学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その5)

2023-02-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p87以下)

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 さらに問題としたいのは、順徳の贈歌に対する応答の様相である。二首が取り上げた景物には、以下のようなものがある。

 順徳院歌…空ゆく月日、田面の雁、秋風、葛、露、道の草葉、真砂地、松、夜半の月、夕煙、
      呉竹、四方の紅葉、時雨、霜、山河、水の泡
 道家歌……空の雲、葵草、日影、風、綾席、入江の水、山の端、緑の空、日の色、薄き衣、
      下草、初時雨、淡雪、汀の千鳥、海人、里のしるべ、夕煙、波、初霜、白菊

これだけ多くの景物を取り上げながら、「夕煙」(順徳歌前掲③)しか完全には一致せず、他には「時雨」「霜」(⑤)くらいしか共通しない。また、詠み込まれた名所を見ると、

 順徳院歌…越路、〔有磯海(越中)〕、明石(播磨)
 道家歌……神山(山城)、飛鳥川(大和)、鳥籠山(近江)、有乳山(越前)

と、見事に一箇所も重ならない。
 歌い出しは「空」「月日」「曇る」(雲)など用語が一致し、何となく応答しているように見え、また、道家歌の「秋の都」は、順徳の「花の都」(①)と対になっていると言えようか。しかし、全体として見ると、一組の贈答としてはとても不自然なのである。
 詠歌内容を見ても、順徳院の歌に見られた「雲ノ上ニテ 見シ秋ノ 過ニシカタモ ワスラレズ」(②)、「人ノコゝロノ クセナレバ ナグサム程ノ 事ゾナキ」(④)という歎きに、道家歌はまったく応答していない。順徳歌の「ヌルモネラレヌ」(②)、「サナガラ夢ノ 心地シテ」(③)と、道家歌の「ネデモミヘケル ユメノミチ」は、表現は重なるが、応答としてはずれている。応答が成り立っていないのは、反歌でも同じである。

  ナガラヘテタトヘバ末ニカヘルトモウキハコノ世ノ都成ケリ(順徳院)
  イトヘドモ猶ナガラヘテ世ノ中ニウキヲシラデヤ春ヲマツベキ(道家)

 後続の『承久記』諸本は、長歌は省略して、この反歌だけを贈答として取り込んでいる。順徳院歌は、生き長らえて、たとえ都に帰れたとしても、現世では「憂き」世が続くであろうと歎いている。道家の上の句は、厭世観は持ちながらもやはり行き長らえることを、下の句は「春ヲマツ」ことを順徳に勧めているのであろうか。それとも、道家自身の今後の身の処し方を読んでいるのだろうか。「ウキヲシラデ」とはつらい思いを忘れることを言っているのであろうか。含意が明瞭でなく、不自然な贈答と言うほかない。
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「多くの景物を取り上げながら、「夕煙」(順徳歌前掲③)しか完全には一致せず、他には「時雨」「霜」(⑤)くらいしか共通しない」上に、「詠み込まれた名所」は「見事に一箇所も重なら」ず、「歌い出しは」「何となく応答しているように見え」るが、「しかし、全体として見ると、一組の贈答としてはとても不自然」で、更に「詠歌内容」も「順徳院の歌に見られた……歎きに、道家歌はまったく応答していない」のですから、後鳥羽院・伊王左衛門・七条院の奇妙な贈答歌と同様、こちらも「応答しない贈答歌」ですね。
ただ、「後続の『承久記』諸本」の「反歌だけを贈答」している贈答歌について、渡邉氏は「含意が明瞭でなく、不自然な贈答と言うほかない」と評価されますが、これは妥当なのか。
この点、まずは流布本で順徳院と九条道家の贈答歌がどのように詠まれているかを確認しておく必要があります。
即ち、松林靖明校注『新訂承久記』によれば、

