学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その2)

2023-02-02 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p354)

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 其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事、「伊王左衛門能茂、昔、十善君〔じふぜんのきみ〕ニイカナル契〔ちぎり〕ヲ結ビマイラセテ候ケルヤラン。「能茂、今一度見セマイラセヨ」ト院宣ナリテ候ニ、都ニテ宣旨ヲ被下候ハン事、今ハ此事計ナリ。トクトク伊王左衛門マイラサセ給フベシト覚〔おぼえ〕候」ト御文奉給ヘバ、武蔵守ハ、「時氏ガ文御覧ゼヨ、殿原。今年十七ニコソ成候ヘ。是程ノ心アリケル、哀〔あはれ〕ニ候」トテ、「伊王左衛門、入道セヨ」トテ、出家シテコソ参タレ。院ハ能茂ヲ御覧ジテ、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン」トテ、仁和寺ノ御室ヲ御戒師ニテ、院ハ御出家アリケルニ、御室ヲ始マイラセテ、見奉ル人々聞人〔きくひと〕、高〔たかき〕モ賤〔いやしき〕モ、武〔たけ〕キモノゝフニ至マデ、涙ヲ流シ、袖ヲ絞ラヌハナカリケリ。
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うーむ。
十七歳の能茂はずいぶん前から後鳥羽院の寵童だったようですから、後鳥羽院が都を離れるに際して、皇子・皇女を差し置いても能茂に一目会いたい、というのは一応理解できますが、それを北条泰時・時氏父子が絶賛する理由が分かりません。
武装したまま御所の南殿(正殿)に上がり込み、無礼にも弓の上部の弭〔はず〕で御簾を掻き揚げて、「君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ」と「琰魔〔エンマ〕ノ使」のような勢いで責め立てていた「武蔵太郎」北条時氏は、後鳥羽院の「能茂に一目会いたい」という声を聞くや、突如として改心し、「伊王左衛門能茂は、前世において後鳥羽院にどのようなお約束をし申し上げていたのでしょうか」と感激して、父の「武蔵守」北条泰時に「後鳥羽院の最後のお言葉・ご希望は今はこのことだけなのですから、能茂を院のおそばに参上させなさるべきであると思われます」という書状を送ります。
そして、それを受け取った泰時は、「時氏の書状を御覧あれ、殿原。今年で十七歳の若さなのに、これほどの思いやりの心があったのだ。立派なものだ」と十七歳の息子の成長ぶりに感動します。
ちなみに北条時氏は建仁三年(1203)生まれなので、承久三年には十九歳であり、十七歳というのは能茂の年齢ですね。

北条時氏(1203-30)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%B0%8F

さて、泰時は単純に「会って良いぞ」と了解したのではなく、「伊王左衛門、入道セヨ」と命じたとのことなので、出家することが後鳥羽院に会う条件だったのかもしれません。
とにかく、能茂は別に自発的に出家したのではなく、泰時に命じられて出家した訳ですね。
そして、能茂の出家姿を見た後鳥羽院は、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン」ということで、自分も出家を決意します。
そして、仁和寺御室・道助法親王を御戒師として出家すると、御室を始め、見る人聞く人、身分の高い人も低い人も、猛々しい武士に至るまで、みんな涙を流し、袖を絞らぬ者はいませんでした、という話になります。
ちなみに、脚注によると、「仁和寺御伝・光台院御室」には「同(承久)三<辛巳>年七月八日庚寅上皇御出家御戒師」とあるそうで、後鳥羽院の出家は慈光寺本の記す七月十日ではありません。
ま、それはともかく、慈光寺本では、十七歳の能茂は実質的に後鳥羽院の出家の導師のような重要な役割を演じている訳ですね。
さて、続きです。

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 サテ、御タブサヲバ七条院ヘゾマイラセ給フ。女院ハ御グシヲ御覧ズルニ、夢ノ心地シテ、御声モ惜マセ給ハズ伏沈〔ふししづみ〕、御涙ヲ流シテ悲ミ給フゾ哀ナル。替リハテヌル御姿、我床シトヤ思召レケン、院ハ信実ヲ召レテ、御形ヲ写サセラル。御覧ズルニ、影鏡〔かげかがみ〕ナラネドモ、口惜ク、衰テ長キ命ナルベシ。今ハ、此御所、世ヲ知食事〔しろしめすこと〕叶フマジケレバ、朝マダキニ、大公〔おほきみ〕モ九条殿ヘ行幸ナル。
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いったんここで切ります。

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慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その1)

2023-02-02 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

亀菊エピソードに登場する「医王能茂」はもう少し後に検討する予定でしたが、昨日、少し考えたことがあるので書いておきます。
『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)の「承久記 人物一覧」によれば、藤原能茂は、

