渡邉氏は最終節で「それにしても、なぜ後鳥羽院ではなくて、順徳院だったのだろうか」(p89)、即ち、慈光寺本において長歌贈答以前は全く目立たなかった順徳院が、「配所にいたって、突然、順徳院の歎きが噴出するように描かれ、道家もまたそれに呼応」(同)している理由は何かについて検討され、一応の答えを出されていますが、「もし、承久の乱がなければ、その勅撰集は、道家が順徳院を輔弼して完成させたものではなかったか」(p90)といった部分は、私には些かロマンチックな空想のように感じられます。
私自身は別の理由を考えていますが、今、その結論だけを書くと当ブログの大半の読者には訳が分からない話になってしまいますので、もう少し後で書きます。
なお、渡邉氏は「そんな永遠に失われてしまった未来の王と摂籙臣の歎きも、この長歌贈答は包含しているように読める。しかし、表現の内実まで掘り下げてみると、道家は現状を歎きつつも、順徳には応答していない」(p91)と言われていますが、これは慈光寺本の道家反歌を前提とした見解であり、流布本等の道家反歌で考えればきちんと応答している点については、(その6)で書きました。
順徳院と九条道家の長歌贈答について(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bbec9ae5f612c17e7234fd87da8885c8
さて、「三、作り替えられる辞世歌」を除き、渡邉論文を全て紹介してきましたが、結論として渡邊氏は、藤原範茂の辞世歌、後鳥羽院・七条院の「応答しない贈答歌」、順徳院と九条道家の長歌での贈答歌のいずれも、当該歌の名義人ではなく慈光寺本作者が創作した歌と判断されています。
『新古今時代の表現方法』(笠間書院、2010)という大著も書かれている渡邉氏が出されたこの結論に、具体的な論拠に基づいて反論できる歴史学研究者はおそらく存在しないのではないかと思われます。
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『新古今時代の表現方法』
新古今時代の本歌取と題詠について、またそこから派生し周縁に広がる問題を、この時代の歌と、歌に関わる表現方法から解き明かす書。
本歌取と題詠から、何を読み解くことができるか。
三十一字とは思えない深く広く遙かな時空を表現した新古今時代の歌のあり方を探る。
新古今時代の本歌取と題詠について、またそこから派生し周縁に広がる問題を、この時代の歌と、歌に関わる表現方法から解き明かす書。
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305705143/
私自身も、もちろん渡邉氏の結論に賛成しますが、しかし、「慈光寺本が成立したとされる一二三〇年代」(p90)という時期を考えると、渡邉説にはいくつかの疑問も生じてきます。
というのは、渡邊氏は藤原範茂の「作り替えられる辞世歌」について、流布本や前田家本の歌も含め、
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こうした例は、歌は物語に合わせて作られ、地の文が変われば作り替えられることがあったことを物語る。作り物語では当然のことなので、このような営為は自然であったろう。
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と述べられており(p81)、「作り物語」の一般論としては正しいと私も思いますが、慈光寺本の場合はどうなのか。
「慈光寺本が成立したとされる一二三〇年代」は、承久の乱の記憶がまだまだ生々しい時期であり、七条院は安貞二年(1228)に死去していますが、後鳥羽院は延応元年(1239)まで存命であり、順徳院(1197-1242)・九条道家(1193-1252)も存命です。
そのような時期に、後鳥羽院・七条院・順徳院・九条道家の短歌・長歌を「物語に合わせて」自由に創作した「作り物語」を公表することが果たして可能だったのか。
まあ、名義人たちの承諾があれば可能だったかもしれませんが、慈光寺本の短歌・長歌は贈答歌の基本さえ押さえていない非常に低レベルの「下手の横好き」が作った、箸にも棒にもかからない作品群ですから、こんなものを名義人たちが許諾したとは思えません。
後鳥羽院・順徳院・九条道家はみんな激怒、七条院も草葉の陰から激怒したに違いないと私は考えます。
また、和歌の問題とは別に、「慈光寺本が成立したとされる一二三〇年代」という時期を考えると、慈光寺本にはもう一つの重大な内容上の問題があります。
それは慈光寺本では北条義時が大悪人として描かれている点です。
そもそも慈光寺本では、後鳥羽院の人物像が描かれる前に北条義時が登場しており、その義時は、
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爰〔ここ〕に、右京権大夫義時ノ朝臣思様〔おもふやう〕、「朝〔てう〕ノ護〔まもり〕源氏ハ失終〔うせをはり〕ヌ。誰〔たれ〕カハ日本国ヲバ知行〔ちぎやう〕スベキ。義時一人シテ万方〔ばんぱう〕ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍〔あらそ〕フベキ」【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939
という具合いに、野心満々の大悪人です。
この義時像は、官軍の敗北が確定した後の場面で、
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去程〔さるほど〕ニ、六月十五日巳時〔みのとき〕ニハ、武蔵守六波羅ヘ著〔つき〕給フ。同十七日午時ニ、式部丞モ六波羅ヘ著給フ。其時、武蔵守ハ御文急〔いそぎ〕鎌倉ヘ参〔まゐら〕セラル。「東国ヨリ都ヘ向〔むかひ〕シ人々ノ、水ニ流ルゝトモナク討ルゝトモナク、一万三千六百廿人ハ死〔しに〕タリ。泰時ト同ク都ヘ著テ、勧賞〔けんぢやう〕蒙〔かうぶ〕ラント申〔まうす〕人々、一千八百人也。所附〔ところづけ〕シテ賜ルベク候。又、院ニハ誰ヲカ成〔なし〕マイラスベキ、御位ニハ誰ヲカ附マイラスベキ。公卿・殿上人ヲバ、イカゞハカラヒ申ベキ。条々〔でうでう〕、能々〔よくよく〕計〔はからひ〕仰給ベシ」トゾ申サレタル。権太夫ハ、此状ヲ御覧ジテ申サレケル。「是〔これ〕見給ヘ、和殿原。今ハ義時思フ事ナシ。義時ノ果報〔くわほう〕ハ、王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。義時ガ昔〔むかしの〕報行〔ほうぎやう〕、今一〔いまひとつ〕足ラズシテ、下臈〔げらふ〕ノ報ト生マレテリケル」トゾ申サレケル。
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と描かれる、泰時からの勝利の報告を人々に見せびらかす義時像と完全に対応しています。
また、亀菊エピソードにおいても、流布本の義時が御家人一般の利益を守ろうとする幕府指導者であるのに対し、慈光寺本では長江荘の地頭が義時であって、義時は「如何ニ、十善ノ君ハ加様ノ宣旨ヲバ被下候ヤラン。於余所者、百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍頸ヲ被召トモ、努力叶候マジ」という具合いに、自分の私利私欲のために後鳥羽に敵対する小人です。
慈光寺本と流布本での亀菊エピソードの比較
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1d5f99d668d0f60dca6f9724b11de8e
このような大野心家で卑小な私利私欲に満ちた義時像が描かれた「作り物語」を、1230年代の幕府は許容することができたのか。