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 同廿ニ日、新院、佐渡国へ被移させ給。御供には、冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経、上北面には藤左衛門大夫安光、女房右衛門佐局以下女房三人参給ふ。角〔かく〕は聞へしかども、冷泉中将為家朝臣、一まどの御送をも不被申、都に留り給。花山院少将は、路〔みち〕より労〔いた〕はる事有とて帰り被上ければ、いとゞ御心細ぞ思召ける。越後国寺泊に著せ給て、御船に被召けるに、甲斐兵衛佐教経、病〔やまひ〕大事に御座〔おはし〕ければ、御船にも不被乗、留められけるが、軈〔やが〕て彼〔かし〕こにて失給にけり。新院、佐渡へ渡らせ給(へば)、都より御送の者共御輿〔みこし〕かき迄も御名残惜ませ給て、「今日計〔ばかり〕、明日計」と留めさせ給。長歌遊ばして、七条殿へ進〔まゐ〕らせ給ふ。奥に又、
   存〔ながら〕へてたとへば末に帰る共憂〔うき〕は此世の都なりけり
九条殿、長歌の御返事有。是も又、奥に、
   いとふ共存へてふる世の中の憂には争〔いか〕で春を待べき
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とのことで(p138)、慈光寺本と比べると細かな異同が沢山ありますが、今は触れる余裕がありません。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/066c90a15de1d51bec8007bce452c64f

「七条殿へ進らせ給ふ」の「七条殿」は「九条殿」の単純な誤りですね。
検討は次の投稿で行います。

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順徳院と九条道家の長歌贈答について(その4)

2023-02-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

渡邉氏は特に指摘されていませんが、順徳院名義の長歌に関して注意しなければならない点がひとつあります。
それは、長歌は非常に変であっても、長歌の後に置かれた反歌、即ち、

  ナガラヘテタトヘバ末ニカヘルトモウキハコノ世ノ都成ケリ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/066c90a15de1d51bec8007bce452c64f

は別に変ではないことです。
岩波新日本古典文学大系本の久保田淳氏の脚注によれば、この歌は「たとえ生き永らえた末に帰洛できたとしても、この世は憂くつらいことの多い都であるよ」という意味であり、順徳院の心境としては不自然ではなく、表現上、特に気になる点もありません。
そして、この歌は流布本にも登場します。
流布本にも順徳院と九条道家の贈答歌はありますが、いずれも長歌は存在せず、慈光寺本の反歌のみで構成されており、道家の反歌(というか独立の短歌)にも不自然なところはありません。
この点、慈光寺本が最初に成立したとする立場の渡邉氏は、「後続の『承久記』諸本は、長歌は省略して、この反歌だけを贈答として取り込んでいる」(p87)とされますが、論理的には、「後続の『承久記』諸本」で長歌が「省略」されているのではなく、「後続の慈光寺本」が長歌を「追加」した可能性もあります。
順徳院と九条道家の長歌はいずれも変なのに、それぞれの反歌はまともなのですから、後者のように、即ち下手な人が長歌を「追加」したと考える方が自然ではないか、と私は思いますが、この問題については後ほど改めて検討します。
ということで、渡邉論文の続きです。(p86以下)

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  六、道家の返歌

 次に、道家の返歌の長歌を取り上げてみる。

  久堅ノ 月日ヘダツル 空ノクモ [       ] ヨソニシテ イツトモシラヌ アフ
  ヒグサ 日カゲニムスブ 心モテ 朝夕君ニ ツカヘコシ ソノカミ山ニ 吹風ノ 目ニミ
  ヌカタヲ オモヒヤリ サカヒハルカニ ナルマゝニ ヤスムコゝロモ ナミダノミ トゞ
  マラヌ日ニ 流レツゝ シヅミハツルモ アスカ河 キノフノハルノ イツノマニ 今日ノ
  ウキヨニ アフミナル トコノ山路ニ 有トキク イサヤアヤナク アヤムシロ シキシノ
  ベドモ シキシマノ 道ニハアラヌ [   ] 入江ノ水モ 山ノハモ ミドリノ空ニ 日
  ノ色モ ウスキ衣ニ 秋クレテ 人メカレ行 シタ草ノ オトロヘハツル ハツシグレ フ
  ル[  ] 道ノソラ 空ノケシキモ アラチ山 道ノアハ雪 サムキヨノ ミギハノ千鳥
  打ワビテ 鳴音カナシキ 袖ノウヘヤ モシホタレツゝ アマノスム 里ノシルベモ ユウ
  ケブリ 煙モ浪モ 立ヘダテ 雲井ニミヘシ 在明ノ アフギシ人ヲ マガヘツゝ コゝロ
  ノヤミノ ハレマナキ 秋ノ都ノ ナガキヨニ ハツシモムスブ 白ギクノ ウツロヒ行ヲ
  白妙ノ ウキヨノ色ト オドロケバ ネデモミヘケル ユメノミチ ウツゝニナラデ マヨ
  フコロ哉

