学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

慈光寺本と流布本における後鳥羽院への非難の度合

2023-02-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本がそれほど後鳥羽院に批判的でないことは、流布本と比較するとより明確になります。
流布本では、上巻の冒頭は、

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 百王八十二代の御門をば、後鳥羽院とぞ申ける。隠岐国にて、隠れさせ給しかば、隠岐院とも申す。後白河院の御孫、高倉院第四の御子、寿永二年八月廿日、四歳にて御即位、御在位十五箇年の間、芸能二を学び給へるに、歌撰の花も開き、文章の実もなりぬべし。
 然りし後、御位を退かせ御座〔ましまし〕て、第一の御子に譲り奉らせ給ぬ。其後、いやしき身に御肩を双〔ならべ〕、御膝をくみましまして、后妃・采女〔うねめ〕の無止事〔やんごとなき〕をば、指〔さし〕をかせ給ひて、あやしの賤〔しづ〕に近付せ給ふ。賢王・聖主の直〔すなほ〕なる御政〔まつりごと〕に背き、横しまに武芸を好ませ給ふ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939

と始まっていて、文芸活動を一応評価していますが、「賢王・聖主の直〔すなほ〕なる御政〔まつりごと〕に背き、横しまに武芸を好ませ給ふ」は、後半の武芸好みの具体例しか挙げない慈光寺本より厳しい評価ですね。
また、流布本には、

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 都には又、源三位頼政が孫、左馬権頭頼持とて、大内守護に候けるを、是も多田満仲が末なればとて、一院より西面の輩を指遣し、被攻しかば、これも難遁とて、腹掻切てぞ失にける。院の関東を亡さんと被思召ける事は眼前なり。故大臣殿の官位、除目ごとに望にも過て被成けり。是は、官打にせん為とぞ。三条白河の端に、関東調伏の堂を建て、最勝四天王院と被名。されば大臣殿、無程被打給しかば、白川の水の恐れも有とて、急ぎ被壊にけり。
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という記述がありますが(松林靖明校注『新訂承久記』、p53)、慈光寺本には大内頼茂の誅殺や源実朝の官打ち、「関東調伏の堂」最勝四天王院の話も慈光寺本には存在しません。
官打云々は事実ではなかろうというのが最近の学説であり、最勝四天王院が「関東調伏の堂」であったかについても懐疑的な研究者が多いでしょうが、しかし、慈光寺本がこうした後鳥羽非難の材料に使えそうな話に慎重であることは確かです。
また、流布本と慈光寺本の異同が鮮明なのは、敗北が決まった後の後鳥羽の態度です。
流布本では、

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 去程に、京方の勢の中に、能登守秀安・平九郎判官胤義・山田次郎重忠、四辻殿へ参りて、某々帰参して候由、訇〔ののし〕り申ければ、「武士共は是より何方〔いづち〕へも落行」とて、門をも開かで不被入ければ、山田次郎、門を敲〔たたい〕て高声〔かうじやう〕に、「大臆病の君に語らはされて、憂に死せんずる事、口惜候」と訇ける。平九郎判官、「いざ同くは坂東勢に向ひ打死せん。但し宇治は大勢にて有なり。大将軍の目に懸らん事も不定〔ふじやう〕なり。淀へ向ひ死ん」とて馳行けるが、東寺に引籠る。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85a1f999a76d4276037c63f2f39ee598

とあって(松林靖明校注『新訂承久記』、p122)、後鳥羽は理由も述べずに「武士共は是より何方〔いづち〕へも落行」と冷酷に追い払い、これを聞いた山田重忠は「大臆病の君に語らはされて、憂に死せんずる事、口惜候」と激怒します。
これに対し、慈光寺本では、

