『吾妻鏡』承元三年(1209)三月二十一日条は、
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大夫属入道持參鞠於御所。自京都到來之由申之。又去二日大柳殿御鞠記一紙進覽之。彼日。大輔房源性始參于御鞠云々。是左金吾將軍御時近士也。去建仁三年九月坐事之後所在京也。件御鞠衆。御所刑部卿〔宗長〕。 越後少將範茂 寧王 醫王 山柄 行景 源性等也云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma19b-03.htm
というもので、「大夫属入道」三善康信(善信)が御所に京都から送られてきた鞠と『大柳殿御鞠記』を持参し、実朝に見せたという話の中に「件御鞠衆」の一人として「医王」が登場しますが、これが藤原能茂ですね。
『尊卑分脈』の「文永五年七月十六日卒、歳六十四」から逆算すると能茂は元久二年(1205)生まれとなってしまいますが、その能茂が五歳で「御鞠衆」になれるはずはありません。
『尊卑分脈』には何らかの誤りがあることが窺われますが、その点は「二 『尊卑分脈』の問題」で論じられます。
さて、続きです。(p106以下)
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承久三年(一二二一)、北面の武士として承久の乱にも加わり、破れて出家した。『承久記』によれば後鳥羽院は配流前に能茂に会うことを強く希望し、院は出家した能茂を見て自分も出家を決意した、と伝える。このように院と能茂の結びつきを強調するのは、後に述べるように、伝承の世界で能茂の存在が後鳥羽院と絡んで強く深く浸透していたことを思わせる。
後鳥羽院の隠岐配流の随員については第五章第一節に述べるので、ここでは掲げないが、能茂は『愚管抄』、『吾妻鏡』、慈光寺本『承久記』に随行したことが記され、『尊卑分脈』にも「隠岐御所御共参」とある。『古今著聞集』巻五第二二二話からは、能茂の子友茂も隠岐にいたことが知られ、能茂・友茂は、後鳥羽院崩御までの十八年間、隠岐で後鳥羽院の側近く仕えたと考えられる。ちなみに能茂には、友茂のほかに、娘が一人いたことが知られている。この女子は、後述するが三浦光村の室となった女性であり、およそ承久年間前後の誕生と考えられるので、この女子を都に残してきたのであろう。
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いったん、ここで切ります。
「『承久記』によれば後鳥羽院は配流前に能茂に会うことを強く希望し、院は出家した能茂を見て自分も出家を決意した、と伝える」とありますが、これは慈光寺本だけの話ですね。
ま、それはともかく、私は「この女子は、後述するが三浦光村の室となった女性であり」を読んで、頭の中に電撃が走った、と言ったら些か大袈裟かもしれませんが、かなり吃驚しました。
というのは、暫く前から、私は後鳥羽院の周辺とは別のどこかで藤原能茂の名前に出会ったことがあるような気がして何とも落ち着かない気持ちでいたのですが、三浦光村の室と聞いて、ああそうか、と思いました。
宝治合戦で三浦が破れた後、『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月十四日条に、
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光村後家者。後鳥羽院北面醫王左衛門尉能茂法師女。當世無雙美人也。光村殊有愛念餘執。最期之時。互取替小袖改着之。其餘香相殘之由。于今悲歎咽嗚云々。同有赤子。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-06.htm
とあって、光村が妻と互いの小袖を取り替えたという印象的なエピソードがありますが、この妻が「後鳥羽院北面醫王左衛門尉能茂法師女」だった訳ですね。
そして、この関係が慈光寺本『承久記』にやたらと三浦氏関係の記事が多い理由ではないかと思ったのですが、更に些か不吉な連想も生じてきました。
ま、その点は「三 三浦氏との関わり」で述べることとして、続きです。(p107)
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隠岐配流中の後鳥羽院にとって、能茂(西蓮)はどのような存在だったのだろうか。彼はおそらく隠岐の御所で後鳥羽院が最も信頼する近臣であったと思われる。また、実は後鳥羽院の落胤であるらしい氏久は、賀茂能久の子であるが西蓮の猶子であると後鳥羽院宸翰に記されているが、西蓮から氏久への書状からは、氏久を隠岐へ渡海させるべく院の手足となって奔走し、院の病気を心配し、院の旧臣たちにも気を配り、氏久の行動・振舞などにもあれこれ配慮する西蓮の姿が、具体的に浮び上るのである。
延応元年(一三三九)二月二十二日、後鳥羽院は隠岐で崩御し、火葬ののち、能茂が院の遺骨を首にかけて隠岐より帰洛、水無瀬殿を経て、『百錬抄』によれば五月十六日に、大原の西林院御堂に安置したという(『百錬抄』『一代要記』『皇代暦』『増鏡』)。このように、能茂は、幼児より院の崩御に至るまで、院と密に関わり合い、特に晩年の院にとっては最も近い存在であったであろうことが知られるのである。
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『増鏡』では、「巻三 藤衣」の最後、後鳥羽院崩御の場面に、
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この浦に住ませ給ひて十七年ばかりにやありけん、延応元年といふ二月廿二日六十にて隠れさせ給ひぬ。今一度都へ帰らんの御心ざし深かりしかど、遂に空しくてやみ給ひにし事、いとかたじけなく、あはれになさけなき世も、今さら心うし。近き山にて例の作法になし奉るも、むげに人ずくなに心細き御有様、いとあはれになん。御骨をば能茂といひし北面の、入道して御供に候ひしぞ、首にかけ奉りて都に上りける。さて大原の法花堂とて、今も、昔の御庄の所々、三昧料に寄せられたるにて、勤め絶えせず。かの法花堂には修明門院の御沙汰にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿を渡されけり。今はの際までもたせ給ひける桐の御数珠なども、かしこにいまだ侍るこそ、あはれにかたじけなく、拝み奉るついでのありしか。始めは顕徳院と定め申されたりけれど、おはしましし世の御あらましなりけるとて、仁治の頃ぞ、後鳥羽院とは更に聞こえ直されけるとなん。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9a384872074709b799233fc6d689975
とあって、「御骨をば能茂といひし北面の、入道して御供に候ひしぞ、首にかけ奉りて都に上りける」という具合いに能茂の名前も明記されています。