学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「大浜騒動の社会的背景」

2016-02-05 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月 5日(金)10時51分25秒

羽賀祥次編『幕末維新論集11 幕末維新の文化』(吉川弘文館、2001)所収の遠山佳治氏(名古屋女子大学助教授、当時)の論文「大浜騒動の社会的背景」(初出は『岡崎市史研究』第8号、1986)を読んでみたところ、騒動後に提出された多数の「始末書」の分析によれば、大浜騒動の参加農民のうち、菊間藩領内の農民はわずか3.9%だそうです。
藩別に多い方から並べると岡崎藩36.6%、静岡藩28.4%、刈谷藩12.6%、西端藩10.1%、重原藩5.7%、菊間藩3.9%、西尾藩2.7%となっていて、菊間藩は下から二番目ですね。(p70、表1)
また、遠山氏は「暮戸会所」での第一回暮戸会議(明治4年3月2日)と第二回暮戸会議(同年3月8日)を分析し、「その間の五日間、碧海郡小川村蓮泉寺台嶺と碧海郡高取村専修坊法沢が中心となり様々な裏工作が施された」ことを明らかにし、更に僧侶の言動から関係者を五グループ(「依白・猛了・景晃に代表される急進派」「台嶺に代表される談判派」「法沢に代表される慎重派」「本証寺に代表される反対派」「碧海郡東境村泉正寺宗祥に代表される黙視派、会議にも欠席し、騒動を静観する者」)に分類した上で、「大浜騒動を引き起こした僧侶は、三河東本願寺派寺院からみれば、ほんの一握りにすぎなかった」という結論を出されています。(p76)
この後、遠山氏は、幕末には三河における東本願寺の本来の寺院統制組織(「三河三ヶ寺触頭制」)が相当動揺しており、地縁に基づく新興の「組」組織と結びついた末寺のグループが有力化していた事情等を検討されていますが、私の当面の関心からすれば、菊間藩の政策と暴動の発生にはあまり関係がなかったことが分かっただけで十分でした。
もともと菊間藩の廃仏毀釈政策が特に具体化されていない段階で暴動が発生した点が非常に奇妙に思われましたが、菊間藩領内の農民の参加者が僅か4%弱では菊間藩の政策を論じる意味すら疑問になってきます。

>筆綾丸さん
ご紹介のエマニュエル・トッド『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』を購入し、60ページほど読んでみましたが、これは非常に面白い本ですね。
後で感想を少し書きます。

>苗木藩
小さな藩ですが、ここで行われた急進的な廃仏毀釈は有名で、研究の蓄積もけっこうありますね。
『日本近代思想大系5 宗教と国家』、私も読んでみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

肥後藩の清律研究 2016/02/04(木) 14:42:15
小太郎さん
『日本近代思想大系7 法と秩序』(岩波書店、1992)をパラパラ捲ってみました。
佐伯千仭、平野龍一、松尾浩也という刑法学者が生まれた背景には、肥後藩による清律研究の余韻の如きものがあるのかもしれませんね。
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(新政府の司法機関である)刑法事務科・刑法事務局には肥後藩出身者が多く登用されていたが、同藩が十八世紀来、清律を深く研究し、それらの影響のもとに独自の刑法典(刑法草書)を作り上げていたことなどから、新刑法編纂は、必然的に、清律と刑法草書の影響を強く受けたものとなった。(554頁)
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的決とは刑の執行のことで、決放、決配、処決、実決、実断、科断とも呼ばれた、とありました(562頁)。また、「凡禁錮ハ、一室内ニ鎖錮セシメ・・・」(150頁)とあることからすると、『福井県史』表中の「鎖錮」は「禁錮」と書かれるべきものですね。

最近、大臣を辞任した某氏とは何の関係もありませんが、仮刑律の「受贓」の項目に面白い文言がみえます。窃盗罪に準じたのですね。現代であれば、いや待て、そりゃ無茶だ、非道だ、横暴だ、誠に以て言語道断の末法の世と言うべし、俺はなんにも盗んでおらぬ、と言いたくなりますね。
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凡、官吏、枉法の贓を受るものは(賄賂に依り法を枉げて処分するを云ふ)常人官物を盗之条に依て科断す。不枉法の贓を受るものは(賄賂を受といへども処分に法を枉ざるを云ふ)窃盗の条に依り、贓数半減して論ず。(43頁)
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『日本近代思想大系5 宗教と国家』(岩波書店、1988)の「廃仏毀釈」の項に五つの事件が掲載されていますね。
1 弥彦神社本地仏焼却事件(明治二年六月)
2 神鏡買求一件(明治二年七月)
3 苗木藩葬祭処分(明治三年)
4 石見国安濃郡・邇摩郡騒動(明治四年十月)
5 越前護法一揆(明治六年三月)
1は真言宗(京都醍醐報恩院末寺)関係、3・4・5 は真宗関係、2は越中国礪波郡を舞台とするので真宗関係か。なお、苗木藩は平田国学に基づく藩政改革(明治2年)により徹底した廃仏政策を推進した、とあります(119頁)。
コメント
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