学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

東派・西派の割合

2016-02-18 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月18日(木)09時54分41秒

ぶちぶち文句を言ってしまいましたが、『目でみる越中真宗史』は丁寧に編集された良い本ですね。
「あとがき」(p169以下)によれば、同書は桂書房が<『越中資料集成』の別巻として、それらの真宗寺院に伝えられる史料及び既刊の越中に関する真宗史料を一書にした「越中真宗史料」の刊行を企画>し、<本県では既に『県史』をはじめ、各市・町・村史が出そろっており、史料収集にあたって、いまさら調査したところで、新史料の発見など望むべくもないだろうとの思いもあったが、桂書房の勝山氏を交えて話し合いの結果、「せっかくの機会だから、この際できるだけ精査しよう」との合意を得>て、土井・金龍氏が「昭和六十三年七月から平成二年五月までの二年間に約百か寺の寺院を訪れ」たところ、「思いがけなくも、数点の注目すべき史料を得ることができた」のだそうです。
そして合寺令についての記述も新史料のおかげだそうですね。
この点、少し具体的に見てみると、

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 富山藩に合寺が強行されたのは、今から約一二〇年ばかり前のことである。富山領内であった旧富山市は戦災、神通川筋の寺院は水害に遇うなどで史料を失っている。加えて調査の不充分さも手伝って、研究は遅れている。幸い今度の調査中、数点の新史料の所在を知ることができた。
 本項はそれを紹介しながら、本事件の一端をたどってみよう。
 史料の一点は、小矢部市西中村願称寺に所蔵されている「当藩諸寺院合併」という表題の付いた一冊の文書である。同寺は富山市願称寺の隠居寺で、文書類の多くが西中に、法宝物は富山に伝えられているようである。この記録は富山領に在って、実際事件に遭遇した者の手になるものであることは、記述の内容から明らかである。
 いま一点は、森田善得寺蔵の「合併実録」其一である。「其一」とあるので続編があったと推定されるが現存しないのは残念である。これは、前者より詳細である。筆録は、両書とも明治三年閏十月二十七日の合寺令発布に始まり、前者は翌年三月まで、後者は翌年四月中旬までを書き留めている。
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ということで(p148)、信頼性は高いですね。
興味深いのは「真宗王国」の富山といえども、やはり帰俗者が相当いたことです。(p149)

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 この時、帰俗を望む者には、元の建物(庫裏)・跡地を与えるとの「触」があった。「当藩諸寺院合併」には「帰俗人別」がしるされている。帰俗者は三十九名いたとある。「合併実録」は、さらに詳しく、帰俗後の名前を記してあり、帰俗寺院は七十六か寺。内東派が十六か寺となっている。西派寺院の多かったことが知られる。
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代々承継されてきた、いわば法人たる寺院の所有物である「元の建物(庫裏)・跡地」を一個人として確保できる訳ですから、ま、これ幸いと還俗してしまった人もけっこういるんでしょうね。
また、従来は合寺時の藩内寺院数という一番基本的な数字に争いがあり、『明治維新神仏分離史料』では総計1630余寺、その内浄土真宗は東西合計で1320寺となっており、これが混乱の元凶だった訳ですが、「合併実録」は寺院名・所在地を明記した上で、「東派の院家・内陣・飛稽寺院数三十九か寺、塔頭二十八か寺、計六十七か寺【中略】東西合わせて本坊一五九か寺、塔頭八十四か寺8内寺号がない坊主名四)、合計二四三か寺が持専寺に合寺されたとしている」(p149)そうです。
これに基づいて計算すると、東本願寺派67寺、西本願寺派176寺で、その割合は東本願寺派約28%、西本願寺派約72%ですね。
この東西の割合も私が知りたかったポイントで、やはり新政府との太いパイプを持っていた西本願寺派が多数を占めていたことが、「護法一揆」のような過激な対応にならなかった理由のひとつではありそうですね。
なお、先に引用した箇所に「帰俗寺院は七十六か寺。内東派が十六か寺となっている。西派寺院の多かったことが知られる」とありますが、計算すると帰俗寺院76寺に占める東本願寺派の割合は約21%、西本願寺派の割合は約79%ですから、寺院数の比にほぼ対応していますね。
コメント
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