投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月27日(土)11時49分23秒
少し脱線してしまいましたが、木々康子氏の『林忠正』に描かれた林太仲の経歴のつづきです。(p13以下)
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林太仲の藩政改革
太仲は若い同志と謀って、早くからひそかに藩政改革を企てていた。彼らの攻撃の対象は、当時、国家老として権力を振るっていた山田嘉膳であった。数年前、経済的な困窮から脱すべく、藩は宗家に隠れて五万石の増封を図ったが、成功の寸前に秘密が宗家に漏れ、家老も自刃し、年若の藩主は発狂を理由に隠居させられた。代って宗藩から三歳の若君が、富山藩を継いだ。宗家からの圧迫はいよいよ強くなった。その騒動の中で、他国者でありながら山田嘉膳は巧妙に立ち回り、国家老までのし上がったのである。彼の存在は藩士の融和を欠き、藩内はいっそう無気力になった。
太仲たちは彼を中心に血判の誓いを交し、先ず宗家に、嘉膳の行状を訴える直訴を試みた。しかし、藩始まって以来の、宗家に対する直接行動に驚愕した藩庁は、彼らを蟄居閉門に処した。しかし、宗藩からの処罰もない代り、彼らの訴えの効果もなく、藩政も嘉膳の処置も一向に変わらなかった。
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「藩は宗家に隠れて五万石の増封を図った」云々は分かりにくいですが、『図説富山県の歴史』(河出書房新社、1993)によれば、これは「富田兵部の自刃一件」と呼ばれる事件で、「当時富山藩政の全権を掌握していた江戸詰家老富田兵部」が「飛騨高山五万石を富山藩の預(あずかり)領とし、自ら代官たらんとし、幕府要路に働きかけていたことを宗藩が探知し、前藩主利保に密使を派遣して糾した」(p173)のだそうです。
そして宗藩から来た「三歳の若君」が前田利同(としあつ、1856-1921)ですね。
富田兵部の自刃は安政四年(1857)四月、利同の第十三代富山藩主就任は安政六年(1859)十一月で、その間にはなかなか複雑な経緯があったようですが、『林忠正』では省略されています。
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お咎めが解けたあと、太仲たちは城下の南にある八尾(やつお)の本法寺に籠って、ひそかに次の手段を練ったが、効果ある手段は浮かばなかった。だが、同士の中で最も剣の腕が立ち、剛直な性格の島田勝摩は、仲間にも告げずに、登城する家老を襲って斬殺した。事件後、同志六人は自ら名乗り出て、直ちに金沢の公事場(審問所)へ送られた。元治元(一八六四)年八月一日、京都では禁門を巡って長州藩との闘いがあった直後のことである。
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結局、翌年三月に島田一人が責任を負って切腹し、他の五人は無罪放免になったそうですね。
そしてこの後、「林太仲は家老の温情によって、勤学の名目で長崎に旅立」ち(p14)、以後幕末の混乱期はずっと長崎にいたそうですが、このときに培った知識と人脈が後の出世につながった訳ですね。
ということで、「林太仲の藩政改革」という小見出しはありましたが、結局のところ林太仲は特に藩政改革を行うこともなく、長崎で時代の変化を眺めていただけのようです。
少し脱線してしまいましたが、木々康子氏の『林忠正』に描かれた林太仲の経歴のつづきです。(p13以下)
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林太仲の藩政改革
太仲は若い同志と謀って、早くからひそかに藩政改革を企てていた。彼らの攻撃の対象は、当時、国家老として権力を振るっていた山田嘉膳であった。数年前、経済的な困窮から脱すべく、藩は宗家に隠れて五万石の増封を図ったが、成功の寸前に秘密が宗家に漏れ、家老も自刃し、年若の藩主は発狂を理由に隠居させられた。代って宗藩から三歳の若君が、富山藩を継いだ。宗家からの圧迫はいよいよ強くなった。その騒動の中で、他国者でありながら山田嘉膳は巧妙に立ち回り、国家老までのし上がったのである。彼の存在は藩士の融和を欠き、藩内はいっそう無気力になった。
太仲たちは彼を中心に血判の誓いを交し、先ず宗家に、嘉膳の行状を訴える直訴を試みた。しかし、藩始まって以来の、宗家に対する直接行動に驚愕した藩庁は、彼らを蟄居閉門に処した。しかし、宗藩からの処罰もない代り、彼らの訴えの効果もなく、藩政も嘉膳の処置も一向に変わらなかった。
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「藩は宗家に隠れて五万石の増封を図った」云々は分かりにくいですが、『図説富山県の歴史』(河出書房新社、1993)によれば、これは「富田兵部の自刃一件」と呼ばれる事件で、「当時富山藩政の全権を掌握していた江戸詰家老富田兵部」が「飛騨高山五万石を富山藩の預(あずかり)領とし、自ら代官たらんとし、幕府要路に働きかけていたことを宗藩が探知し、前藩主利保に密使を派遣して糾した」(p173)のだそうです。
そして宗藩から来た「三歳の若君」が前田利同(としあつ、1856-1921)ですね。
富田兵部の自刃は安政四年(1857)四月、利同の第十三代富山藩主就任は安政六年(1859)十一月で、その間にはなかなか複雑な経緯があったようですが、『林忠正』では省略されています。
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お咎めが解けたあと、太仲たちは城下の南にある八尾(やつお)の本法寺に籠って、ひそかに次の手段を練ったが、効果ある手段は浮かばなかった。だが、同士の中で最も剣の腕が立ち、剛直な性格の島田勝摩は、仲間にも告げずに、登城する家老を襲って斬殺した。事件後、同志六人は自ら名乗り出て、直ちに金沢の公事場(審問所)へ送られた。元治元(一八六四)年八月一日、京都では禁門を巡って長州藩との闘いがあった直後のことである。
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結局、翌年三月に島田一人が責任を負って切腹し、他の五人は無罪放免になったそうですね。
そしてこの後、「林太仲は家老の温情によって、勤学の名目で長崎に旅立」ち(p14)、以後幕末の混乱期はずっと長崎にいたそうですが、このときに培った知識と人脈が後の出世につながった訳ですね。
ということで、「林太仲の藩政改革」という小見出しはありましたが、結局のところ林太仲は特に藩政改革を行うこともなく、長崎で時代の変化を眺めていただけのようです。