学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちに捧げる歌(by GOTOBA)

2023-02-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

作詞:鈴木小太郎
作曲:タケカワユキヒデ
歌:GOTOBA

   Nagaenosho

そこに行けば どんな夢も
かなうというよ
誰もみな 行きたがるが
遥かな世界
その庄園の名は長江庄
何処かにあるユートピア
どうしたら 行けるのだろう
教えて欲しい

In Nagaenosho Nagaenosho
They say it was in Settsu(摂津)
Nagaenosho Nagaenosho
愛の庄園 長江庄

生きることの 苦しみさえ
消えるというよ
旅立った人はいるが
あまりにも遠い

その庄園の名は長江庄
素晴らしいユートピア
慈光寺本の中だけにある
幻なのか

In Nagaenosho Nagaenosho
They say it was in Settsu(摂津)
Nagaenosho Nagaenosho
領家は亀菊 長江庄

In Nagaenosho Nagaenosho
They say it was in Settsu(摂津)
Nagaenosho Nagaenosho
地頭は義時 長江庄

https://www.youtube.com/watch?v=m76LfRKaAzo

 

※参考

長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da
「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d28bb5de2a337a74f14bad71e5aa96a3

原曲の歌詞がちょっと単調なので、作品としてはイマイチですかね。
「隠岐にて実朝を偲ぶ歌(後鳥羽院)」は我ながら傑作だと思うなり。

東京大学教授・高橋典幸氏に捧ぐ「隠岐にて実朝を偲ぶ歌(後鳥羽院)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/715897be49d108c681eb0c462e2af4f8

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘

2023-02-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

そして、多くの歴史研究者が「つまみ食い」している亀菊と長江荘の話となります。
ここも既に「長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター」で紹介済みですが、参照の便宜のために再掲します。(p305以下)

-------
 其〔その〕由来ヲ尋ヌレバ、佐目牛〔さめうし〕西洞院ニ住ケル亀菊ト云〔いふ〕舞女〔ぶぢよ〕ノ故トゾ承ル。彼人〔かのひと〕、寵愛双〔ならび〕ナキ余〔あまり〕、父ヲバ刑部丞〔ぎやうぶのじよう〕ニゾナサレケル。俸禄不余〔あまらず〕思食〔おぼしめし〕テ、摂津国長江庄〔ながえのしやう〕三百余町ヲバ、丸〔まろ〕ガ一期〔いちご〕ノ間ハ亀菊ニ充行〔あておこな〕ハルゝトゾ、院宣下サレケル。刑部丞ハ庁〔ちやう〕ノ御下文〔おんくだしぶみ〕ヲ額〔ひたひ〕ニ宛テ、長江庄ニ馳下〔はせくだり〕、此由〔このよし〕執行シケレ共〔ども〕、坂東地頭、是ヲ事共〔こととも〕セデ申ケルハ、「此所ハ右大将家ヨリ大夫殿〔だいぶどの〕ノ給テマシマス所ナレバ、宣旨ナリトモ、大夫殿ノ御判〔ごはん〕ニテ、去〔さり〕マヒラセヨト仰〔おほせ〕ノナカラン限ハ、努力〔ゆめゆめ〕叶〔かなひ〕候マジ」トテ、刑部丞ヲ追上〔おひのぼ〕スル。仍〔よつて〕、此趣ヲ院ニ愁申〔うれへまうし〕ケレバ、叡慮不安〔やすからず〕カラ思食テ、医王〔ゐわう〕左衛門能茂〔よしもち〕ヲ召テ、「又、長江庄ニ罷下〔まかりくだり〕テ、地頭追出〔おひいだ〕シテ取ラセヨ」ト被仰下〔おほせくだされ〕ケレバ、能茂馳下〔はせくだり〕テ追出ケレドモ、更ニ用ヒズ。能茂帰洛シテ、此由〔このよし〕院奏シケレバ、仰下〔おほせくだ〕サレケルハ、「末々ノ者ダニモ如此〔かくのごとく〕云。増シテ義時ガ院宣ヲ軽忽〔きやうこつ〕スルハ、尤〔もつとも〕理〔ことわり〕也」トテ、義時ガ詞〔ことば〕ヲモ聞召〔きこしめし〕テ、重テ院宣ヲ被下〔くだされ〕ケリ。「余所〔よそ〕ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計〔ばかり〕ヲバ去進〔さりまゐら〕スベシ」トゾ書下サレケル。義時、院宣ヲ開〔ひらき〕テ申サレケルハ、「如何ニ、十善ノ君ハ加様〔かやう〕ノ宣旨ヲバ被下〔くだされ〕候ヤラン。於余所者〔よそにおいては〕、百所モ千所モ被召上〔めしあげられ〕候共〔とも〕、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙〔かうぶる〕始ニ給〔たまひ〕テ候所ナレバ、居乍〔ゐながら〕頸ヲ被召〔めさる〕トモ、努力〔ゆめゆめ〕叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背〔そむき〕ケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da

