学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「権門体制論」の出生の謎(その3)

2023-02-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿で引用した部分の最後、「王権内部の一装置」に付された注(15)には、

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(15)松薗斉「「中世天皇制」と王権─安徳天皇を素材として─」(『年報中世史研究』二八号、二〇〇三年)四一頁。
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とありますが、私は未読です。
さて、続きです。(p6以下)

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 ところが、生身の個人としての天皇の権威が動揺する反面、理念的な天皇像がかえって様々に語られるようになる。そうした天皇像の創造と実践を試みた人物に、摂関家出身(九条兼実の同母弟)で、天台座主に四度補任された僧慈円がいる。慈円は建仁三年(一二〇三)六月二十二日にみた夢をもとにして「夢想記」を記した。その後も思索を深めて、二段階にわたる加筆を加えて承元三年(一二〇九)六月に書き上げた。その最後の段階に書かれたと思われる末尾に次のような一節がある。

 於宝剣者、終以没海底、不求得之失了也、而其後、武士大将軍進止日本国、任意令補
 諸国地頭、不叶帝王進止、但聊蒙帝王之免、依勅定補之由云々、宝剣没海底之後、任
 其徳於人将歟、聖人在世者、定開悟由来、思慮興廃歟、悲哉々々、

 この一節は以下のような意味である。すなわち、宝剣が壇ノ浦の海底に失われたが、その後「武士大将軍」(源頼朝)が日本国を支配し、ほしいままに諸国の「地頭」を補任し、「帝王」は支配できなくなった。だが、それは将軍が帝王の許しを得て、その命令(勅定)によって(地頭を)補任したものだからだという。海底に沈んだ「宝剣」の「徳」が「人将」に委ねられたのだろうか。聖人が世にいれば、きっとその由来を悟り、世の興廃に思慮をめぐらすことだろう、悲しいことである、と。
 ここで慈円が、諸国の地頭設置によって朝廷の全国支配は失われたという危機意識を抱く一方で、天皇を守護する宝剣の機能(「徳」)が将軍(武家)に引きつがれたのだろうかという論理をみせていることに注目したい。「夢想記」の段階では、「聖人世に在らば」の述懐に明らかなように、慈円は必ずしも肯定的に捉えておらず、諦観を込めたものであった。
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いったん、ここで切ります。
「諸国の地頭設置によって朝廷の全国支配は失われたという危機意識を抱く一方で」に付された注(17)を見ると、

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(17)近年の研究は、地頭と荘園制を対立的に捉えず、(特に十三世紀半ば以降)地頭制によって朝廷の国家財政や荘園制が安定する面を強調する傾向がある(清水亮『鎌倉幕府御家人制の政治史的研究』校倉書房、二〇〇七年など)。客観的にはそのような面はあるものの、同時代の貴族たちの《主観》は、地頭によって朝廷の諸国支配が失われたというものではなかっただろうか。
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とありますが、『増鏡』巻二「新島守」にも、

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 その年十一月九日権大納言になされて、右近大将を兼ねたり。十二月の一日ごろ、よろこび申しして、同じき四日やがて官をば返し奉る。この時ぞ諸国の総追捕使といふ事、承りて、地頭職に我が家のつはものどもなし集めけり。この日本国の衰ふるはじめはこれよりなるべし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e8214126e5263a36d1acb0cc4c029fb

とあって、これは同時代ではなく、百数十年後、後醍醐によって討幕が成功した頃の「貴族たちの《主観》」ですが、「この日本国の衰ふるはじめはこれよりなるべし」は「地頭によって朝廷の諸国支配が失われた」とほぼ同じ意味ですね。
なお、流布本『承久記』には、

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 同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる。故を如何〔いか〕にと尋れば、地頭・領家の相論とぞ承はる。古〔いにし〕へは、下司・庄官と云計〔いふばかり〕にて、地頭は無りしを、鎌倉右大将、朝敵の平家を追討して、其の勧賞〔けんじやう〕に、日本国の惣追捕使に補せられて、国々に守護を置き、郡郷に地頭をすへ、段別兵粮を宛て取るゝ間、領家は地頭をそねみ、地頭は領家をあたとす。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939

