慈光寺本がそれほど後鳥羽院に批判的でないことは、流布本と比較するとより明確になります。
流布本では、上巻の冒頭は、
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百王八十二代の御門をば、後鳥羽院とぞ申ける。隠岐国にて、隠れさせ給しかば、隠岐院とも申す。後白河院の御孫、高倉院第四の御子、寿永二年八月廿日、四歳にて御即位、御在位十五箇年の間、芸能二を学び給へるに、歌撰の花も開き、文章の実もなりぬべし。
然りし後、御位を退かせ御座〔ましまし〕て、第一の御子に譲り奉らせ給ぬ。其後、いやしき身に御肩を双〔ならべ〕、御膝をくみましまして、后妃・采女〔うねめ〕の無止事〔やんごとなき〕をば、指〔さし〕をかせ給ひて、あやしの賤〔しづ〕に近付せ給ふ。賢王・聖主の直〔すなほ〕なる御政〔まつりごと〕に背き、横しまに武芸を好ませ給ふ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939
と始まっていて、文芸活動を一応評価していますが、「賢王・聖主の直〔すなほ〕なる御政〔まつりごと〕に背き、横しまに武芸を好ませ給ふ」は、後半の武芸好みの具体例しか挙げない慈光寺本より厳しい評価ですね。
また、流布本には、
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都には又、源三位頼政が孫、左馬権頭頼持とて、大内守護に候けるを、是も多田満仲が末なればとて、一院より西面の輩を指遣し、被攻しかば、これも難遁とて、腹掻切てぞ失にける。院の関東を亡さんと被思召ける事は眼前なり。故大臣殿の官位、除目ごとに望にも過て被成けり。是は、官打にせん為とぞ。三条白河の端に、関東調伏の堂を建て、最勝四天王院と被名。されば大臣殿、無程被打給しかば、白川の水の恐れも有とて、急ぎ被壊にけり。
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という記述がありますが(松林靖明校注『新訂承久記』、p53)、慈光寺本には大内頼茂の誅殺や源実朝の官打ち、「関東調伏の堂」最勝四天王院の話も慈光寺本には存在しません。
官打云々は事実ではなかろうというのが最近の学説であり、最勝四天王院が「関東調伏の堂」であったかについても懐疑的な研究者が多いでしょうが、しかし、慈光寺本がこうした後鳥羽非難の材料に使えそうな話に慎重であることは確かです。
また、流布本と慈光寺本の異同が鮮明なのは、敗北が決まった後の後鳥羽の態度です。
流布本では、
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去程に、京方の勢の中に、能登守秀安・平九郎判官胤義・山田次郎重忠、四辻殿へ参りて、某々帰参して候由、訇〔ののし〕り申ければ、「武士共は是より何方〔いづち〕へも落行」とて、門をも開かで不被入ければ、山田次郎、門を敲〔たたい〕て高声〔かうじやう〕に、「大臆病の君に語らはされて、憂に死せんずる事、口惜候」と訇ける。平九郎判官、「いざ同くは坂東勢に向ひ打死せん。但し宇治は大勢にて有なり。大将軍の目に懸らん事も不定〔ふじやう〕なり。淀へ向ひ死ん」とて馳行けるが、東寺に引籠る。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85a1f999a76d4276037c63f2f39ee598
とあって(松林靖明校注『新訂承久記』、p122)、後鳥羽は理由も述べずに「武士共は是より何方〔いづち〕へも落行」と冷酷に追い払い、これを聞いた山田重忠は「大臆病の君に語らはされて、憂に死せんずる事、口惜候」と激怒します。
これに対し、慈光寺本では、
