投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月 4日(木)11時45分17秒
つづきです。(P28)
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幕末時代から西本願寺には、列藩にも例のないほどの急進的倒幕維新の政治的仏僧が活動してゐた。長州には僧月性がゐて、幕府のみでなく水戸藩に対してすらも非難してゐた。吉田松陰など初めは月性を過激だと思ってゐたらしいが、やがてその思想を畏敬し、自分の門下にも月性の講義を聞かせる。松陰自らが、最後的に思想を急進させる大きな転機となったのは、同じく真宗僧、宇都宮黙霖の影響によるものであった【註35】。黙霖の主張した討幕放伐の思想が、久坂玄瑞をはじめ松陰門下にひろがって行く。
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月性(1817-58)は「人間到る処青山有り」の漢詩でも有名な「海防僧」ですね。
【註35】には「川上喜三編『宇都宮黙霖吉田松陰往復書簡』参照」とあります。
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桂小五郎(木戸孝允)は、長州藩が、討幕へと急進独走したころの京都のリーダーであるが、不断に西本願寺と連携した。これは、ただ政治や思想の指導者間の連携といふのみでなく、長州藩の領民が、ほとんど西本願寺の門徒といふ戦国時代の藩祖毛利元就からの歴史的信頼関係の上に築かれた強固な同盟であった【註36】。
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【註36】はかなり長くて、「織田信長の石山本願寺攻撃に際しても毛利輝元は本願寺側を援助してをり、西本願寺との密接な関係は幕末に久坂玄瑞、桂小五郎などの志士の集会所に西本願寺別邸が提供されたことは有名である。防長・山口県地方に真宗勢力が強大であったことは近代になってからも同じで、明治十二年段階でも、氏子制度に関して真宗門徒が反抗し、その処置について山口県は内務省に指令を求めてゐるほどである(外岡茂十郎編『明治前期家族法資料』第一巻、第二冊、二〇六頁)」とあります。
長州と浄土真宗の友好関係は、薩摩が浄土真宗を徹底的に嫌っていたことと対照的ですね。
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長州が独走して薩摩、会津の幕軍と闘った禁門の変にさいして、他藩は、すべて長州を見棄てたが、西本願寺だけは、長州敗残兵を守った。新撰組の土方歳三が苛烈な追及をしたが、明如上人は、敗残の将兵を九死一生の危機から救った。この時に、仏恩によって万死に一生を得たと云はれる長州の志士は少なくないが、その中で後に明治政府の閣僚大臣となったのは、松陰門下生の品川弥二郎、山田顕義等が有名である【註37】。
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【註37】は「日本大学編『山田顕義伝』、一四九-一五八頁参照」とのこと。
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長州の新権力層は、ほとんど真宗の門徒か盟友なのである。それに京都に本山を置き、財力も豊かであったがために、京都王朝内の公卿以下の市民にも縦横の人脈組織を固めてゐた。禁門の変に勝って、西本願寺に乱入しようとする薩摩兵や新撰組を抑止した西郷隆盛には、精緻な政治的計算があった【註38】(西郷は、宗教的には全く仏教に好意的でない。私文では仏教を胡神"外国の神"を拝するもので、信頼できないと断じてゐる【註39】)。
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【註38】には「葦津珍彦『武士道─戦闘者の精神─』、同『永遠の維新者』のうち「薩長連合の政治史」を参照」とあります。
また、【註39】には「西郷は「仏は所謂邪徒の権輿、其帰する処遂に同害(キリスト教の弊害)に陥候」と述べてゐる(『大西郷全集』第五巻、一二七四頁)」とあります。
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これだけの大勢力を有する真宗が、小集団連合の神道家をおそれることはない。一時の波瀾に動揺することなく、新政権を誘導するとの自信があった。新政権からの協力依頼に応じながら、地下工作的な進言につとめた。
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ということで、この後、「四、真宗、島地黙雷の進言工作」に入り、「その真宗の対政府工作者のなかで、後世にまで大きな足跡を残したのは、島地黙雷である」と続きます。
なお、葦津氏は特に触れていませんが、西本願寺は新政府側に巨額の軍費提供も行っていますね。
