前回投稿で引用した部分の最後、「王権内部の一装置」に付された注(15)には、
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(15)松薗斉「「中世天皇制」と王権─安徳天皇を素材として─」(『年報中世史研究』二八号、二〇〇三年)四一頁。
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とありますが、私は未読です。
さて、続きです。(p6以下)
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ところが、生身の個人としての天皇の権威が動揺する反面、理念的な天皇像がかえって様々に語られるようになる。そうした天皇像の創造と実践を試みた人物に、摂関家出身(九条兼実の同母弟)で、天台座主に四度補任された僧慈円がいる。慈円は建仁三年(一二〇三)六月二十二日にみた夢をもとにして「夢想記」を記した。その後も思索を深めて、二段階にわたる加筆を加えて承元三年(一二〇九)六月に書き上げた。その最後の段階に書かれたと思われる末尾に次のような一節がある。
於宝剣者、終以没海底、不求得之失了也、而其後、武士大将軍進止日本国、任意令補
諸国地頭、不叶帝王進止、但聊蒙帝王之免、依勅定補之由云々、宝剣没海底之後、任
其徳於人将歟、聖人在世者、定開悟由来、思慮興廃歟、悲哉々々、
この一節は以下のような意味である。すなわち、宝剣が壇ノ浦の海底に失われたが、その後「武士大将軍」(源頼朝)が日本国を支配し、ほしいままに諸国の「地頭」を補任し、「帝王」は支配できなくなった。だが、それは将軍が帝王の許しを得て、その命令(勅定)によって(地頭を)補任したものだからだという。海底に沈んだ「宝剣」の「徳」が「人将」に委ねられたのだろうか。聖人が世にいれば、きっとその由来を悟り、世の興廃に思慮をめぐらすことだろう、悲しいことである、と。
ここで慈円が、諸国の地頭設置によって朝廷の全国支配は失われたという危機意識を抱く一方で、天皇を守護する宝剣の機能(「徳」)が将軍(武家)に引きつがれたのだろうかという論理をみせていることに注目したい。「夢想記」の段階では、「聖人世に在らば」の述懐に明らかなように、慈円は必ずしも肯定的に捉えておらず、諦観を込めたものであった。
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いったん、ここで切ります。
「諸国の地頭設置によって朝廷の全国支配は失われたという危機意識を抱く一方で」に付された注(17)を見ると、
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(17)近年の研究は、地頭と荘園制を対立的に捉えず、(特に十三世紀半ば以降)地頭制によって朝廷の国家財政や荘園制が安定する面を強調する傾向がある(清水亮『鎌倉幕府御家人制の政治史的研究』校倉書房、二〇〇七年など)。客観的にはそのような面はあるものの、同時代の貴族たちの《主観》は、地頭によって朝廷の諸国支配が失われたというものではなかっただろうか。
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とありますが、『増鏡』巻二「新島守」にも、
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その年十一月九日権大納言になされて、右近大将を兼ねたり。十二月の一日ごろ、よろこび申しして、同じき四日やがて官をば返し奉る。この時ぞ諸国の総追捕使といふ事、承りて、地頭職に我が家のつはものどもなし集めけり。この日本国の衰ふるはじめはこれよりなるべし。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e8214126e5263a36d1acb0cc4c029fb
とあって、これは同時代ではなく、百数十年後、後醍醐によって討幕が成功した頃の「貴族たちの《主観》」ですが、「この日本国の衰ふるはじめはこれよりなるべし」は「地頭によって朝廷の諸国支配が失われた」とほぼ同じ意味ですね。
なお、流布本『承久記』には、
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同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる。故を如何〔いか〕にと尋れば、地頭・領家の相論とぞ承はる。古〔いにし〕へは、下司・庄官と云計〔いふばかり〕にて、地頭は無りしを、鎌倉右大将、朝敵の平家を追討して、其の勧賞〔けんじやう〕に、日本国の惣追捕使に補せられて、国々に守護を置き、郡郷に地頭をすへ、段別兵粮を宛て取るゝ間、領家は地頭をそねみ、地頭は領家をあたとす。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939
とあって、承久の乱の結果、「王法尽させ給ひて、民の世と」なった根本原因を探ると、それは頼朝を「日本国の惣追捕使に補」し、「国々に守護を置き、郡郷に地頭をすへ」たことだ、との立場ですから、佐藤氏が紹介されている慈円の見解とよく似ていますね。
ただ、これは慈円や『増鏡』のように「貴族たちの《主観》」かというと、私には「領家」(貴族側)と「地頭」(武家側)のいずれにも加担せず、「領家」「地頭」の両者を突き放し、第三者的立場から客観的に眺めているように思われます。
私には、この文章に承元三年(1209)六月の慈円が抱いていたような「諦観」すら感じられないのですが、それはいったい何故なのか。
流布本の作者はいったい何者なのか。
ま、それは今後の課題として、続きです。(p7)
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だが、承久の乱の直前に執筆された『愚管抄』では、武士が「キミ〔君〕ノ御マモリ〔守〕」となった世の中であることを伊勢大神宮も八幡大菩薩も認めたから、将軍と入れ替わるようにして、天皇を守護するために祖先神が乗り移っていた宝剣は姿を消したのであるという肯定的な記述に変わっていく。顕密仏教と朝廷とが互いに支え合うという王法仏法相双論に基づく王権論を前提にして、将軍とは天皇の守護者であり、《天皇から武家に対して授権・委任することによって体制を安定させる》という論法である。次節で後述するように摂関家出身の将軍誕生への期待を込めて、摂関家出身の慈円はこうした肯定的な論法を編み出したのであるが、こうした論理は、諸権門の結集核である天皇のもと、鎌倉幕府が諸国守護という国家的機能を分担するという像に近似しており、黒田俊雄の説く「権門体制」的な国制像に通じるものである。権門体制論は支配層の基盤となる荘園制論・非領主制論と連関する全体史的な構想であるが、支配層結集の論理としては、「公家・寺家の立場からその叡智を傾けて武家の国家的意義づけを試みた」という慈円の『愚管抄』に類似する。というよりも、むしろ、黒田の権門体制論は、のちに『愚管抄』という史書に結実する慈円の歴史像に着想を得ているのではなかろうか。はじめにでも述べたように、権門体制論は近年では《上からの統合》を強調する学説として受容されがちであるが、「夢想記」にみるように、天皇・朝廷支配の危機的状況に対処するための矛盾と葛藤に満ちた模索として、権門体制論の中世的起源となる歴史像は語られていた。
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