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翔・山田二郎重貞ハ、六月十四日ノ夜半計ニ、高陽院殿ヘ参テ、胤義申ケルハ、「君ハ、早、軍ニ負サセオハシマシヌ。門ヲ開カセマシマセ。御所ニ祗候シテ、敵待請、手際軍仕て、親リ君ノ御見参ニ入テ、討死ヲ仕ラン」トゾ奏シタル。院宣ニハ「男共御所ニ籠ラバ、鎌倉ノ武者共打囲テ、我ヲ攻ン事ノ口惜ケレバ、只今ハトクトク何クヘモ引退ケ」ト心弱仰下サレケレバ、胤義コレヲ承テ、翔・重定等ニ向テ申ケルハ、「口惜マシマシケル君ノ御心哉。カゝリケルキミニカタラハレマイラセテ、謀反ヲ起シケル胤義コソ哀ナレ。何ヘ退ベキ。コゝニテ自害仕ベケレドモ、兄ノ駿河守ガ淀路ヨリ打テ上ルナルニ、カケ向テ、人手ニカゝランヨリハ、最後ノ対面シテ、思フ事ヲ一詞〔ひとことば〕云ハン。義村ガ手ニカゝリ、命ヲステン」トテ、三人同打具シテ、大宮ヲ下ニ、東寺マデ打、彼寺ニ引籠テ敵ヲ待ニ、【後略】
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となっていて(新日本古典文学大系、p349以下)、後鳥羽は「男共御所ニ籠ラバ、鎌倉ノ武者共打囲テ、我ヲ攻ン事ノ口惜ケレバ、只今ハトクトク何クヘモ引退ケ」と、一応は門前払いにする理由を「心弱仰下サレ」ます。
これに対し、三浦胤義もまた「口惜マシマシケル君ノ御心哉。カゝリケルキミニカタラハレマイラセテ、謀反ヲ起シケル胤義コソ哀ナレ」と答えはしますが、流布本の山田重忠のように「大臆病の君」という最大級の侮辱・非難の表現は用いません。
まあ、内容的にはどっちもどっちでしょうが、少なくとも後鳥羽への非難のトーンは慈光寺本の方が弱いですね。
また、流布本では、
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去程に武蔵守・駿河守は院の御所へ参らんとて、已に打立んずる由、一院被聞召て、下家司以被仰下は、「な参そ、張本に於は(交)名〔けうみやう〕を註〔しる〕し出さんずるぞ」と被仰下けり。上の者を以て重て此様を被仰ければ、「御所に武士やある。見て参れ」とて、力者を一人進〔まゐ〕らせければ、走帰て、「一人も不候」と申ければ、「左有〔されば〕」とて不参。公卿六人の(交)名を誌し被下。坊門大納言忠信卿・中御門(前)中納言宗行・佐々木前中納言有雅・按察使前中納言光親・甲斐宰相中将範義・一条宰相中将信氏等也。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3323b437157cf76028e0bfc28d4a1108
とあって、北条泰時・三浦義村が御所に向かうと聞いた後鳥羽は、「来ないでくれ、その代わり合戦「張本」の交名を提出します」と言い、実際に六人の交名を提出します。
この非常に情けない「大臆病の君」エピソードも慈光寺本には存在しません。
更に、流布本下巻の最後には、
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承久三年、如何なる年なれば、三院・二宮、遠島へ趣〔おもむか〕せましまし、公卿・官軍、死罪・流刑に逢ぬらん。本朝如何なる所なれば、恩を知臣もなく、恥を思ふ兵〔つはもの〕も無るらん。日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひと申ながら、賢王逆臣を用ひても難保、賢臣悪王に仕へても治しがたし。一人怒時は罪なき者をも罰し給ふ。一人喜時は忠なき者をも賞し給にや。されば、天是にくみし不給。四海に宣旨を被下、諸国へ勅使を遣はせ共、随奉る者もなし。かゝりしかば関東の大勢、時房・泰時・(朝時)・義村・信光・長清等を大将として、数万の軍兵、東海道・東山道・北陸道三の道より責上りければ、靡かぬ草木も無りけり。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da774d684b1b10a3a5402115adb045b1
とあって、後鳥羽は「天」に見捨てられた存在だ、というのが流布本作者の総括ですが、慈光寺本にはそもそも全体を思想的に総括する部分がなく、従って流布本のような非難もありません。
ということで、流布本に比べれば慈光寺本は、それほど後鳥羽に批判的ではないですね。
もちろん、後鳥羽が完全無欠の優れた指導者であれば承久の乱で負けるはずはありませんから、後鳥羽に何らかの欠点があったのは間違いなく、慈光寺本作者も多少は非難している訳ですが、その非難の度合は流布本より遥かに弱いですね。