とあって、承久の乱の結果、「王法尽させ給ひて、民の世と」なった根本原因を探ると、それは頼朝を「日本国の惣追捕使に補」し、「国々に守護を置き、郡郷に地頭をすへ」たことだ、との立場ですから、佐藤氏が紹介されている慈円の見解とよく似ていますね。
ただ、これは慈円や『増鏡』のように「貴族たちの《主観》」かというと、私には「領家」(貴族側)と「地頭」(武家側)のいずれにも加担せず、「領家」「地頭」の両者を突き放し、第三者的立場から客観的に眺めているように思われます。
私には、この文章に承元三年(1209)六月の慈円が抱いていたような「諦観」すら感じられないのですが、それはいったい何故なのか。
流布本の作者はいったい何者なのか。
ま、それは今後の課題として、続きです。(p7)

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 だが、承久の乱の直前に執筆された『愚管抄』では、武士が「キミ〔君〕ノ御マモリ〔守〕」となった世の中であることを伊勢大神宮も八幡大菩薩も認めたから、将軍と入れ替わるようにして、天皇を守護するために祖先神が乗り移っていた宝剣は姿を消したのであるという肯定的な記述に変わっていく。顕密仏教と朝廷とが互いに支え合うという王法仏法相双論に基づく王権論を前提にして、将軍とは天皇の守護者であり、《天皇から武家に対して授権・委任することによって体制を安定させる》という論法である。次節で後述するように摂関家出身の将軍誕生への期待を込めて、摂関家出身の慈円はこうした肯定的な論法を編み出したのであるが、こうした論理は、諸権門の結集核である天皇のもと、鎌倉幕府が諸国守護という国家的機能を分担するという像に近似しており、黒田俊雄の説く「権門体制」的な国制像に通じるものである。権門体制論は支配層の基盤となる荘園制論・非領主制論と連関する全体史的な構想であるが、支配層結集の論理としては、「公家・寺家の立場からその叡智を傾けて武家の国家的意義づけを試みた」という慈円の『愚管抄』に類似する。というよりも、むしろ、黒田の権門体制論は、のちに『愚管抄』という史書に結実する慈円の歴史像に着想を得ているのではなかろうか。はじめにでも述べたように、権門体制論は近年では《上からの統合》を強調する学説として受容されがちであるが、「夢想記」にみるように、天皇・朝廷支配の危機的状況に対処するための矛盾と葛藤に満ちた模索として、権門体制論の中世的起源となる歴史像は語られていた。
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「権門体制論」の出生の謎(その2)

2023-02-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

ウィキペディアで「庄下村」を見ると、

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庄下村(しょうげむら)は、かつて富山県東礪波郡にあった村。現在の砺波市庄下地区で、地区内には大門素麺の生産で名高い大門集落がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E4%B8%8B%E6%9D%91

とあって、参考文献には黒田俊雄氏の『村と戦争 兵事係の証言』(桂書房、1988)が載っていますね。
私が黒田氏の出身地である旧庄下村に行ったことは全くの無駄ということもなくて、ここは「真宗王国」の中核地域であり、黒田氏の宗教観には故郷の宗教的土壌が相当な影響を与えているような印象を受けました。
「民衆思想史」の安丸良夫氏(1934-2016)も黒田氏と同じく東砺波郡の出身で、こちらは旧高瀬村の森清という地区です。
安丸氏の『近代天皇像の形成』(岩波書店、1992)の「あとがき」には、

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 生家は、水田ばかり二町余りを耕す専業農家だったが、家族だけでこの面積を耕作することは、私の子供のころの技術的条件ではやたらに多忙なものだった。【中略】
 ところで、私の生れたあたりの農村は、浄土真宗、とりわけ東本願寺の篤信地帯で、どの家にも立派な仏壇がある。抽出しなどのついている台の部分もいれれば、大人の背丈よりもはるかに高く、灯明を点ずると黄金色に輝く、複雑な造りのものである。毎朝、御仏飯が供えられ、老人が読経し、そのあと「御文(おふん)さま」(蓮如『御文章』)を詠む。何人かの死者の毎月の命日には、「月忌(がっき)まいり」といって、隣村の寺の住職が読経に来宅するが、家人が留守でも所用中でもかまわずに、住職は玄関で一声かけるだけで上りこみ、仏壇をあけて灯明を点じ、読経して帰る。私の生家のばあい月に数回で、こうした宗教行事はいまも続いている。これとはべつに、年に一回、誰かの命日を選び、親戚も招いて御馳走のでる「ほんこさま」(報恩講)がある。また、私の生れた村は農家ばかりで寺はないが、すこし大きな家では、襖、障子をとり払って三つ四つの部屋をあけはなち、「ごぼさま(御坊さま)」を招いて説教を聴く会を開くことができる。年齢集団を基礎にした念仏講などが主催して、農閑期にはこうした説教がいくつかの家で開催され、数十人の村人が集る。真宗特有の来世信仰からしても、老人の方が信仰心が篤いが、農家の嫁などもこうした説教には喜んで出席する。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33c77b57ad5d51d0ef3bdbfbe9c1e67d

