学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「第五回三浦一族シンポジウム」(その1)

2023-02-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

三浦氏に特に関心がなかった私は上杉孝良氏のお名前も知りませんでしたが、横須賀の郷土史を中心に多くの著書を出されている方ですね。

https://uesugi2.mystrikingly.com/

また、私は『三浦一族研究』も初めて手にしましたが、なかなかレベルの高い雑誌ですね。
上杉論文が載っている第3号(1999)には「第五回三浦一族シンポジウム」の記録もあり、こちらも大変参考になりました。
このシンポジウムの基調講演は「聖徳大学教授」野口実氏がされていて、パネリストは野口氏の他に「神奈川県地域史研究会委員」の伊藤一美氏と「放送大学講師」高橋秀樹氏、司会は「NHK文化センター講師」の鈴木かほる氏です。
特に興味深いのは高橋秀樹氏の見解で、私は先月五日の投稿で高橋氏の『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)に触れて、「慈光寺本『承久記』の極端な重視、というか偏愛が溢れていて、ちょっとびっくり」など書いたのですが、この時にはどうにも理解できなかった高橋氏の発想のルーツが、このシンポジウムでの発言記録で分かったように感じました。

「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

まず、司会者から発言を求められた高橋氏は、若干の前置きの後、次のように述べられます。(p68以下)

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 最初に、野口先生もおっしゃっておられましたけれども、実は承久の乱の研究はあまり進んでおりません。それは、史料がほとんどないというのが理由なんです。普通でしたら、『吾妻鏡』がありますし、公家の日記というのがかなりこの時代残っているはずなんですが、みごとに承久の乱の前後というのは公家の日記がないんですね。現存するものがない。『吾妻鏡』も承久の乱が起こったということ、挙兵したという第一報が届けられたというところから始まって、事件の経過や事件の処理が書いてあるだけでして、どういう過程でこの戦が起こったのか、或いは後鳥羽上皇は何を考えていたのかが分からない。そうなると、殆ど唯一の史料として使えるのが『承久記』という軍記ものです。ところが、『平家物語』とかその他の軍記ものもそうなんですが、こういう作品の特質としまして、色々な種類の本がある。日記等を写すときには正確に写そうとしますけれども、物語のようなものは写されていくのと同時にどんどん改編【ママ】されていってしまう、中身が変えられていく。そこでこの『承久記』もどの本によって考えるかでこの乱の評価が変わってきてしまいます。
 今日のお話は多分、古活字本といわれる一般的に流布している本に基づいてお話をされていた部分が多いかと思うんですが、実は最近、それとは違う系統のもう少し古い良い本があるぞということが着目されております。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
野口氏の基調講演では慈光寺本への言及もありますが、例の義時追討の院宣について、「武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西ら」に下したと書かれていて、これは流布本(古活字本)の順番通りです。
即ち、流布本には、

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東国へも、院宣を可被下とて、按察使前中納言光親卿奉て七通ぞ被書ける。左京権大夫義時朝敵たり、早く可被致追討、勧賞請によるべき(趣)なり。武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西にぞ被下ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58

とあって、七人だけなので「ら」は変ですが、流布本に従っていることは明らかです。
ちなみに慈光寺本では、

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 又十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ、『秀康、是ヲ承レ。武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村、此等両三人ガ許ヘハ賺遣ベシ』トゾ仰下サル。秀康、宣旨ヲ蒙テ、按察中納言光親卿ゾ書下サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1

となっていて、流布本と比べると千葉・葛西が存在しない代わりに「中間五郎」と足利義氏・北条時房の三人が加わって、合計八人になっています。
この他、一々指摘はしませんが、野口氏の基調講演が「古活字本といわれる一般的に流布している本に基づいてお話をされていた部分が多い」ことは確かですね。
さて、「実は最近、それとは違う系統のもう少し古い良い本があるぞということが着目されております」の続きです。(p69)

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慈光寺本と呼ばれる本で、岩波の新古典文学大系に入ったんで非常に読みやすくなった本です。それを使うとちょっと承久の乱に対する評価が変わってくるんじゃないかと思っております。野口先生は、基調講演の中で承久の乱というのは後鳥羽院という権門と幕府との戦さなんだという評価をなさいました。確かに、結果的にはそうなったんだと思います。ただその『承久記』の慈光寺本を見ていきますと、後鳥羽の最初の意図とするのはそうではなかったんではないかという気がしているんです。通説では、幕府に近い九条とか西園寺というのは後鳥羽の謀議からは外されたと言われています。ところが、慈光寺本を見ますと、九条道家は後鳥羽の下で開かれた公卿会議のメンバーに入っています。しかも彼は仲恭天皇が即位した段階で摂政の地位に就いているんですね。仲恭天皇は承久の乱の少し前に即位しますが、後に九条廃帝と言われた天皇です。
 承久の乱が終わって、後堀河という天皇が擁立されますが、その時には道家は失脚しているんですね。替って近衛家実が摂政になっている。そうなると、どうも道家は承久の乱と無関係ではないだろうという感じがしてきます。でも道家の子九条頼経というのが、鎌倉に下っていますから彼が息子を見殺しにすることはない。あれは実は、後鳥羽を中心とする朝廷が北条義時相手にやった戦争、しかけた戦争なんですね。そういうふうに解釈できるんではないか。後鳥羽の意図としては頼経をそのままにしておいて北条氏に変わって三浦氏を北条氏の立場に置く。
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慈光寺本では亀菊エピソードの最後に「公卿僉議」と、そこで出た「近衛殿」(基通)の消極意見に対する卿二位の反論が出てきます。
確かに「公卿僉議」の参加者には九条道家が含まれるので、慈光寺本だけに存在するこの話を信じるのであれば、「どうも道家は承久の乱と無関係ではないだろうという感じ」もしてきますね。
ただ、高橋氏が卿二位の反論なども信じるのであれば、私は若干の疑問を感じます。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その12)─卿二位が登場する意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34ab5510c317b7bfc3313a37223bcb77

