学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

林太仲の藩政改革?

2016-02-27 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月27日(土)11時49分23秒

少し脱線してしまいましたが、木々康子氏の『林忠正』に描かれた林太仲の経歴のつづきです。(p13以下)

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林太仲の藩政改革
 太仲は若い同志と謀って、早くからひそかに藩政改革を企てていた。彼らの攻撃の対象は、当時、国家老として権力を振るっていた山田嘉膳であった。数年前、経済的な困窮から脱すべく、藩は宗家に隠れて五万石の増封を図ったが、成功の寸前に秘密が宗家に漏れ、家老も自刃し、年若の藩主は発狂を理由に隠居させられた。代って宗藩から三歳の若君が、富山藩を継いだ。宗家からの圧迫はいよいよ強くなった。その騒動の中で、他国者でありながら山田嘉膳は巧妙に立ち回り、国家老までのし上がったのである。彼の存在は藩士の融和を欠き、藩内はいっそう無気力になった。
 太仲たちは彼を中心に血判の誓いを交し、先ず宗家に、嘉膳の行状を訴える直訴を試みた。しかし、藩始まって以来の、宗家に対する直接行動に驚愕した藩庁は、彼らを蟄居閉門に処した。しかし、宗藩からの処罰もない代り、彼らの訴えの効果もなく、藩政も嘉膳の処置も一向に変わらなかった。
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「藩は宗家に隠れて五万石の増封を図った」云々は分かりにくいですが、『図説富山県の歴史』(河出書房新社、1993)によれば、これは「富田兵部の自刃一件」と呼ばれる事件で、「当時富山藩政の全権を掌握していた江戸詰家老富田兵部」が「飛騨高山五万石を富山藩の預(あずかり)領とし、自ら代官たらんとし、幕府要路に働きかけていたことを宗藩が探知し、前藩主利保に密使を派遣して糾した」(p173)のだそうです。
そして宗藩から来た「三歳の若君」が前田利同(としあつ、1856-1921)ですね。
富田兵部の自刃は安政四年(1857)四月、利同の第十三代富山藩主就任は安政六年(1859)十一月で、その間にはなかなか複雑な経緯があったようですが、『林忠正』では省略されています。

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 お咎めが解けたあと、太仲たちは城下の南にある八尾(やつお)の本法寺に籠って、ひそかに次の手段を練ったが、効果ある手段は浮かばなかった。だが、同士の中で最も剣の腕が立ち、剛直な性格の島田勝摩は、仲間にも告げずに、登城する家老を襲って斬殺した。事件後、同志六人は自ら名乗り出て、直ちに金沢の公事場(審問所)へ送られた。元治元(一八六四)年八月一日、京都では禁門を巡って長州藩との闘いがあった直後のことである。
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結局、翌年三月に島田一人が責任を負って切腹し、他の五人は無罪放免になったそうですね。
そしてこの後、「林太仲は家老の温情によって、勤学の名目で長崎に旅立」ち(p14)、以後幕末の混乱期はずっと長崎にいたそうですが、このときに培った知識と人脈が後の出世につながった訳ですね。
ということで、「林太仲の藩政改革」という小見出しはありましたが、結局のところ林太仲は特に藩政改革を行うこともなく、長崎で時代の変化を眺めていただけのようです。
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謎の女・メルケル

2016-02-27 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月27日(土)10時16分4秒

>筆綾丸さん
昨日は二分違いのニアミスでしたね。
ご紹介の『世界最強の女帝 メルケルの謎』を読んでみましたが、西ドイツに生まれて「赤い牧師」の父と東ドイツに移り、35歳まで東ドイツで暮したという経歴はずいぶん珍しいものですね。
ただ、出自の点ではキリスト教系政党の党首になっても特に違和感はない人なんですね。
「三メートルの飛び込み台からプールにダイブするよう教師に指示された少女メルケルは怖気づき、台の縁に立ったままいつまでも飛び込もうと」せず、「授業時間いっぱいのほぼ四五分間、プールの水面を見つめ続け、何やら思案していた様子だったが、授業終了間際になってようやく、意を決して飛び込んだ」(p34)といった「運動音痴」のエピソードの数々には笑いましたが、犬をめぐるプーチンとのやりとりは妙なものですね。
ま、「メルケルの犬嫌いを知ったとき、プーチンの目は怪しく光ったに違いない」(p187)とか、メルケルがプーチンの愛犬である黒いラブラドルを怖がるのをプーチンが「どかりと椅子に座り、にやにやとしたサディスティックな笑みを浮かべてその光景を眺め」(p189)たとかいう筆者の描写も、そこまで意地悪く書くかなあ、という感じはしますが。
一番興味深いエピソードは筆綾丸さんが既に引用されたヴォルフ・ジンガー教授の講演の話ですが、これは何とも不可解で、確かにメルケルは謎の女ですね。

