学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その2)─執筆の目的

2023-02-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

(その1)で書いた仮説に若干の追加を行います。
慈光寺本の作者が藤原能茂、想定読者が能茂の娘婿の三浦光村だとして、執筆の目的は何か。
それは宝治合戦での光村の役割が自ずと物語っていて、三浦一族が北条氏打倒のために立ち上がることを期待した、ということになります。
宝治合戦はいったい何故起きたのか。
近時の三浦一族研究をリードされている高橋秀樹氏の『三浦一族の中世』(吉川弘文館、2015)や『北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)などを見ると、承久の乱後の北条氏と三浦氏の関係は宝治合戦の直前まで本当に円滑だったようです。
『北条氏と三浦氏』によれば、

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【前略】頼朝時代から実朝時代に至るまで、幕府においては侍受領が禁じられていたことを考えれば、義村の駿河守任官は特別な待遇であった。義村の前任者は北条時房・北条泰時、後任は北条重時であるから、義村の任駿河守は、北条氏が持っていた枠を譲られての任官だったことがわかる。北条氏が鎌倉殿の外戚として源氏一門に準じて受領となったように、義村は北条氏の外戚の立場で、北条氏に準じる形で受領となったのであろう。ただし、この段階で義村が諸大夫層に準じていたとはいいがたいから、幕府における侍受領の初例とみた方がいいだろう。建仁二年(一二〇二)に義村の娘と北条泰時は結婚し、翌年嫡子時氏が産まれていた。時氏誕生から程なくして、義村の娘と泰時は離婚したとみられるが、それでも北条氏と三浦氏との関係に大きな変化はなかった。泰時嫡子の外祖父という立場で、義村は駿河守になったのである。北条氏と三浦氏との協調関係なしに、義村の身分上昇は実現しなかった。
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とのことです。(p97)
そして承久の乱で義村は弟・胤義の誘いを拒否して北条氏側に立ち、大将格として東海道軍に加わり、泰村も泰時の下、宇治川合戦で活躍します。
また、承久の乱の戦後処理に関して、高橋氏は「幕府占領軍にあって、新天皇の擁立、院領荘園をめぐる交渉という最重要事項は北条時房でも泰時でもなく、三浦義村によって担われた」(p108)とされます。
寛喜二年(1230)、義村孫の北条時氏は二十八歳で病死してしまいますが、その後も三浦氏と北条氏の関係は円滑で、暦仁元年(1238)正月、第四代将軍・九条頼経が上洛した際には義村が入京の行列の先陣となり、六月の春日社参詣でも行列の先陣は義村だったことは、義村の幕府での地位の高さを象徴しています。
翌延応元年(1239)十二月に義村死去、翌月の延応二年(仁治元年、1240)正月に北条時房死去、更に仁治三年(1242)六月には北条泰時も死去して幕府指導層は世代交代しますが、それでも義村を継いだ泰村は北条氏との協調関係を維持し、新執権・経時を支えます。
若干微妙な情勢となったのは寛元四年(1246)閏四月、経時が二十三歳の若さで病死し、時頼への代替わりに際して起きた宮騒動(寛元の政変)の時ですが、高橋氏によれば、

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 これらの情報を総合すると、寛元の政変とは、頼経とその側近が、執権就任間もない時頼を除こうとした事件で、時頼の後釜として誘われたのが北条一門名越流の北条光時であった。三浦氏も謀反への関与を疑われたが、泰村が弟家村を時頼側近に遣わして関与していないことを弁明し、それは頼経にも確認をとって証明された。ふたたび信頼を得た泰村も加えた「深秘の沙汰」で、頼経の京都送還を含む事件の処理が行なわれたということなのだろう。九月一日にも時頼は泰村を招き、政務の眼目についても意見を聞いている。寛元の政変によって、北条氏と三浦氏との関係が壊れることはなかった。
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とのことです。(p165)
さて、「寛元の政変によって、北条氏と三浦氏との関係が壊れることはなかった」とすると、その翌年に何故宝治合戦が起きたのかが非常に不思議に思えてきます。
つまり、三浦一族の研究が進めば進むほど、三浦氏は本当に北条氏のために協力的で、また、幕府における三浦氏の地位の上昇と権益の確保は北条氏との協調関係があってのことであることが明らかになり、従って両者が壮絶な殲滅戦を展開しなければならなかった原因が分からなくなります。
宝治合戦を論じた後、高橋氏は、

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 北条義時・三浦義村以来、数十年にわたった北条氏と三浦氏の盟友関係はここに終わった。しかし、その結果は、時頼・泰村という両家の当主が望んだことではなかった。北条氏と三浦氏の対決は、数十年の歴史のなかで、宝治元年六月五日の一日だけ、しかも、たった六時間に過ぎなかった。
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と言われますが(p178)、何か狐につままれたような話です。

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『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』

唯一のライバルという通説は正しいのか? 『吾妻鏡』の記述を相対化する視点から検証。両氏の役割と関係に新見解を提示する。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b593892.html

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