投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月 3日(水)08時49分51秒
「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」(『福井県史』の美しい表現では「越前真宗門徒の大決起」)の発端は、真宗本願寺派のエリート僧侶でありながら還俗して教部省に出仕した石丸八郎という「裏切り者」への憎悪ですが、昨日、山口輝臣氏(九州大学准教授)の『島地黙雷─「政教分離」をもたらした僧侶』(山川出版社、2013)を読んでいたら、石丸八郎の名前がちらっと出てきました。
島地黙雷(1838-1911)は長州藩内の真宗本願寺派の寺に生まれ、維新後はその長州人脈を生かして真宗本願寺派、更に仏教界全体の指導者的地位に立った人ですが、まだまだ若輩の頃、藩外の高僧のもとで研鑽を積もうと志します。
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長州を出る
黙雷にもその日が訪れる。安居で知り合った友人たちと計画を立て、山口の祗園祭にいくと称して出奔、九州をめざす。一八五七(安政四)年、黙雷二〇歳。彼の生涯における最初の大きな転機である。養父への書置では、昨今の僧侶の放蕩無法をなげくとともに、西洋諸国との交流開始にともなうキリスト教の「流入」がいかに危険であるかを指摘し、そのためにもみずからの修行が不可欠であると訴えている。
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キリスト教の危険性の指摘の前に「昨今の僧侶の放蕩無法をなげく」点は面白いですね。
当時はこのような認識は全く当たり前のものだったのに、神仏分離・廃仏毀釈に悲憤慷慨する今どきの人々には、この前提部分が欠落しているように感じます。
ま、それはともかく、続きを読むと、
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当初は豊前国中津(大分県中津市)の照雲寺・松島善譲のもとにいく予定だった。だが松島善譲は京都にいて不在との情報をえて、肥後国山鹿(熊本県山鹿市)にある光照寺の原口針水に就くことにした。原口針水は筑前国博多(福岡県福岡市)の万行寺で学んだのち、自坊の学舎・累世黌にて、各地から集う学徒たちを育英した僧侶。黙雷が山鹿を去ったあとのことだが、本山の命により、長崎にでて宣教師から直にキリスト教を学び、それをもとにキリスト教を批判する書物を刊行し、「破邪顕正御用掛」に任じられるなど、本願寺におけるキリスト教対策の中心人物でもあった。こうした師のもと、黙雷は足かけ五年にわたって修行を続け、一八六一(文久元)年に帰郷する。
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ということで、この「キリスト教を批判する書物」に付された注に、
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具体的に名前をあげると、『崎陽茶話』と、その付録の『長崎邪教始末』。ただし著者は原口針水ではなく、その弟子である唯宝寺良厳(のちに還俗して石丸八郎、一八三七-八九)と推定されている。
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とあります。
1837年生まれということは島地黙雷の一歳上で、同世代の人ですね。
こういう人を追って行くと時代背景がきれいに出て来そうな感じがします。
「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e382a067354078730f1d96af3ab7547f
一揆のプロフェッショナルたち
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70d8bcf73f80aeac73b8529153059593
>筆綾丸さん
>「改定律例」
『日本近代思想大系7 法と秩序』(岩波書店、1992)で水林彪氏が「改定律例」に注釈を付し、「新律綱領と改定律例の世界」という解説、というか長大な論文も書かれていますね。
以前、水林彪氏の論文を夢中になって集めていた頃、これも読もうかなと思って小一時間ほど眺めたことがあるのですが、あまりの詳細さに辟易して、そのままになっていました。
ちょうど良い機会なので、何か参考になりそうなことが出ていれば後で紹介したいと思います。
>catholique zombie
ヤフーの書評に言及されているトッドの発言を見ると、
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「ゾンビ・カトリック教という概念は、ネガティブな響きを伴っているため、私がカトリック教に何か恨みがあるのではないか、としばしば思われるます。皮肉なことですが、ゾンビ・カトリック教に当てはまる地域は、それ以外の地域よりすべての点でうまくいっています。[中略]だから一時期、私が心配していたことは、ゾンビ・カトリック教に当てはまる地域を、私が褒めすぎていると非難されるのではないか、ということだったのです」
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ということで、否定的に用いている訳ではないんですね。
面白そうなので、早速読んでみます。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
小太郎さん
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/794277/9?tocOpened=1
『福井県史』の「大野・今立・坂井郡の受刑者数」に見慣れぬ用語がありますが、「改定律例」(明治6年5月)を読むと、なんとなくわかりますね。
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凡贖罪ハ平民過誤失錯連累其他不幸ニ出テ事情憫諒ス可クシテ実断シ難キ者例図ニ照シテ贖罪ス
凡収贖ハ老少廃疾婦女ノ矜恤ス可キ者例図ニ照シテ収贖ス
凡士族以上ノ婦女的決シ難キ者贖罪スル例ヲ改メ平民婦女及ヒ老少廃疾ト同ク収贖ス
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あくまで「改定律例」に拠りますが、贖罪と収贖は構成要件が若干相違するものの、要するに、相応の金を払えば勘弁してやる、ということになりますね。驚くべきは、終身刑も絞首刑も金で買えたことですね(斬首刑は金でも駄目だったようですが)。というか、贖罪や収贖を以て処罰するような犯罪に終身刑や絞首刑があること自体が異常だ、と考えるべきなんでしょうね。仮刑律(1868年)、律綱領(1870年)、改定律例(1873年)と来て、よ、成田屋、という明治政府の大向こうとともに、千両役者ボアソナードの来日(1873)となるのですね。
「爾臣僚其レ之ヲ遵守セヨ」という有難い朕のお言葉があるけれども、なんだ、地獄の沙汰も金次第か、と浅ましい感じが揺曳します。
『福井県史』の表では、受刑者は全て男ですが、収贖は老少廃疾者の外に婦女も含むから、計114名の収贖の中に婦女がいた可能性は充分ありますね(もっとも、婦女がいたからといって、べつにどうということもないのですが)。
鎖錮は現代の禁錮刑に近いのか。的決はよくわかりませんが、正式な手続きを経て判決を下されたもの、つまり、相応の金銭を払えず(払わず)刑に服したもの、という意味でしょうか。
贖罪金や収贖金の半分くらいは真宗寺院が立て替えたのだろうか、というようなあらずもがなの疑問が残ります。
追記
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166610549
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150929-00010001-socra-int
エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』を読み始めたのですが、catholique zombie という概念は面白い。ただ、統計学の知識がないので、文中の統計的処理の意味がよく理解できないのですが、所載の複数の地図を眺めていると、フランスにおけるウェーバー的宗教社会学の背景がなんとなくわかってきます。
「(フランソワ・オランドは)カトリック教徒のゾンビというもののウェーバー的な意味における理念型と見做されてもよいだろう」(76頁)。