分量は16行ですね。
私の立場からは「医王左衛門能茂」が登場する点が極めて興味深いのですが、多くの歴史研究者の関心は長江荘に集中しています。
そして、私も若手研究者が自説の典拠として挙げる小山靖憲氏の「椋橋荘と承久の乱」(『市史研究とよなか』第1号、1991)を読んでみましたが、読後感は何とも奇妙なものでした。
小山論文はタイトル通り椋橋荘をテーマとするもので、長江荘はあくまで付随的な扱いでしたが、史料が豊富に存在する椋橋荘とは対照的に、長江荘については鎌倉時代の史料が文字通り「皆無」で、南北朝期以降の史料に類似地名が出て来るだけですね。
この程度の史料しかないのに、長江荘の地頭が北条義時だったという「学説」が、今や通説になろうとしている現状は本当に驚きです。

歴史研究者は何故に慈光寺本『承久記』を信頼するのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dbce4ae481988ee4658a379aba137edb
「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d28bb5de2a337a74f14bad71e5aa96a3

ま、それはともかく、続きです。(p306以下)

-------
 院ハ此由〔このよし〕聞食〔きこしめし〕、弥〔いよいよ〕不安カラ〔やすからず〕奇怪也ト思食〔おぼしめし〕ケルモ、御理〔おんことわり〕ナルベシ。公卿僉議〔せんぎ〕アルベシトテ催サレケル人々ハ、近衛殿<基通>、九条殿下<道家>、徳大寺左大臣<公継>、坊門新大納言<忠信>、按察中納言<光親>、佐々木野中納言<有雅>、中御門中納言<宗行>、甲斐宰相中将<範茂>、一条宰相中将<信能>、刑部僧正<長厳>、二位法印<尊─>ナドヲゾ召サレケル。「義時ガ再三院宣ヲ背〔そむく〕コソ、奇怪ニ思食〔おぼしめさ〕ルレ。如何アルベキ。能々〔よくよく〕計申〔はからひまうせ〕」ト仰出〔おほせいだ〕サル。近衛殿申サセ給ケルハ、「昔、利仁将軍ハ廿五ニテ東国ニ下〔くだり〕、鬼搦〔から〕メテ、我ニ勝サル将軍有マジトテ、大唐責〔せめ〕ント申ケルニ、調伏セラレ、大元明王〔だいげんみやうわう〕ニ蹴ラレマヒラセテ、将軍塚ヘ入ニケリ。其後〔そののち〕、都ノ武士未聞ヘ〔いまだきこえず〕。只能〔ただよく〕義時ヲスカサセ玉ヘ」トゾ申サレケル。
-------

分量は9行です。
この後、近衛基通の消極意見に対し、卿二位が簾中から強硬意見を述べるという展開となりますが、それは次の投稿で紹介します。
なお、この公卿僉議と卿二位のエピソードは慈光寺本にだけ存在します。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その10)─北条義時と後鳥羽院の登場

2023-02-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

源氏三代に進みます。(p303以下)