 全体としては、順徳の長歌に応答して、親しく仕えてきた主君を失い、涙に暮れ惑うほかない歎きを強く訴えているように見える。しかし、「アフヒグサ」「日カゲ」「ソノ神山」と、唐突に賀茂社の縁で歌い出している他、表現上、不審な点が多い。細かな検討は、紙幅の都合上、省略に従わざるを得ないのだが、一点だけ確認しておきたい。「入江ノ水モ」以下の傍線部分では、春の「ミドリノ空」から、夏・初秋の「ウスキ衣」、晩秋・初冬の「ハツシグレ」、そして「アハ雪」と四季の移ろいが歌われている。しかし、それぞれの季節の景がきちんと形象化されないまま、次の表現に流れてしまっている。連歌的とも言える表現方法で、和歌としてはとても落ち着きが悪い。やはり、代々歌壇の庇護者であった九条家の伝統を受け継ぎ、歌人として活動していた道家の歌とは到底思われない。
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いったん、ここで切ります。
「入江ノ水モ 山ノハモ ミドリノ空ニ 日ノ色モ ウスキ衣ニ 秋クレテ 人メカレ行 シタ草ノ オトロヘハツル ハツシグレ フル[  ] 道ノソラ 空ノケシキモ アラチ山 道ノアハ雪 サムキヨノ ミギハノ千鳥 打ワビテ 鳴音カナシキ 袖ノウヘヤ」に傍線が引かれています。
私には和歌の細かな表現を分析する能力はありませんが、「唐突」という点では、「アスカ河」以下、様々な地名が交錯するのも珍しく、渡邊氏の「連歌的とも言える表現方法」に倣えば「早歌的とも言える表現方法」なのかもしれませんが、「落ち着き」は悪いですね。

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順徳院と九条道家の長歌贈答について(その3)

2023-02-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p85以下)

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 ④ソレニ附テモ 故郷ノ 人ノ事サヘ 数々ニ シノブノノキヲ 吹結ブ 風ニ浪ヨル 呉竹
  ノ カゝルウキ世ニ メグリキテ 是モムカシノ 契リゾト オモヒシラズハ ナケレドモ
  人ノコゝロノ クセナレバ ナグサム程ノ 事ゾナキ

 ここでは故郷の都を思い、慰められない心情が読み取れる。しかし、表現上は「吹結ブ」に「露(玉)」等の目的語があれば問題ないが、当該歌では何を「吹結ブ」のか明確ではない。「吹結ブ」が宙ぶらりんなまま風に揺れる「呉竹」へと表現が流れていってしまう。

 ⑤是ハ明石ノ 秋ナレバ 四方ノ紅葉ノ 色々ニ タノムカゲナク シグレツゝ 我身ヒトツ
  ニ ウツロヒテ 霜ヨリサキニ クチハテン

 この部分でも「明石」がなぜ唐突に出て来たのか理解し難い。佐渡の秋が「明石」と同じであることを言うのであろうか。であるとすれば、相当、舌足らずな表現である。また、「タノムカゲナク」は、『古今集』の遍照歌(秋下・二九二)や『伊勢集』(四六二)に例があるが、臣下が主君を思って詠む表現である。王が詠むべき表現ではない。

