鳴らした人みたいですね。

>マサムネ・東・ぽ~るじゃんさん
昨日は投稿した後、掲示板を見直さずにそのまま外出してしまったので、「拝復」を無視したような形になってしまってすみません。

※マサムネ・東・ぽ~るじゃんさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

拝復 2016/02/21(日) 09:14:15(マサムネ・東・ぽ~るじゃんさん)
>「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について」
去年の大晦日までは確かにあったのですが、正月三日に見たら無くなっていて、So-net に削除されたみたいですね。

残念ですね。御労作を別の様式でも拝読する機会を楽しみに致しております。
元より論考に浅い吾人の見解については、日を改めたく存じます。

Umberto Eco è morto 2016/02/21(日) 10:26:16(筆綾丸さん)
小太郎さん
「すこぶる下情怨屈のおもむきあい聞こえ」(2月13日)の所で興味深いのは、「真宗西派佐田介石・同東派松本厳護が富山に派遣され藩庁と掛け合」った結果、富山藩と東本願寺は太政官に譴責されたけれども、西本願寺への叱責はなかったのか、ということですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%94%B0%E4%BB%8B%E7%9F%B3
真宗西派佐田介石は面白い人ですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E5%AF%BA_(%E4%B8%8B%E4%BA%AC%E5%8C%BA)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E8%A6%9A
京都常楽台は、親鸞の玄孫の存覚が開基なんですね。「台」の字は寺院としては珍しいと思いますが、存覚への敬慕の念を含意するのでしょうね。

http://www.repubblica.it/cultura/2016/02/20/news/morto_lo_scrittore_umberto_eco-133816061/?ref=HREA-1
ところどころ拾い読みしてみましたが、草臥れました。

追記
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000001082_all.html
「怠け蟻」とは、この話のことですか。
人間社会においてアリの研究をしている人の「反応閾値」はどうなんだ、という問題が出てきますね。アリやゾウムシの研究者がいるので人間社会は長く存続できるということを、ファーブルは立証したかったわけではないでしょうね、たぶん。
アリの天敵がアリのコロニーを総攻撃するような状況のとき(動機は不明で、反自然な仮定ですが)、「反応閾値」が高く「働かない」アリが存在するかどうか、実験してほしいと思います(残酷ですが)。そんな極限状態でもなお、「働かない」アリの存在を立証できれば面白い。つまり、仲間たちがバタバタ死んでゆくのを冷静に眺め、天敵がコロニーの全滅を確信して去るのを我慢強く待ち続けるようなクールなアリ。至上命題は、弱虫め、卑怯者め、とどんなに罵られようが、たとえ一匹になろうとも生き残るということのみで、あとは何もない。一匹ではコロニーを維持できないが、それは別問題で、ハムレット的な悩みは起こらない。・・・・・・

コメント
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「藩士の守旧思想を破壊して、進取の志気を鼓舞せん為めに」 (by 岡田重家氏)

2016-02-22 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月22日(月)11時23分13秒

浄土真宗の側から合寺令がどのように見えたかは充分すぎるほど紹介しましたので、ここで富山藩側に視点を移したいと思います。
参考になるのは『明治維新神仏分離史料』上巻に出ている「富山藩の寺院合併 岡田重家氏談」です。(p785以下)
冒頭に「氏は旧富山藩主なる伯爵前田利同氏の家扶なり、明治三年同藩寺院併合の挙を目撃し、その事情を熟知せらる」とあります。