------
 頼朝卿、度々〔たびたび〕都ニ上リ、武芸ノ徳ヲ施〔ほどこ〕シ、勲功無比〔たぐひなく〕シテ、位〔くらゐ〕正二位ニ進ミ、右近衛ノ大将ヲ経タリ。西ニハ九国〔くこく〕二島、東ニハアクロ・ツガル・夷〔ゑびす〕ガ島マデ打靡〔うちなびか〕シテ、威勢一天下ニ蒙〔かうぶ〕ラシメ、栄耀〔えいえう〕四海ノ内ニ施シ玉フ。去程〔さるほど〕ニ、建久九年<戊午>十二月下旬ノ比、相模川ニ橋供養ノ有シ時、聴聞ニ詣玉〔まうでたまひ〕テ、下向ノ時ヨリ水神ニ領〔りやう〕ゼラレテ、病患頻〔しきり〕ニ催シテ、半月ニ臥シ、心身疲崛〔ひくつ〕シテ、命〔いのち〕今ハ限〔かぎり〕ト見ヘ給フ時、孟光〔まうくわう〕ヲ病床ニ語〔かたらひ〕テ曰ク、「半月ニ沈ミ、君ニ偕老〔かいらう〕ヲ結〔むすび〕テ後、多年ヲ送〔おくり〕キ。今ハ同穴〔どうけつ〕ノ時ニ臨メリ」。嫡子少将頼家ヲ喚出〔よびいだし〕、宣玉〔のたま〕ヒケルハ、「頼朝ハ運命既ニ尽ヌ。ナカラン時、千万〔せんまん〕糸惜〔いとほしく〕セヨ。八ケ国ノ大名・高家ガ凶害ニ不可付〔つくべからず〕。畠山ヲ憑〔たのみ〕テ日本国ヲバ鎮護スベシ」ト遺言ヲシ給ヒケルコソ哀〔あはれ〕ナレ。
 少将イマダ有若(亡)〔うじやくまう〕ノ人ナレバ、父ノ遺言ヲモ用玉〔もちひたま〕ハズ、梶原平三景時ゾ後見〔うしろみし〕奉ケル。人、唇ヲ反〔かへ〕シケリ。生年十六ニテ左衛門督ニ成〔なる〕。六年ゾ世ヲ持チ給ケル。然〔しかる〕ニ、ナセル忠孝ハナクシテ栄耀に誇〔ほこり〕、世ヲ世トモ治メ玉ハザリケレバ、母儀〔ぼぎ〕・伯父〔をぢ〕教訓ヲ加フレドモ、用ヒ玉ハズ。遂ニハ元久元年<甲子>七月廿八日、伊豆国修善寺ノ浴室ニオキテ、生害〔しやうがい〕サセ申〔まうす〕。舎弟千万若子〔わかご〕、果報ヤマサリ玉ヒケン、十三ニテ元服有テ、実朝トゾ名ノリ給ケル。次第ノ昇進不滞〔とどこほらず〕、四位、三位、左近ノ中将ヲヘテ、程ナク右大臣ニ成玉フ。徳ヲ四海ニ施シ、栄ヲ七道耀〔かかやか〕シ、去〔さんぬる〕建保七年<己卯>正月廿日、右大臣ノ拝賀ニ勅使下向有テ、鎌倉ノ若宮ニヲキ拝賀申サレケル時、舎兄〔しやきやう〕頼家ノ子息若宮別当悪禅師〔あくぜんじ〕ノ手ニカゝリ、アヘナク被誅〔ちうせられ〕給ケリ。凡〔およそ〕三界ノ果報ハ風前ノ灯、一期〔いちご〕ノ運命ハ春ノ夜ノ夢也。日影ヲマタヌ朝顔、水ニ宿レル草葉ノ露、蜉蝣〔かげらふ〕ノ体ニ不異〔ことならず〕。
-------

分量は、

 頼朝 9行
 頼家・実朝(二人合わせて) 11行

で、合計20行ですね。
内容で若干分かりにくいのは「孟光」ですが、久保田氏の脚注によれば「妻北条政子をさす。本来は後漢の梁鴻の妻。醜貌であったが徳行を修め、人々に尊敬された」とのことです。
その他、頼家が「生年十六ニテ左衛門督ニ成」は正治二年十九歳の時の誤り、頼家殺害の「元久元年<甲子>七月廿八日」は十八日の誤りですが、まあ、細かいことで、記事全体は概ね正確ですね。
さて、流布本では後鳥羽院の後に北条義時が登場しますが、慈光寺本では源氏三代の説明をあっさり済ませた後、いきなり義時が大野心家として登場します。
この点は既に何度か紹介済みですが、参照の便宜のために再掲します。(p304)