>江戸期の日本の識字率は世界のトップクラスだったはずなのに
平等思想として純化された訳ではありませんが、明治に入ってからの「四民平等」を可能にしたのは、やはり既に識字率の向上が達成されていたからではないでしょうか。
また、識字率の向上により、幕末にはほぼ脱宗教化が済んでいたようにも思います。
弾圧を受けていた江戸初期にキリシタンが一大勢力だったにもかかわらず、明治に入って布教に障害がなくなってからはさほど流布しなかったことは、結局のところ江戸初期と末期の識字率の違いではなかろうかという感じがします。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

Autoroute française A10 と東海道五十三次 2016/02/26(金) 11:54:57
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
メルケル首相の事情とは比較になりませんが、盛岡藩出身の原敬が首相になったときも、かなり変な感じがしたのでしょうね。それはともかく、洗礼名はダビデですか。

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・・・カトリック信仰の退潮は、一八世紀にパリ盆地および地中海沿岸地方の平等主義システムの中心部で始まった。「平等主義的」脱キリスト教化の基本的なロジックは単純なものだ。要するに、読み書きを覚えた人びとが、人間に優越する神と、教区の一般信者に優越する司祭という形而上学的な仮説を拒否するのである。反対に、カトリシズムの防衛拠点ともいえる地域では、平等主義的な家族的無意識が存在せず、どんな形のそれも宗教の権威を脅かすことがなかった。
 家族的平等の地図と脱キリスト教化の地図は不完全にしか一致しない。唯一、それらの中心がどこにあるのかだけが明瞭だ。よく看て取れるのは、当初、家族構造の平等主義によって構造的に決定された脱キリスト教化の動きが、その後のコミュニケーションの主要なルートに沿って伝播したということである。脱キリスト教化の波がパリ/ボルドー軸、つまり、のちの国道一〇号線、そしてさらに高速道路A一〇号線に沿って南西部へと浸透していき、その後ガロンヌ川の流域を遡ったのが分かる。(『シャルリとは誰か?』66頁~)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88_A10
パリ/ボルドー軸が、フランスの国旗で言えば、真ん中の「白(平等)」の部分に相当するわけですね。TGV(フランスの新幹線)の一つも、ちょうどこのラインを走っています。これはパリを起点とするサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路とも重なりますが、巡礼は関係ないのでしょうね。
(パリーリヨンーマルセイユという南北軸に平等主義の進展がみられなかったのは、不思議といえば不思議ですね。現在、このラインを走るA6・A7とTGVはフランスの大動脈ですが)
「パリ盆地の中心部では農村地帯の家族も核家族で、子供たちを早々と解放していた」(同64頁)とありますが、江戸期の日本の識字率は世界のトップクラスだったはずなのに、青(自由)も白(平等)も生み出せなかったのは残念なことです。東海道五十三次で、日本橋から三条大橋に向けて、白い襷(平等)が伝達される、という夢のような事件はついに起こらなかった。

南仏のイスラム教徒の墓 2016/02/26(金) 16:39:23
http://bigbrowser.blog.lemonde.fr/2016/02/25/des-tombes-musulmanes-du-haut-moyen-age-decouvertes-a-nimes/
http://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0148583
ル・モンドの記事に、南仏ニームで中世初期(haut Moyen Age)のイスラム教徒の墓が発見された、とあります(英語の論文は長いので読んでませんが)。12世紀のイスラム教徒の墓ならば、マルセイユやモンペリエで見つかっているが、今回のものはそれらよりずっと古く(7~9世紀)、三体の遺骨の頭部は南東即ちメッカの方を向いている・・・云々。
フランスの現在のイスラム恐怖症に対して、この墓はどんな影響を与えるのだろうか。ささやかな記事として、一般の人々には話題にすらならないのでしょうね、おそらく。 
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