学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

何故に富山藩では「護法一揆」が起きなかったのか。

2016-02-20 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月20日(土)11時33分52秒

富山藩は完全な廃仏毀釈を実行した薩摩藩へのつなぎとして軽く触れるだけのつもりだったのですが、調べてみるとけっこう面白いですね。
さて、一宗一寺という厳しい合寺をまがりなりにも実行した富山藩において何故に「護法一揆」が起きなかったのか、という問題に対する答えですが、一番の原因は「寒かったから」ではないかと思います。
こんなことを言うと「莫迦にしているのか」と怒られそうですが、三河大浜騒動の場合、明治四年三月八日はグレゴリオ暦では1871年4月27日で、酔っ払って暴れまくるのにはちょうど良い季節ですね。
悌輔騒動(「明治五年信越の間土寇蜂起」)の場合、初日の明治五年四月六日は1872年5月12日で、初夏の爽やかな一揆日和です。
また、「越前真宗門徒の大決起」(「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」)の初日三月五日は前年十二月に太陽暦が採用された後なので現在と同じですが、雪解けがグングン進み、気分が高揚して暴れ始めたくなる時期です。
一般に一揆には「遊民」に率いられた「愚民」のカーニバルとしての側面があり、酔っ払いの集団が竹槍で串刺しにして殺した人の首を「魚切り包丁」で切り取って拠点の寺院に持ち込み、生首鑑賞会を開催した三河大浜騒動はその典型ですが、富山藩の場合、合寺の布告が出た明治三年閏十月二七日は1870年12月19日ですから、カーニバルにはおよそ向いていない季節ですね。
ま、さすがに私も「寒かったから」が唯一の原因とは考えておらず、新政府に太いパイプを持っていた西本願寺派が多数派だったことも冷静な対応になった理由のひとつだと思います。
また、「真宗王国」といえども、別にすべての人が強固な宗教的信念を持っていたはずもなく、森田善得寺蔵の「合併実録」によれば243寺中に帰俗寺院が76寺、ということは約31%が廃寺を了解してしまった訳ですから、一般門徒の中で合寺に反対しなかった人の割合はもっと高いはずです。
そして、何よりも合寺令という政策が当時としてはそれなりの合理性を持っていた、多くの人を積極的に賛成させるには至らなかったとしても、時代が変わったのだから仕方ない、と思わせる程度の説得性を持っていた点が重要ではないかと思います。
この点は浄土真宗側の資料や主張には殆ど出てきませんし、『神々の明治維新』の著者である安丸良夫氏のようなタイプの研究者の文章を読んでも分かりにくい点なので、後で少し丁寧に論じたいと思います。

>筆綾丸さん
>『オデッセイ』
評判が良いみたいですね。
私も観たいと思っていました。

>コプト教
教義の点はわかりませんが、美術的には非常に面白い宗派ですね。
装飾写本にもユーモラスな、ある種漫画的なものが多数あります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

コプト教 2016/02/19(金) 13:07:00
小太郎さん
エマニュエル・トッドの著作の幾つかは原文で読みたいとは思っていますが、草臥れそうなので躊躇しています。

http://www.foxmovies-jp.com/odyssey/
昨日は、あまり期待もせずに『オデッセイ』を観に行ったのですが、アメリカの凄さに圧倒されました。天文学、物理学、化学・・・など、よく理解できない話が一杯でしたが。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B9%EF%BC%9D%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AA
ブトロス・ガリはコプト正教徒の家に生まれたとありますが、コプト教徒として生き、コプト教徒として死んだのか、というようなことへの言及はないのですね。もっともコプト教がどういうものなのか、全く知識がないのですが。
コメント
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