-------
 爰〔ここ〕ニ、右京権大夫義時ノ朝臣思様〔おもふやう〕、「朝〔てう〕ノ護〔まもり〕源氏ハ失終〔うせをはり〕ヌ。誰〔たれ〕カハ日本国ヲバ知行〔ちぎやう〕スベキ。義時一人シテ万方〔ばんぱう〕ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍〔あらそ〕フベキ」。同年夏ノ比、相模守時房ヲ都ニ上〔のぼせ〕テ、帝王ニ将軍ノ仁〔じん〕ヲ申サレケリ。当時ノ世中〔よのなか〕ヲ鎮〔しづ〕メントテ、右大将公経卿外孫、摂政殿下ノ三男、寅年寅日寅時ニ生レ給ヘレバ、童名〔わらはな〕ハ三寅〔みとら〕ト申〔まうす〕若君ヲ、建保七年六月十八日、鎌倉ヘ下〔くだし〕奉ル。風諫〔ふうかん〕ニハ伊予中将実雅〔さねまさ〕、後見ニ右京権大夫義時トゾ定メ下サレケル。争〔いかで〕カ二歳ニテハトテ、三ト云名ヲ付奉リテ、十八日ヨリ廿日マデ、年始元三〔ぐわんざん〕ノ儀式ヲ始テ御遊〔ぎよいう〕アリ。七社詣〔まうで〕シテ鎌倉ニ座〔おはしま〕ス。
-------

分量は8行ですね。
そして義時の後に後鳥羽院が登場します。

-------
 爰〔ここ〕ニ、太上天皇〔だいじやうてんわう〕叡慮動キマシマス事アリ。源氏ハ日本国ヲ乱〔みだ〕リシ平家ヲ打平〔うちたひ〕ラゲシカバ、勲功ニ地頭職ヲモ被下〔くだされ〕シナリ。義時ガ仕出〔しいだし〕タル事モ無〔なく〕テ、日本国ヲ心ノ儘ニ執行〔しゆぎやう〕シテ、動〔ややも〕スレバ勅定〔ちよくぢやう〕ヲ違背スルコソ奇怪〔きつくわい〕ナレト、思食〔おぼしめさ〕ルゝ叡慮積〔つも〕リニケリ。凡〔およそ〕、御心操コソ世間ニ傾ブキ申ケレ。伏物、越内、水練、早態、相撲、笠懸ノミナラズ、朝夕武芸ヲ事トシテ、昼夜ニ兵具ヲ整ヘテ、兵乱ヲ巧〔たくみ〕マシマシケリ。御腹悪〔あしく〕テ、少モ御気色ニ違〔たがふ〕者ヲバ、親〔まのあた〕リ乱罪ニ行ハル。大臣・公卿ノ宿所・山荘ヲ御覧ジテハ、御目留〔とま〕ル所ヲバ召シテ、御所ト号セラル。都ノ中ニモ六所アリ。片井中〔かたゐなか〕ニモアマタアリ。御遊ノ余ニハ、四方〔よも〕ノ白拍子ヲ召集〔めしあつめ〕、結番、寵愛ノ族〔やから〕ヲバ、十二殿ノ上、錦ノ茵〔しとね〕ニ召上〔めしのぼ〕セテ、蹈汚〔ふみけが〕サセラレケルコソ、王法・王威モ傾〔かたぶ〕キマシマス覧〔らん〕ト覚テ浅猿〔あさまし〕ケレ。月卿雲客相伝ノ所領ヲバ優〔いう〕ゼラレテ、神田・講田十所ヲ五所ニ倒シ合〔あはせ〕テ、白拍子ニコソ下シタベ。古老神官・寺僧等、神田・講田倒サレテ、歎ク思〔おもひ〕ヤ積〔つもり〕ケン、十善君忽〔たちまち〕ニ兵乱ヲ起給〔おこしたま〕ヒ、終ニ流罪セラレ玉ヒケルコソ朝増〔あさまし〕ケレ。
-------