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 翔・山田二郎重貞ハ、六月十四日ノ夜半計ニ、高陽院殿ヘ参テ、胤義申ケルハ、「君ハ、早、軍ニ負サセオハシマシヌ。門ヲ開カセマシマセ。御所ニ祗候シテ、敵待請、手際軍仕て、親リ君ノ御見参ニ入テ、討死ヲ仕ラン」トゾ奏シタル。院宣ニハ「男共御所ニ籠ラバ、鎌倉ノ武者共打囲テ、我ヲ攻ン事ノ口惜ケレバ、只今ハトクトク何クヘモ引退ケ」ト心弱仰下サレケレバ、胤義コレヲ承テ、翔・重定等ニ向テ申ケルハ、「口惜マシマシケル君ノ御心哉。カゝリケルキミニカタラハレマイラセテ、謀反ヲ起シケル胤義コソ哀ナレ。何ヘ退ベキ。コゝニテ自害仕ベケレドモ、兄ノ駿河守ガ淀路ヨリ打テ上ルナルニ、カケ向テ、人手ニカゝランヨリハ、最後ノ対面シテ、思フ事ヲ一詞〔ひとことば〕云ハン。義村ガ手ニカゝリ、命ヲステン」トテ、三人同打具シテ、大宮ヲ下ニ、東寺マデ打、彼寺ニ引籠テ敵ヲ待ニ、【後略】

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となっていて(新日本古典文学大系、p349以下)、後鳥羽は「男共御所ニ籠ラバ、鎌倉ノ武者共打囲テ、我ヲ攻ン事ノ口惜ケレバ、只今ハトクトク何クヘモ引退ケ」と、一応は門前払いにする理由を「心弱仰下サレ」ます。
これに対し、三浦胤義もまた「口惜マシマシケル君ノ御心哉。カゝリケルキミニカタラハレマイラセテ、謀反ヲ起シケル胤義コソ哀ナレ」と答えはしますが、流布本の山田重忠のように「大臆病の君」という最大級の侮辱・非難の表現は用いません。
まあ、内容的にはどっちもどっちでしょうが、少なくとも後鳥羽への非難のトーンは慈光寺本の方が弱いですね。
また、流布本では、

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 去程に武蔵守・駿河守は院の御所へ参らんとて、已に打立んずる由、一院被聞召て、下家司以被仰下は、「な参そ、張本に於は(交)名〔けうみやう〕を註〔しる〕し出さんずるぞ」と被仰下けり。上の者を以て重て此様を被仰ければ、「御所に武士やある。見て参れ」とて、力者を一人進〔まゐ〕らせければ、走帰て、「一人も不候」と申ければ、「左有〔されば〕」とて不参。公卿六人の(交)名を誌し被下。坊門大納言忠信卿・中御門(前)中納言宗行・佐々木前中納言有雅・按察使前中納言光親・甲斐宰相中将範義・一条宰相中将信氏等也。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3323b437157cf76028e0bfc28d4a1108

とあって、北条泰時・三浦義村が御所に向かうと聞いた後鳥羽は、「来ないでくれ、その代わり合戦「張本」の交名を提出します」と言い、実際に六人の交名を提出します。
この非常に情けない「大臆病の君」エピソードも慈光寺本には存在しません。
更に、流布本下巻の最後には、

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 承久三年、如何なる年なれば、三院・二宮、遠島へ趣〔おもむか〕せましまし、公卿・官軍、死罪・流刑に逢ぬらん。本朝如何なる所なれば、恩を知臣もなく、恥を思ふ兵〔つはもの〕も無るらん。日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひと申ながら、賢王逆臣を用ひても難保、賢臣悪王に仕へても治しがたし。一人怒時は罪なき者をも罰し給ふ。一人喜時は忠なき者をも賞し給にや。されば、天是にくみし不給。四海に宣旨を被下、諸国へ勅使を遣はせ共、随奉る者もなし。かゝりしかば関東の大勢、時房・泰時・(朝時)・義村・信光・長清等を大将として、数万の軍兵、東海道・東山道・北陸道三の道より責上りければ、靡かぬ草木も無りけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da774d684b1b10a3a5402115adb045b1