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その16)─胤義子息の処刑話は「創作」か

2023-02-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

今まで流布本と慈光寺本の比較を、具体的な場面に即して何度か行ってきましたが、慈光寺本に比べると流布本の描写は概ね穏当ですね。
藤原秀康と三浦胤義の密談場面はその典型で、流布本では、秀康は「雨ふり閑なる夜、平九郎判官胤義を招寄て、門指固て、外人をば不寄、向ひ居て酒宴」し、「夜更て後」、つまり初対面の胤義を時間をかけて慎重に観察した後、初めて後鳥羽院の意図を胤義に打ち明け、反応を見ます。

(その14)─流布本の秀安・胤義密談エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29c0c7bbf10b299d004770ef6c020b2a

これに対し、慈光寺本では、酒盛を始めて間もなく、秀康は「和殿ハ一定心中ニ思事マシマスラント推スルナリ」などと言って、「殿ハ鎌倉ニ付ヤ付ズヤ、十善ノ君ニハ随ヒマヒラセンヤ、計給ヘ、判官殿」と胤義に決断を迫り、それに対して胤義も空想的な義時追討計画を、兄・義村に送る手紙の詳細な文面まで含めてベラベラしゃべりまくるという唐突さです。

(その13)─三浦胤義の義時追討計画
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8

そもそも大野心家の北条義時が、源実朝が死んで源氏が三代で絶えた以上、これからは俺が「日本国ヲバ知行」するのだ、「義時一人シテ、万方ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍フベキ」と唐突に豪語して以降、慈光寺本のストーリー展開は一貫して唐突です。
これに対し、流布本のストーリーは良く言えば慎重、悪く言えばドラマチックさと面白さに欠けます。
しかし、戦後処理において、佐々木広綱の息子・勢多伽丸の悲惨な話に続いて描かれる胤義の子供の処刑に限っては、流布本が極めてドラマチックであるのに対し、慈光寺本には対応する記事がありません。
そして、宝治合戦での三浦側の死者の交名を載せた『吾妻鏡』宝治合戦(1247)六月二十二日条に照らすと、上杉孝良氏が「『承久記』私考─「三浦胤義の子供、處刑の事」について」(『三浦一族研究』3号、1999)で明らかにされたように、流布本の記述は史実とは言い難いものです。
では、上杉氏が言われるように「この胤義の遺児が斬られる挿話は、ことさら同族相争戦う非情さを演じて破れ自害した三浦胤義父子の悲劇性を強調する意図」で、「創作し挿入されたもの」であって、「その時期も流布本成立後、それも三浦氏が滅んだ宝治合戦(一二四七)後のこと」と考えるべきなのか。
私としては、この話は意図的な「創作」ではなく、承久の乱の後、真偽入り乱れた様々な情報が交錯する中で流された噂話を採り入れたもので、結果的には事実ではなかったものの、流布本作者は真実と信じて書いたのではないか、と思っています。
状況的には、ちょうど藤原定家の息子・為家が順徳院の佐渡配流に同行するとの噂話と似ていて、流布本には、

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同廿ニ日、新院、佐渡国へ被移させ給。御供には、冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経、上北面には藤左衛門大夫安光、女房右衛門佐局以下女房三人参給ふ。角〔かく〕は聞へしかども、冷泉中将為家朝臣、一まどの御送をも不被申、都に留り給。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95463ff3ed9d424ab627e6c5ae5ede87

とありますが、実際には為家は都を一歩も出ておらず、事実ではなかったのに流布本にはこの噂話が残っています。
これは為家の身の処し方に好意的ではない流布本作者が、事実を知った後、為家に筆誅を加えるために載せたのではないかと思われますが、胤義子息の方は、流布本作者が事実を知ることができないまま流布本(の原型)を執筆し、結果的に事実とは異なる噂話が残ってしまったのではないか、と私は考えます。

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e968d1055c6c4e148ff37749449f6f6

さて、では何故に慈光寺本には胤義子息の処刑の話が出ていないのかというと、それは慈光寺本の作者が事実ではないことを知っていたからですね。
つまり、この話は慈光寺本の方が流布本(の原型)より後に作られたことの証拠ではないか、というのが私見です。
そして、慈光寺本の作者が藤原能茂で読者が三浦光村であったならば、光村はもちろん、娘を通して三浦家の事情に詳しい能茂も、当然に胤義子息の生存を知っていたので、古い噂話など書かなかった、ということになります。
また、慈光寺本の「三浦ニ九七五ナル子供三人乍、権太夫ノ前ニテ頸切失給ヘ」云々は、一般の読者にとっては流布本を参照しないと非常に分かりにくい話ですが、光村にとっては直ちに理解可能な話となります。

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