分量は義時より多く、13行です。
ここは松林靖明氏によって「慈光寺本は、後鳥羽院をきわめて手厳しく批判的に描いている」とされる部分ですが、しかし流布本と比較すると非難の程度はさほどでもなく、我儘で無駄に敵を作ってしまった程度の話ですね。

何故に藤原能茂を慈光寺本作者と考える研究者が現れなかったのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eabb3d82a87a07dbc7a4cbad9bbd1f93
慈光寺本と流布本における後鳥羽院への非難の度合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22dce396bbb288867bb1c692c425ea59
順徳院と九条道家の長歌贈答について(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb62397dc9e151b0c81686908ac984f4

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その9)─序文が置かれた理由

2023-02-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

ここで序文について少し整理しておきます。
序文は慈光寺本にだけ存在しているので他本との比較はできませんが、慈光寺本での内容と分量は、

-------
仏教的な時間論 12行
仏教的観点からの世界地理と「我朝日本日域」の天神・地神 11行
「十二ケ度」の「国王兵乱」 49行
  総論(3行)
 (1)綏靖天皇の時代、「震旦国」が「十万八千騎ノ勢」で攻めてきたが、敗退。(3行)
 (2)開化天皇が「兄ノ位ヲ打取テ、世ヲ治玉フ」(2行)
 (3)仲哀天皇が「異国ノ為ニ崩御」した後、神功皇后による三韓征伐(12行)
 (4)聖徳太子と物部守屋との仏教をめぐる合戦(3行)
 (5)斉明天皇が「春宮打失、后奪取テ位ヲ、治玉フ」(2行)
 (6)文武天皇が「極テ心悪ク、腹カラ舎弟ノ王胤共ヲ打失」(2行)
 (7)「聖武天皇ト弟ノ親王ト合戦」(1行)
 (8)保元の乱(9行)
 (9)源平合戦(11行)
  まとめ(1行)
-------

ということで、合計72行ですから全体の約7%で(72/1044≒0.069)、けっこうな分量ですね。
さて、序文の約7割(49/72≒0.68)を占める「国王兵乱」ですが、まず、全部合計しても九度なのに十二度としているのが極めて不審です。
そして、九度のうち、半分以上の(1)(2)(5)(6)(7)の内容が極めて不審です。
これをどう考えるべきなのか。
慈光寺本の作者は歴史研究者としても極めて誠実で、徹底的に文献を調べて、誰も気づいていなかった歴史の「真相」をつきとめたのか。
それとも、主観的には誠実に調べはしたが、歴史研究者としての資質と能力が不足しており、信頼すべきでない資料を軽率に信頼してしまったのか。(過失)
あるいは、典拠となる資料が存在しないのを承知で「国王兵乱」の歴史を創作したのか。(故意)
私としては、渡邉裕美子氏の研究により慈光寺本の和歌の大半が創作であることが判明していることに加え、「国王兵乱」九度のうち、実に半分以上の内容が不審である以上、慈光寺本の作者が故意で(あるいは史実について何の関心も払わない重大な過失で)創作したものと考えます。
では、何故にそんな話を創作し、序文に取り込んだのか。
まあ、慈光寺本が深遠な仏教理論と「国王兵乱」に関する詳細な歴史知識を背景とする大変な名著であることを読者にアピールし、荘重な雰囲気を醸し出すことが目的ではなかったか、と私は想像します。
なお、私には仏教理論は分からないので、冒頭の仏教的な時間論と仏教的観点からの世界地理論がどの程度の水準の議論なのか判断できませんが、序文後半の「十二ケ度」の「国王兵乱」に創作が多いであろうことを踏まえると、前半もどこまで信頼できるのか、という疑問は生じます。
あるいはこちらも、当時の仏教理論の水準を反映しているのではなく、慈光寺本作者の独自理論が相当混入している可能性も考えられるので、大津雄一氏のように「劫」云々をあまりに重視するのもどんなものなのだろうか、と私は思います。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その6)─仏教と日本の神話
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b6f6430ffecf3f663a099ae7e28cc47

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