とあって、後鳥羽は「天」に見捨てられた存在だ、というのが流布本作者の総括ですが、慈光寺本にはそもそも全体を思想的に総括する部分がなく、従って流布本のような非難もありません。
ということで、流布本に比べれば慈光寺本は、それほど後鳥羽に批判的ではないですね。
もちろん、後鳥羽が完全無欠の優れた指導者であれば承久の乱で負けるはずはありませんから、後鳥羽に何らかの欠点があったのは間違いなく、慈光寺本作者も多少は非難している訳ですが、その非難の度合は流布本より遥かに弱いですね。

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何故に藤原能茂を慈光寺本作者と考える研究者が現れなかったのか。

2023-02-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

田渕論文の「四 伝承と霊託の世界へ」は、

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 西蓮は、『後鳥羽院御霊託記』という奇怪な書にその名が頻出する。特にその中の「伊王左衛門入道西蓮参隠岐於御前蒙勅宣記」と題する部分は「嘉禎二年<甲子>十月十五日沙弥西蓮記之」と結ばれていて、西蓮が隠岐でこの文を書いたとする。同書の永仁二年(一二九四)の託宣の条文に、「抑彼上人<乎>信敬故者、紀州由良湊<仁>能茂入道西蓮、建堂宇<天>号西方寺、朕<加>菩提所<土須>。」とあるのは、松林靖明氏も述べるように、後鳥羽院の遺骨を持ち帰った西蓮は、その後紀州の由良へ向かい、院の菩提寺として西方寺を建てた、というのである。この『後鳥羽院御霊託記』は、資料的価値という点では問題があることは言うまでもないが、このような伝承・説話を生み出す程に、西蓮は後鳥羽院と浮沈を共にし、特に晩年の院には分かち難く結びついていた存在であったと言えよう。そのような関わりが、慈光寺本『承久記』にも反映されていると考えられる。【後略】
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と始まっていて、非常に興味深い内容ではあります。
しかし、私の当面の関心は、あくまで歴史的実在としての能茂の役割の解明にあるので、今はこれ以上「伝承と霊託の世界」に深入りするのは控えておきます。
さて、田渕氏は「西蓮は後鳥羽院と浮沈を共にし、特に晩年の院には分かち難く結びついていた存在であったと言えよう。そのような関わりが、慈光寺本『承久記』にも反映されている」と言われますが、具体的にどのように「反映」されているのかについては、少なくともこの論文では検討されていません。
しかし、渡邉裕美子氏の論文を参照すると、後鳥羽院・能茂と七条院の「応答しない贈答歌」では、後鳥羽院と能茂の歌が「分かち難く結びついて」いて、その分離不能な統一体に対して、七条院が返歌するという形になっていますから、ここは「そのような関わりが、慈光寺本『承久記』にも反映されている」部分ですね。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/581532859e25780fef4ee441ea4ce703

また、能茂が北条泰時に命ぜられて出家し、その出家姿を見た後鳥羽院が自発的に出家を決意するという場面でも二人は「分かち難く結びついて」おり、「そのような関わりが、慈光寺本『承久記』にも反映されている」部分と言えます。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/030764e13365064fe1fc33203a47fbc0

この二つの場面は慈光寺本独自のエピソードであり、特に能茂が実質的に後鳥羽院の出家の導師のような重要な役割を演じている後者は、『愚管抄』を見れば虚偽であることが明白です。
これだけ疑わしい材料が揃っている以上、私には今まで慈光寺本の作者を能茂と考える研究者が存在しなかったことが不思議に思えるのですが、その理由としては、慈光寺本にそれなりに後鳥羽院に批判的な部分があることが考えられます。
この点、例えば松林靖明氏は、北川忠彦編『軍記物の系譜』(世界思想社、1985)の「第三章 公武の合戦記─『承久記』と『太平記』」において、「慈光寺本は、後鳥羽院をきわめて手厳しく批判的に描いている」とされます。
即ち、

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慈光寺本の後鳥羽院像
 ではその後鳥羽院はどのように描かれているであろうか。まず言えることは、『新古今集』編纂等に見られる院の文化的側面には全く触れておらず、『古今著聞集』(偸盗第十九)等に描かれているような"武"的な面が強調されていることである。

