投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月10日(水)09時26分18秒
前回投稿で(1)とした富山藩の問題ですが、まずは概観に便利な山川出版社・県史シリーズの一冊『富山県の歴史』(深井甚三・本郷真紹・久保尚文・石川文彦著、1997)を参照して基礎的な事実関係を確認しておきます。(p253以下)
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【前略】
版籍奉還後も藩政改革がたびたび実施された。まず明治二年十月に、富山藩と加賀藩の名を改めた金沢藩は職制改革を実施したが、さらに翌年九月に知事・正権大参事・少参事をおくことなどを定めた藩政改革についての太政官布達があった。この改革により富山藩では、大参事となり藩政の主導権を握った林太仲(はやしたちゅう)が藩政の大改革を実施した。このとき兵制・禄制・村役人制度などの改革とともに、全国的にも突出した施策の合寺令も断行されることになった。
【中略】
ばんどり騒動発生と同年の明治二年三月に、越中では政府の前年三月の神仏分離令をうけて立山権現が雄山神社に改称させられた。また、こののちに二上山養老寺や石動山天平寺などの有力寺院を対象に神仏分離が進められた。富山藩では、明治三年九月に林太仲が大参事となって藩の実権を掌握した。この翌十月に士卒の神葬祭許可が藩より命じられ、翌々月には、寺院への参詣者規制や私僧の禁止、寺院の時鐘・太鼓使用禁止、さらに士卒の寺院境内への埋葬禁止など、やつぎばやに寺院へ圧力がかけられていた。こうしたときの同月二十七日に合寺令がとつじょ発布され、藩内の寺院・僧侶が大混乱におとしいれられることになった。当時、知事が幼少のためなどもあり、林が専権をふるうことができ、合寺令が断行されたのであるが、合寺令は単なる廃仏政策ではなく、富国強兵をめざした藩政の大改革の一環として実施されたものであった。
合寺令は藩内の寺院を一派一寺に併合させるとするが、実際には一宗一寺に併合するものであった。しかも翌二十八日中に寺院の法具・家財などを取りはらわせ、合寺させるきびしいものであり、実行のために武装兵が藩内要所に配置された。このため僧侶から合寺に対する抵抗などは行えなかった。また、このような強引な寺院弾圧に対して、領民から強く抗議することもできなかった。情報を得た真宗両本願寺は富山藩へ使僧を派遣した。また、中央政府に対して諸宗派からの陳情も行われ、ようやく明治四年五月に政府は、合寺令が不都合であることと、穏当な処置を富山藩に命じた。ただ、合寺の解除がすべての寺院におよぶのは明治十一年になった。
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「実行のために武装兵が藩内要所に配置された。このため僧侶から合寺に対する抵抗などは行えなかった。また、このような強引な寺院弾圧に対して、領民から強く抗議することもできなかった」とありますが、この説明は直前の「世直し一揆の要素ももった大一揆のばんどり騒動」についての二ページに亘る記述と調和するのか、疑問を感じます。
「ばんどり騒動」まで引用するとあまりに長くなるので【中略】としましたが、凶作に困窮した農民が新川郡内十村で村役人宅の打ちこわしを行い、富山藩は金沢からの援軍を得てやっと鎮圧したという大一揆ですね。
長州や薩摩の精鋭軍に立ち向かうならともかく、富山藩兵程度の弱小部隊だったら、三河大浜騒動クラスの竹槍を持った数百・数千の集団で押しかけてニ・三人串刺しにすれば残りは雲散霧消したのではなかろうか、という感じもするのですが、「真宗王国」にもかかわらず、富山藩ではそのような展開とはなりませんでした。
それは何故なのか、というのがここでの問題です。