とあって、私も富山の仏壇が立派なことは知っていましたが、留守でも住職が家に上がって読経して帰って行く云々にはびっくりしました。
黒田氏の母方はお寺だったそうなので、黒田氏も安丸氏と同様か、あるいはそれ以上に濃厚な宗教的雰囲気の中で育ったのだろうと想像します。
ま、生家の宗教がどうであれ、黒田氏は共産主義者として生き、共産主義者として死んで行ったのでしょうから、当然に無神論者だったのだろうとは思いますが、黒田氏の宗教に対する基本的感覚、宗教を国家の非常に重要な要素として捉える姿勢には、やはり「真宗王国」の風土が相当な影響を与えているように思います。
私は安丸良夫氏を、エマニュエル・トッド風にいえば「ゾンビ真宗門徒」と思っていて、安丸氏の代表作である『神々の明治維新』(岩波新書、1977)に映し出された光景は、ゾンビ浄土真宗とマルクス主義が「習合」した安丸レンズを通して見た映像なんじゃないのかな、と思っているのですが、黒田氏の「権門体制論」も、ゾンビ浄土真宗とマルクス主義が「習合」した黒田レンズを通して見た中世像ではなかろうか、などと密かに思っています。
ま、それはともかく、「権門体制論」の出生の謎について、佐藤雄基氏の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)を参照しつつ、少し検討したいと思います。
佐藤論文の構成は2021年1月3日の投稿「新年のご挨拶(その2)」で紹介済みですが、参照の便宜のために再掲します。

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はじめに
第一章 天皇像と将軍像の模索─『愚管抄』の時代
 第一節 慈円の構想と権門体制
 第二節 院政時代の歴史像
 第三節 源実朝と後鳥羽院の「文武兼行」
第二章 「文武兼行」の将軍像と天皇─承久の乱の<戦後>
 第一節 承久の乱後の帝徳論
 第二節 九条道家の徳政と歴史意識
 第三節 「寛元・宝治」の転換
第三章 鎌倉後期の天皇像と得宗像─「武家」の定着
 第一節 鎌倉後期の皇位継承─「治天」の位置
 第二節 文武兼行の得宗像─北条貞時の時代
 第三節 「御成敗式目」にみる得宗・天皇関係の言説
  ①天皇・上皇による式目「同意」という噂
  ②北条泰時の崇徳院「後身」伝承
  ③鎌倉後期の歴史像
おわりに

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f

権門体制論に関係するのは主として第一章の第一節であり、少しずつ引用して行きます。(p6)

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第一章 天皇像と将軍像の模索─『愚管抄』の時代
 第一節 慈円の構想と権門体制

 鎌倉時代は、皇統が三度断絶した時代であった。治承・寿永の内乱の最中、寿永二年(一一八三)平氏は安徳天皇とともに都落ちした。その後、安徳を擁立する平氏「征伐」を優先させるため、「立王」が不可欠という後白河院の判断によって、後鳥羽天皇の即位が強行された。安徳は廃位されたが、内乱の帰趨次第では平氏とともに復権し、後鳥羽が廃位される可能性は残されており、安徳と後鳥羽という二人の天皇が事実上併存していた。皇位継承の象徴であった三種の神器は安徳とともにあったが、壇ノ浦の戦いで安徳は水死し(高倉─安徳皇統の断絶)、神器のうち宝剣は行方不明となった。それ故に、後鳥羽の正統性を疑問視する見方は残り続ける。それと同時に、天皇の地位自体が、院政を正当化するためのものであり、院によって取り替え可能な「王権内部の一装置」であることが明白となった。
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「内乱の帰趨次第では平氏とともに復権し、後鳥羽が廃位される可能性は残されており」に付された注(13)を見ると、

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(13)『玉葉』寿永二年十二月二十四日条では「頼業云、西海主君入御者、当今如何、若六条院之体歟云々」として六条天皇の末路が想起されている。
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とあり、幼年の天皇という点では確かに、二歳(満年齢だと七ヵ月)で践祚し、五歳で譲位して史上最年少の上皇となった六条天皇を連想させますが、西海から戻って来た前天皇の復位という点では、後の後醍醐天皇と北朝第一代・光厳天皇の関係が一番似ていますね。

六条天皇(1164-76)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
光厳天皇(1313-64)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

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