 ⑥ウキナハサテモ 山河ノ 色ニタゞヨフ 水ノアハノ キヘヌモノカラ ナガラヘテ イカ
  ナル世ニカ ナヲタノムベキ

 どうやって生き長らえていけばよいのかを歎く長歌の結びである。ここでも「山河ノ色ニタゞヨフ水ノアハ」という表現がよくわからない。紅葉の散り敷いた川面に浮かぶ水の泡を表現しようとしているのであろうか。それが消えることのない「ウキナ」(憂き名)の比喩なのだろうか。表現として不十分であるし、比喩として適切であるとも思われない。
 以上、見てきたように、この長歌の作者は、新古今時代特有の表現を持つ和歌に接することができたと推測され、『古今集』等の勅撰集歌もある程度理解している。それらを踏まえながら、望郷の念を繰り返し訴え(①④)、涙に濡れそぼちながら(②⑤)、絶望的な心情(③~⑥)を縷々述べ立てている。しかし、言葉の選択・用法を誤った例や、意図が不明瞭な表現が後半に進むにつれ増加している。こうした作者像は、後鳥羽院歌壇を引き継いで歌壇を形成し、歌作に励んでいた実在した順徳院とは結びつかないのである。
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③でも「これら恋心と結びつけられてきた表現は、臣下に贈る述懐歌にはどうにもそぐわない」との指摘がありましたが、⑤の「タノムカゲナク」も「臣下が主君を思って詠む表現」であり、「王が詠むべき表現ではない」のですから、慈光寺本の作者が順徳院の名を騙っていることは明らかですね。
さて、私は慈光寺本の作者が藤原能茂ではないかと疑っている訳ですが、「言葉の選択・用法を誤った例や、意図が不明瞭な表現が後半に進むにつれ増加」しているこの長歌は、能茂の作品としては実にピッタリですね。
というのは、能茂は隠岐における後鳥羽院の側近中の側近でありながら、『遠島御歌合』に参加していないからです。
田渕句美子氏は『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)の「第四章 藤原能茂と藤原秀茂」の冒頭で、

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 藤原能茂(西蓮)は、勅撰歌人ではなく、家集もなく、今その作として伝えられている和歌は、慈光寺本『承久記』に見える「すず鴨の身とも我こそなりぬらめ波の上にて世をすごすかな」という一首のみにすぎない。この歌も能茂作とは必ずしも断定し難いであろう。後鳥羽院隠岐配流後も隠岐で院に仕えていたが、隠岐で編まれ初学の人も出詠した『遠島御歌合』に詠進していないから、おそらく和歌は苦手としていたのだろう。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0be06ac4886fc275de8e50db40a65dcd

と書かれていますが、『遠島御歌合』に付された注(1)を見ると、

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(1)この歌合の序文で後鳥羽院は「人の数ひろきにおよばざれば、昨日けふはじめて六義のおもむきをまなぶ輩をも是に入れ、(下略)」と述べて、初学の人々も含めたことを述べている。能茂の子友茂も出詠している。この歌合については第五章参照。
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とあります。
そして「第五章 後鳥羽院とその周辺」の「第一節 隠岐の後鳥羽院を囲む人々」を見ると、同節は、

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一 院に随行・近侍した人々
二 僧善真について
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と構成されており、「一 院に随行・近侍した人々」において、随行者であることが諸記録に明らかな「伊賀局(亀菊)」・「出羽前司清房(重房とも)」・「西御方(坊門信清女」(道助法親王・頼仁親王・礼子内親王〔嘉陽門院〕の母)・「大夫殿」・「内蔵頭清範」・「能茂(西蓮、如願猶子)」・「医師和気長成」・「和気有興」・「医師丹波基氏」・「医師丹波親秀」・「教念上人」の十二人に加え、「史料・記録類で当初の随行員としては見えないが、隠岐の後鳥羽院に近侍したと考えられる人々」として、「民部卿局(親兼女)」・「友茂(能茂男)」・「親成(水無瀬信成男)」・「少輔(家長女)」・「寂仏」の五人、合計十七人が個別に検討されています。
そして、

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 これら近侍者の中には優れた歌人といえるような人物はおらず、『遠島御歌合』で親成、友茂などが歌を詠んでいても、それは後鳥羽院自身『遠島御歌合』の序文で、「人の数ひろきにおよばざれば、昨日けふはじめて六義のおもむきをまなぶ輩をも是に入れ、」と言うように、殆ど初学の歌人であり、後鳥羽院にとって隠岐での文学活動は大変に孤独な営みであったと思われる。【後略】
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との纏めがあります。
隠岐において側近中の側近だった能茂に対して、おそらく後鳥羽院も一応は作歌の指導をしたのでしょうが、息子の友茂すら参加している『遠島御歌合』に入れてもらえなかったのですから、能茂の作歌の実力は「昨日けふはじめて六義のおもむきをまなぶ輩」以下の低レベルであって、歌人としては全く無能だとの後鳥羽院の太鼓判が押されている訳ですね。
ということで、能茂は「言葉の選択・用法を誤った例や、意図が不明瞭な表現が後半に進むにつれ増加している」順徳院名義の長歌の作者としてピッタリです。

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