これは時代の流れを読み違えてズルズルと幕府側に資金提供を行った東本願寺と対照的です。
つづきです。(P28)
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幕末時代から西本願寺には、列藩にも例のないほどの急進的倒幕維新の政治的仏僧が活動してゐた。長州には僧月性がゐて、幕府のみでなく水戸藩に対してすらも非難してゐた。吉田松陰など初めは月性を過激だと思ってゐたらしいが、やがてその思想を畏敬し、自分の門下にも月性の講義を聞かせる。松陰自らが、最後的に思想を急進させる大きな転機となったのは、同じく真宗僧、宇都宮黙霖の影響によるものであった【註35】。黙霖の主張した討幕放伐の思想が、久坂玄瑞をはじめ松陰門下にひろがって行く。
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月性(1817-58)は「人間到る処青山有り」の漢詩でも有名な「海防僧」ですね。
【註35】には「川上喜三編『宇都宮黙霖吉田松陰往復書簡』参照」とあります。
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桂小五郎(木戸孝允)は、長州藩が、討幕へと急進独走したころの京都のリーダーであるが、不断に西本願寺と連携した。これは、ただ政治や思想の指導者間の連携といふのみでなく、長州藩の領民が、ほとんど西本願寺の門徒といふ戦国時代の藩祖毛利元就からの歴史的信頼関係の上に築かれた強固な同盟であった【註36】。
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【註36】はかなり長くて、「織田信長の石山本願寺攻撃に際しても毛利輝元は本願寺側を援助してをり、西本願寺との密接な関係は幕末に久坂玄瑞、桂小五郎などの志士の集会所に西本願寺別邸が提供されたことは有名である。防長・山口県地方に真宗勢力が強大であったことは近代になってからも同じで、明治十二年段階でも、氏子制度に関して真宗門徒が反抗し、その処置について山口県は内務省に指令を求めてゐるほどである(外岡茂十郎編『明治前期家族法資料』第一巻、第二冊、二〇六頁)」とあります。
長州と浄土真宗の友好関係は、薩摩が浄土真宗を徹底的に嫌っていたことと対照的ですね。
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長州が独走して薩摩、会津の幕軍と闘った禁門の変にさいして、他藩は、すべて長州を見棄てたが、西本願寺だけは、長州敗残兵を守った。新撰組の土方歳三が苛烈な追及をしたが、明如上人は、敗残の将兵を九死一生の危機から救った。この時に、仏恩によって万死に一生を得たと云はれる長州の志士は少なくないが、その中で後に明治政府の閣僚大臣となったのは、松陰門下生の品川弥二郎、山田顕義等が有名である【註37】。
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【註37】は「日本大学編『山田顕義伝』、一四九-一五八頁参照」とのこと。
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長州の新権力層は、ほとんど真宗の門徒か盟友なのである。それに京都に本山を置き、財力も豊かであったがために、京都王朝内の公卿以下の市民にも縦横の人脈組織を固めてゐた。禁門の変に勝って、西本願寺に乱入しようとする薩摩兵や新撰組を抑止した西郷隆盛には、精緻な政治的計算があった【註38】(西郷は、宗教的には全く仏教に好意的でない。私文では仏教を胡神"外国の神"を拝するもので、信頼できないと断じてゐる【註39】)。
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【註38】には「葦津珍彦『武士道─戦闘者の精神─』、同『永遠の維新者』のうち「薩長連合の政治史」を参照」とあります。
また、【註39】には「西郷は「仏は所謂邪徒の権輿、其帰する処遂に同害(キリスト教の弊害)に陥候」と述べてゐる(『大西郷全集』第五巻、一二七四頁)」とあります。
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これだけの大勢力を有する真宗が、小集団連合の神道家をおそれることはない。一時の波瀾に動揺することなく、新政権を誘導するとの自信があった。新政権からの協力依頼に応じながら、地下工作的な進言につとめた。
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ということで、この後、「四、真宗、島地黙雷の進言工作」に入り、「その真宗の対政府工作者のなかで、後世にまで大きな足跡を残したのは、島地黙雷である」と続きます。
なお、葦津氏は特に触れていませんが、西本願寺は新政府側に巨額の軍費提供も行っていますね。
これは時代の流れを読み違えてズルズルと幕府側に資金提供を行った東本願寺と対照的です。