続きです。(p87以下)
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さらに問題としたいのは、順徳の贈歌に対する応答の様相である。二首が取り上げた景物には、以下のようなものがある。
順徳院歌…空ゆく月日、田面の雁、秋風、葛、露、道の草葉、真砂地、松、夜半の月、夕煙、
呉竹、四方の紅葉、時雨、霜、山河、水の泡
道家歌……空の雲、葵草、日影、風、綾席、入江の水、山の端、緑の空、日の色、薄き衣、
下草、初時雨、淡雪、汀の千鳥、海人、里のしるべ、夕煙、波、初霜、白菊
これだけ多くの景物を取り上げながら、「夕煙」(順徳歌前掲③)しか完全には一致せず、他には「時雨」「霜」(⑤)くらいしか共通しない。また、詠み込まれた名所を見ると、
順徳院歌…越路、〔有磯海(越中)〕、明石(播磨)
道家歌……神山(山城)、飛鳥川(大和)、鳥籠山(近江)、有乳山(越前)
と、見事に一箇所も重ならない。
歌い出しは「空」「月日」「曇る」(雲)など用語が一致し、何となく応答しているように見え、また、道家歌の「秋の都」は、順徳の「花の都」(①)と対になっていると言えようか。しかし、全体として見ると、一組の贈答としてはとても不自然なのである。
詠歌内容を見ても、順徳院の歌に見られた「雲ノ上ニテ 見シ秋ノ 過ニシカタモ ワスラレズ」(②)、「人ノコゝロノ クセナレバ ナグサム程ノ 事ゾナキ」(④)という歎きに、道家歌はまったく応答していない。順徳歌の「ヌルモネラレヌ」(②)、「サナガラ夢ノ 心地シテ」(③)と、道家歌の「ネデモミヘケル ユメノミチ」は、表現は重なるが、応答としてはずれている。応答が成り立っていないのは、反歌でも同じである。
ナガラヘテタトヘバ末ニカヘルトモウキハコノ世ノ都成ケリ(順徳院)
イトヘドモ猶ナガラヘテ世ノ中ニウキヲシラデヤ春ヲマツベキ(道家)
後続の『承久記』諸本は、長歌は省略して、この反歌だけを贈答として取り込んでいる。順徳院歌は、生き長らえて、たとえ都に帰れたとしても、現世では「憂き」世が続くであろうと歎いている。道家の上の句は、厭世観は持ちながらもやはり行き長らえることを、下の句は「春ヲマツ」ことを順徳に勧めているのであろうか。それとも、道家自身の今後の身の処し方を読んでいるのだろうか。「ウキヲシラデ」とはつらい思いを忘れることを言っているのであろうか。含意が明瞭でなく、不自然な贈答と言うほかない。
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「多くの景物を取り上げながら、「夕煙」(順徳歌前掲③)しか完全には一致せず、他には「時雨」「霜」(⑤)くらいしか共通しない」上に、「詠み込まれた名所」は「見事に一箇所も重なら」ず、「歌い出しは」「何となく応答しているように見え」るが、「しかし、全体として見ると、一組の贈答としてはとても不自然」で、更に「詠歌内容」も「順徳院の歌に見られた……歎きに、道家歌はまったく応答していない」のですから、後鳥羽院・伊王左衛門・七条院の奇妙な贈答歌と同様、こちらも「応答しない贈答歌」ですね。
ただ、「後続の『承久記』諸本」の「反歌だけを贈答」している贈答歌について、渡邉氏は「含意が明瞭でなく、不自然な贈答と言うほかない」と評価されますが、これは妥当なのか。
この点、まずは流布本で順徳院と九条道家の贈答歌がどのように詠まれているかを確認しておく必要があります。
即ち、松林靖明校注『新訂承久記』によれば、
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同廿ニ日、新院、佐渡国へ被移させ給。御供には、冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経、上北面には藤左衛門大夫安光、女房右衛門佐局以下女房三人参給ふ。角〔かく〕は聞へしかども、冷泉中将為家朝臣、一まどの御送をも不被申、都に留り給。花山院少将は、路〔みち〕より労〔いた〕はる事有とて帰り被上ければ、いとゞ御心細ぞ思召ける。越後国寺泊に著せ給て、御船に被召けるに、甲斐兵衛佐教経、病〔やまひ〕大事に御座〔おはし〕ければ、御船にも不被乗、留められけるが、軈〔やが〕て彼〔かし〕こにて失給にけり。新院、佐渡へ渡らせ給(へば)、都より御送の者共御輿〔みこし〕かき迄も御名残惜ませ給て、「今日計〔ばかり〕、明日計」と留めさせ給。長歌遊ばして、七条殿へ進〔まゐ〕らせ給ふ。奥に又、
存〔ながら〕へてたとへば末に帰る共憂〔うき〕は此世の都なりけり
九条殿、長歌の御返事有。是も又、奥に、
いとふ共存へてふる世の中の憂には争〔いか〕で春を待べき
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とのことで(p138)、慈光寺本と比べると細かな異同が沢山ありますが、今は触れる余裕がありません。
順徳院と九条道家の長歌贈答について(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/066c90a15de1d51bec8007bce452c64f
「七条殿へ進らせ給ふ」の「七条殿」は「九条殿」の単純な誤りですね。
検討は次の投稿で行います。