投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月28日(日)10時26分1秒
未だに林太仲の後半生が見えてこないのですが、前半生については意外なことに平田学派との接点などなくて、むしろ圧倒的に洋学の影響を受けていますね。
木々康子氏『林忠正』のつづきです。(p14)
---------
長崎追放と新知識
事件後、林太仲は家老の温情によって、勤学の名目で長崎に旅立った。宗藩に頭を押えられ、狭い領国に盲目同然に縛られていた若者は、長崎に溢れている新知識や海外の知識に驚愕した。長崎言定の親友高峰精一の息子の譲吉も、加賀藩士五十人とともに長崎に送られ、ポルトガル領事の武器商人ロレイロのもとで学んでいた。次いで譲吉はアメリカ人宣教師フルベッキ博士のもとに移ったので、太仲はそれらの西欧人とも知り合い、西洋事情の片鱗を学ぶことができた。ここでは土佐の坂本、中岡、佐賀の大隈、大木、副島などの俊秀が集まって、熱い討論を交していた。
彼らは各藩での海軍の結成、陸軍の改革を急務の問題と主張していた。長崎での薩摩藩は、すでに海軍生は異人服を、陸軍生は銃を担うという改革を終えていた。長州、薩摩の強さは、この軍制改革の結果と認められていた。攘夷論など、もはや空論であった。偉大な祖父長崎浩斎が垣間見ていた西洋や、伯父長崎言定から教えられた西洋の政治思想が、実現可能なものとして太仲の眼前にあったのである。その実践に至るまでの大きな苦難や犠牲や試行錯誤の数々などには、考えも及ばなかった。そして長崎ではもう、オランダ語も英語も古く、フランス語が主流になっていたのだった。
---------
親族関係を整理しておくと、長崎浩斎は加賀藩領高岡のオランダ流外科医で蘭学者ですが、その三人の子のうち、長女「ふき」が富山藩士林太仲(二代)に嫁ぎ、林太仲(三代)の母となります。
そして「ふき」の弟、言定は蘭学の初歩を学んだ後、「国学者、歌人、言霊学者」(p8)に転じたそうですが、幅広い分野にわたる知識人だったようですね。
また、国学といっても平田国学とは別系統ですね。
そして、この言定の次男、幼名志芸二(しげじ)が後に林太仲(三代)の養子、忠正となります。
林太仲(三代)の母方長崎家は初代の萩原孫兵衛が「元禄の頃(一七〇〇年以後)、長崎でオランダ流外科術を習い覚え、高岡で開業した」(p2)のが最初で、周囲から「オランダ医者」「長崎医者」「長崎先生」と呼ばれるようになり、孫兵衛も自ら「長崎」を名乗るようになったのだそうで、地方都市の高岡には極めて珍しい洋風一家ですね。
もともと洋学の素養のあった林太仲(三代)は、長崎で更に西洋の最新知識を吸収した訳ですね。
なお、「長崎言定の親友高峰精一の息子の譲吉」は言うまでもなくタカジアスターゼの高峰譲吉です。
高峰譲吉(1854-1922)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B0%E8%AD%B2%E5%90%89