続きです。(p354)
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其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事、「伊王左衛門能茂、昔、十善君〔じふぜんのきみ〕ニイカナル契〔ちぎり〕ヲ結ビマイラセテ候ケルヤラン。「能茂、今一度見セマイラセヨ」ト院宣ナリテ候ニ、都ニテ宣旨ヲ被下候ハン事、今ハ此事計ナリ。トクトク伊王左衛門マイラサセ給フベシト覚〔おぼえ〕候」ト御文奉給ヘバ、武蔵守ハ、「時氏ガ文御覧ゼヨ、殿原。今年十七ニコソ成候ヘ。是程ノ心アリケル、哀〔あはれ〕ニ候」トテ、「伊王左衛門、入道セヨ」トテ、出家シテコソ参タレ。院ハ能茂ヲ御覧ジテ、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン」トテ、仁和寺ノ御室ヲ御戒師ニテ、院ハ御出家アリケルニ、御室ヲ始マイラセテ、見奉ル人々聞人〔きくひと〕、高〔たかき〕モ賤〔いやしき〕モ、武〔たけ〕キモノゝフニ至マデ、涙ヲ流シ、袖ヲ絞ラヌハナカリケリ。
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うーむ。
十七歳の能茂はずいぶん前から後鳥羽院の寵童だったようですから、後鳥羽院が都を離れるに際して、皇子・皇女を差し置いても能茂に一目会いたい、というのは一応理解できますが、それを北条泰時・時氏父子が絶賛する理由が分かりません。
武装したまま御所の南殿(正殿)に上がり込み、無礼にも弓の上部の弭〔はず〕で御簾を掻き揚げて、「君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ」と「琰魔〔エンマ〕ノ使」のような勢いで責め立てていた「武蔵太郎」北条時氏は、後鳥羽院の「能茂に一目会いたい」という声を聞くや、突如として改心し、「伊王左衛門能茂は、前世において後鳥羽院にどのようなお約束をし申し上げていたのでしょうか」と感激して、父の「武蔵守」北条泰時に「後鳥羽院の最後のお言葉・ご希望は今はこのことだけなのですから、能茂を院のおそばに参上させなさるべきであると思われます」という書状を送ります。
そして、それを受け取った泰時は、「時氏の書状を御覧あれ、殿原。今年で十七歳の若さなのに、これほどの思いやりの心があったのだ。立派なものだ」と十七歳の息子の成長ぶりに感動します。
ちなみに北条時氏は建仁三年(1203)生まれなので、承久三年には十九歳であり、十七歳というのは能茂の年齢ですね。
北条時氏(1203-30)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%B0%8F
さて、泰時は単純に「会って良いぞ」と了解したのではなく、「伊王左衛門、入道セヨ」と命じたとのことなので、出家することが後鳥羽院に会う条件だったのかもしれません。
とにかく、能茂は別に自発的に出家したのではなく、泰時に命じられて出家した訳ですね。
そして、能茂の出家姿を見た後鳥羽院は、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン」ということで、自分も出家を決意します。
そして、仁和寺御室・道助法親王を御戒師として出家すると、御室を始め、見る人聞く人、身分の高い人も低い人も、猛々しい武士に至るまで、みんな涙を流し、袖を絞らぬ者はいませんでした、という話になります。
ちなみに、脚注によると、「仁和寺御伝・光台院御室」には「同(承久)三<辛巳>年七月八日庚寅上皇御出家御戒師」とあるそうで、後鳥羽院の出家は慈光寺本の記す七月十日ではありません。
ま、それはともかく、慈光寺本では、十七歳の能茂は実質的に後鳥羽院の出家の導師のような重要な役割を演じている訳ですね。
さて、続きです。
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サテ、御タブサヲバ七条院ヘゾマイラセ給フ。女院ハ御グシヲ御覧ズルニ、夢ノ心地シテ、御声モ惜マセ給ハズ伏沈〔ふししづみ〕、御涙ヲ流シテ悲ミ給フゾ哀ナル。替リハテヌル御姿、我床シトヤ思召レケン、院ハ信実ヲ召レテ、御形ヲ写サセラル。御覧ズルニ、影鏡〔かげかがみ〕ナラネドモ、口惜ク、衰テ長キ命ナルベシ。今ハ、此御所、世ヲ知食事〔しろしめすこと〕叶フマジケレバ、朝マダキニ、大公〔おほきみ〕モ九条殿ヘ行幸ナル。
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いったんここで切ります。