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 旧富山藩では、水戸藩の廃仏に倣ひ、主として藩政の刷新、兵備の拡充の為めに、廃仏の挙を実行しました、
 当藩主前田利同氏は、明治二年藩知事となられましたが、十五六歳の幼年でありましたから、大小の政務は、大参事林太仲氏によりて決せられました、三年十月に至り、藩令を発して、僧侶の帰俗を望む者は、之を聴許し、寺町(今の梅沢町)にて、一宗一個寺を残す外、一藩の寺院全数を廃毀することを達しました、即ち合寺の令を発したのです、時に合置せられた各一宗一個所の寺院は、禅宗光厳寺、日蓮宗大法寺、浄土宗来迎寺、一向宗(真宗)常楽寺、真言宗来迎寺です、
 是等数寺に於て、従来僧侶の布教教育の賑はなかつたのを策励し、宗門の学問研究なさしむる方針でした、若しその見込みなき者は、帰俗を聴許したのですが、帰俗を申出る者には、その堂宇地所を給与して自由に農商の業務を営ましめ、又然うでない者には、堂宇地所を一切上納せしめたのです、さうして両三日中に決行すべしと云ふ急激の命令でありまして、此藩の命令に違背したり、異議を申立つる者があつたら、直に厳刑に処すと云ふ達でありましたから、その混雑は実に名状すべからざるものでした、特に最も困難を感じたのは、真宗の寺院でした、他宗では妻子がありませんでしたから、処置も着き易いが、真宗では妻子眷属がありますので、大勢一処に一寺に集合すると云ふことは、実に困難なことでした、けれども藩から厳重の命令でありますから、一時皆服従して異議を申立てなかつたのです、其中には帰俗を申出た者も多くありまして、長沢村の覚願寺の如きは、帰俗して、堂宇を申受て、百姓をしてゐました、
 寺院の梵鐘などの重なる金物類は、皆献納せしめて、兵器の鋳造に用ゐやうとした、三重郡桜谷村長慶寺の丈六羅漢の如きも、その目的の為めに没収せられました、此兵器鋳造の為めには、寺院のみでなく、俗家にも及ぼしまして、その燭台火鉢等の金物類は、皆献納せしめられたのです、又代々武庫に蔵めてあつた古い武具なども、藩士の守旧思想を破壊して、進取の志気を鼓舞せん為めに、甲冑を除く外は、総べて神通川の半島河原と云ふ地に取出しまして、焼いて仕舞ひました、鎧などは金ばかり取残して、皆焼払いました、此等の金物は、城内の一隅に高く積まれてありました、後仏像仏具等を東京に運送せんとして、船に積みて出帆しましたが、途中難船して、その大半を失ひ、到頭不成功に終りました、
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まだ続きますが、いったんここで切ります。
さて、禅宗で光厳寺、日蓮宗で大法寺が残ったのは両寺が富山藩の菩提寺だったからですね。
富山藩の菩提寺はちょっと奇妙で、まず初代藩主前田利次が菩提寺を曹洞宗の光嚴寺に定めたのに、二代藩主正甫が日蓮宗大法寺に変更してしまったのだそうです。
ということは、二代目以降は大法寺なのかな、と思いきや、藩主の宗門を一代毎に変えてしまったのだそうで、結果的に菩提寺もかわりばんこですね。
まあ、面倒なトラブルに発展しかねない問題を足して二で割った合理的解決なのかもしれませんが、宗教の問題なのにそれでいいのか、という感じがしないでもありません。
おまけに江戸で藩主の妻子が亡くなった場合の菩提寺は日蓮宗3、曹洞宗3、浄土宗3、臨済宗2、その他3の合計14寺で、一番多いのは臨済宗の下谷・円満山広徳寺だそうですから、何を考えているのか訳が分かりません。
ま、富山藩はもともと宗教的には結構いい加減な藩だったような感じもします。
考えてみれば「一宗一寺」というのもずいぶん中途半端というか、そこまでやるなら薩摩藩のように全廃すればすっきりするのに、と思いますが、あるいは藩主の菩提寺の問題がなかったら全廃を狙ったのかもしれません。

「富山市郷土博物館」公式サイト内 『富山名所 光厳寺と大法寺』
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori35/tayori35.htm
同「特別展 お殿さまとお寺-富山前田家ゆかりの寺々」
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/kikakuhaku/list/h24/2403/2403.html
「富山藩の墓所・菩提寺 江戸の菩提寺」
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/bodaiji/(1).htm
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/bodaiji/(2).htm
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