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能茂<よしもち> 藤原。元久二年(一二〇五)-文永五年(一二六八)。北家藤成流。実父は行願寺別当法眼道提(道誓)。母は弥平左衛門尉定清の女。北家藤成流、秀能の猶子となる。童名を医王丸といい、後鳥羽上皇の寵童であった。また後鳥羽上皇の北面の武士となり、左衛門尉となる。承久の乱後、出家。法名西蓮。上皇の隠岐配流に同行。延応二年(一二三九)上皇の遺骨を持ち、帰洛。慈光寺本では、乱の発端となった摂津国長江庄問題に関連して早くも登場し、義時追討の武将の一人、後鳥羽院に先だって出家し、隠岐配流に供したことなど、全編にわたってその名が見えるが、流布本では追討の武将としてその名が見える程度である。
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という人物です。
元久二年(1205)生まれですから、承久の乱の時点では十七歳の若さですね。
能茂については以前少しだけ検討したことがあります。

慈光寺本『承久記』を読む。(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4760abd80a9a8ac323600cc80056a765

再掲になりますが、徳永誓子氏の「刑部僧正長厳の怨霊」(『怪異学の技法』、臨川書院、2003)には、

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 後鳥羽院の熊野詣に関しては、『明月記』建保元年(一二一三)十二月六日条に、以下のような話が見える。医王なる者が同年の参詣に供奉したが、那智飛龍権現の前で一時失神するという事件があった。那智の御所においても不思議な出来事があったため、後鳥羽院は熊野に所領を寄進し、熊野から戻った後に医王にも荘園を与えた。医王─医王丸は、成人して藤原能茂を名乗り、承久の乱後は配流先の隠岐にまで後鳥羽院に同行しており、その崩御後には遺骨を奉じて上洛したという。
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とあり(p126)、後鳥羽とは終生、特別な関係を持った人ですね。
また、その帰洛の様子は『増鏡』「巻三 藤衣」に「御骨をば能茂といひし北面の、入道して御供に候ひしぞ、首にかけ奉りて都に上りける」と出てきます。

「巻三 藤衣」(その7)─後鳥羽院崩御
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9a384872074709b799233fc6d689975

さて、前回投稿で紹介したように、慈光寺本には、能茂は後鳥羽院が隠岐に流される場面で、妙に重要そうな人物として登場します。
まず、

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 去程〔さるほど〕に、七月二日、院ハ高陽殿ヲ出サセ給ヒテ、押小路ノ泉殿ヘゾ御幸ナル。同四日、四辻殿ヘ御幸成。サラヌ御方ニハ、是ヨリ皆我御所々ヘ帰リ入セ給フ。同六日、四辻殿ヨリシテ、千葉次郎御供ニテ、鳥羽殿ヘコソ御幸ナレ。昔ナガラノ御供ノ人ニハ、大宮中納言実氏、宰相中将信業、左衛門尉能茂許〔ばかり〕也。
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ということで(p353)、後鳥羽院が鳥羽殿に移るに際し、能茂は「昔ナガラノ御供ノ人」として、西園寺実氏・藤原信業(信成。親兼の男。坊門忠信の猶子)と並んで登場します。
そして、

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 同十日ハ、武蔵太郎時氏、鳥羽殿ヘコソ参リ給ヘ。物具シナガラ南殿ヘ参給ヒ、弓ノウラハズニテ御前御簾ヲカキ揚テ、「君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ」ト責申声気色〔せめまうすこゑきそく〕、琰魔〔エンマ〕ノ使ニコトナラズ。院トモカクモ御返事ナカリケリ。武蔵太郎、重テ被申ケルハ、「イカニ宣旨ハ下リ候ヌヤラン。猶〔なほ〕謀反ノ衆ヲ引籠〔ひきこめ〕テマシマスカ。トクトク出サセオハシマセ」ト責申ケレバ、今度ハ勅答アリ。「今、我報ニテ、争カ謀反者引籠ベキ。但、麻呂〔まろ〕ガ都ヲ出ナバ、宮々ニハナレマイラセン事コソ悲ケレ。就中〔なかんづく〕、彼堂別当〔かのだうべつたう〕ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便〔ふびん〕に思食レツル者ナリ。今一度見セマイラセヨ」トゾ仰下サレケル。
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ということで、後鳥羽院は自分が都を出たら「宮々」と離れるのがつらいと言っているのだから、皇子・皇女と最後の別れの機会を持ちたいと言うのかと思ったら、「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂」に会いたい、という展開です。
どうも妙ですが、慈光寺本の作者にとって、「宮々」と「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂」は同等の存在であるようです。

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