 凡そ御心操こそ世間に傾き申しけれ。伏物・越内・水練・早態・相撲・笠懸のみならず、朝夕
 武芸を事として、昼夜に兵具を整へて、兵乱を巧みましましけり。御腹悪しくて、少しも御気
 色に違ふ者をば、親〔まのあた〕り乱罪に行はる。大臣・公卿の宿所・山荘を御覧じては、御
 目留まる所をば召して御所と号せらる。都の中にも六所あり、片田舎にもあまたあり。御遊の
 余りには、四方の白拍子を召し集め、結番寵愛の族をば、十二殿の上・錦の茵〔しとね〕に召
 し上せて、踏み汚させられけるこそ、王法王威も傾きましますらんと覚えてあさましけれ。月
 卿・雲客相伝の所領をば優ぜられて、神田・講田倒されて歎く思ひや積りけん、十善の君たち
 まちに兵乱を起こし給ひ、終に流罪せられ給玉ひけるこそあさましけれ。

このように持明院統は、後鳥羽院をきわめて手厳しく批判的に描いている。武術を好み、武器を集め、兵乱を企て、恣意・わがままの振舞いが多く、まさに専制君主であったとし、承久の乱の原因もこの院の武断的性格によるものとみているのである。【後略】
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とありますが(p111以下)、まあ、我儘で無駄に敵を作ってしまった程度の話ですね。
そもそも慈光寺本では、後鳥羽院の人物像が描かれる直前に北条義時の人物像が描かれており、その義時は、

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 爰〔ここ〕に、右京権大夫義時ノ朝臣思様〔おもふやう〕、「朝〔てう〕ノ護〔まもり〕源氏ハ失終〔うせをはり〕ヌ。誰〔たれ〕カハ日本国ヲバ知行〔ちぎやう〕スベキ。義時一人シテ万方〔ばんぱう〕ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍〔あらそ〕フベキ」【後略】
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という具合いに、野心満々の大悪人です。
この義時像を受けて、

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 爰〔ここ〕ニ、太上天皇叡慮動キマシマス事アリ。源氏ハ日本国ヲ乱リシ平家ヲ打平〔うちたひ〕ラゲシカバ、勲功ニ地頭職ヲモ被下〔くだされ〕シナリ。義時ガ仕出〔しいだし〕タル事モ無テ、日本国ヲ心ノ儘ニ執行〔しゆぎやう〕シテ、動〔ややも〕スレバ勅定〔ちよくぢやう〕ヲ違背スルコソ奇怪〔きつくわい〕ナレト、思食〔おぼしめさ〕ルゝ叡慮積〔つも〕リニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939

とあって、ここは朝廷側から見れば全くの正論ですね。
朝廷が頼朝に守護・地頭の設置を認めたのは頼朝に「日本国ヲ乱リシ平家ヲ打平〔うちたひ〕ラゲ」たという立派な功績があったからで、今はその頼朝と頼朝の子孫が絶えてしまっており、かといって義時には朝廷に対する特段の功績がない以上、守護・地頭を認める前提条件は既に失われているのだ、という論理は、単なる感情論ではなく、法律論としても充分に成立します。
慈光寺本では後鳥羽院は巨悪としての義時に対抗して立ち上がった存在であって、後鳥羽院の基本的認識は正当であると主張した後で、後鳥羽の若干の性格的欠陥が指摘されているだけです。
そして、慈光寺本では亀菊エピソードの最終場面と、陰陽師の時期尚早という卜占に後鳥羽が躊躇う場面の二度に亘って、卿二位が後鳥羽以上の強硬派として登場し、後鳥羽を叱咤激励しており、これは後鳥羽個人の責任を軽減していますね。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58
戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/980e422d8b3b66cdab3b0f448eba8b3c

結局、「慈光寺本は、後鳥羽院をきわめて手厳しく批判的に描いている」訳でもないですね。

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