学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「殉教者は何に対して命を捧げたのか」(by 宮崎賢太郎氏)

2016-02-16 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月16日(火)09時59分43秒

そろそろキリシタンの方も準備しておかねば、と思って長崎純心大学教授・宮崎賢太郎氏の『カクレキリシタンの実像─日本人のキリスト教理解と受容』(吉川弘文館、2014)を少し読んでみたのですが、宮崎氏は「父方が長崎県外海の、母方が浦上の復活キリシタンの血につながるキリシタンの末裔の一人として長崎に生まれ」た方で(p4)、緻密な実証的研究を続けておられるようですね。
まだ途中ではありますが、教えられる点が数多くあります。
ただ、「浦上四番崩れ」の殉教者が死を選んだ理由についての宮崎氏の考察は、私には必ずしも説得的とは思えませんでした。
検討はかなり後で行うことになりそうですが、明治維新後の浄土真宗がその排撃に自己の存在意義を求めた「耶蘇」とは何かという問題とも絡んできますので、宮崎氏の見解を少し紹介しておきます。
宮崎氏は「幕末から明治初期にかけての殉教事件は、キリシタン時代や潜伏時代の殉教とは少し事情が異なっています」(p33)とした上で、次のように述べます。

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 一八五八年(安政五)日本は各国と修好通商条約を結び開国し、翌年パリ外国宣教会のジラール神父が開国後初めて横浜に上陸しました。その後、フューレ神父、プチジャン神父をはじめ、次々にフランス人宣教師が国を捨て、命を捨てる覚悟で、開国後の日本のキリシタンのためにやってきました。そして生涯独身を通しながら日本人信徒のためにその一生を捧げました。武士の時代に主君と家臣の間に成立した命がけの「御恩と奉公」の関係が、新たに宣教師と信徒の間に生まれました。フランスからやってきた白人の宣教師たちが、名もない貧しい虐げられた民である自分たちのためにすべてをなげうって活動してくれているのだから、その御恩に報いるためには命がけの奉公をしなければと考えるのは日本人として自然な感情です。宣教師たちに喜んでもらえるにはどうすればよいのか。それは宣教師の教えや指導に忠実に従い、熱心で敬虔な信徒の姿勢、態度を見せることです。
 幕末のキリシタンの復活以後、殉教事件に示された日本人信徒の強い信仰心がどこから生まれたのかは、前述した宣教師と信徒の間に生じた「御恩と奉公」論理によって説明されうるでしょう。フランス人司祭に再会し、忘れていた唯一絶対なる神への信仰を突如思い出して殉教したというよりは、目の前で命がけで自分たちのために働いてくれる、慈父たる宣教師たちへの、子としての命がけの報恩行為であったと理解するのが自然です。
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また、少し後で宮崎氏は中村博武氏の見解も肯定的に紹介されているので、参考までにこの部分も引用しておきます。(p35以下)

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 プール学院大学短期大学部の中村博武氏は、浦上教徒流配事件で流配された信徒を説諭した者が抱いた共通する疑問は、「キリスト教の教えのために流罪にまで甘んじた者が、肝心の教えをほとんど知らない」という不可解さにあるといっています。浦上の信徒が棄教しなかった外的要因は、村全体で隠し続けてきた共同体の強い精神的絆が断絶しないようにするためであり、内的要因としては、もし棄教すれば、先祖代々隠れて守り伝えてきた祖先や家族との信仰の結びつきが断ち切られることになり、信仰共同体から仲間外れにされることへの恐れであったと推測しています。浦上キリシタンの信仰は、神に対してではなく、宣教師や親族、知己との具体的人間関係に基づいた感恩─報恩にあり、祖先や親族への生死を越えた強い情的一体感にあったと結論づけています(中村博武『宣教と受容 明治期キリスト教の基礎的研究』思文閣)。
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コメント
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