学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その13)─三浦胤義の義時追討計画

2023-02-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本では、藤原秀康が予め三浦胤義を知っていて、後鳥羽院に「駿河守義村ガ弟ニ、平判官胤義コソ此程都ニ上テ候エ。胤義ニ此由申合テ、義時討ン事易候」と提案しますが、流布本では、逆に後鳥羽院が三浦胤義の在京を知っていて、藤原秀康に「抑〔そもそも〕胤義は関東伺候の身として、久〔ひさしく〕在京するは何事ぞ。若〔もし〕存ずる旨あるか。尋きけ」と命じています。
僅かな違いですが、こんなところにも流布本が後鳥羽院の独裁者性を強調し、慈光寺本がそれを弱めていることが現れています。
さて、続きです。(p308以下)

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 能登守秀康ハ、高陽院殿〔かやのゐんどの〕ノ御倉町〔みくらまち〕辺ノ北辺〔ほくへん〕ニ宿所有ケリ。平判官胤義ヲ請寄〔しやうじよせ〕、酒盛〔さかもり〕ヲ始テ申様〔まうすやう〕、「今日ハ判官殿ト秀康ト、心静〔しづか〕ニ一日〔ひとひ〕酒盛仕ラン」トテ、隠座〔をんざ〕ニ成テ、能登守申様、「ヤ、判官殿、三浦・鎌倉振棄〔ふりすて〕テ都ニ上リ、十善君ニ宮仕〔みやづか〕ヘ申サセ給ヘ。和殿〔わどの〕ハ一定〔いちぢやう〕心中ニ思事〔おもふこと〕マシマスラント推〔すい〕スル也。一院〔いちゐん〕ハヨナ、御心サスガノ君ニテマシマス也。此程思食〔おぼしめす〕事有ヤラント推シ奉〔たてまつる〕。殿ハ鎌倉ニ付〔つく〕ヤ付〔つか〕ズヤ、十善ノ君ニハ随ヒマヒラセンヤ、計〔はからひ〕給ヘ、判官殿」トゾ申タル。
 判官ハ此由〔このよし〕聞〔きき〕、返答申ケルハ、「神妙〔しんべう〕也トヨ、能登殿。胤義ハ先祖ノ三浦・鎌倉振捨〔ふりすて〕テ、都ニ上リ、十善ノ君ニ宮仕マヒラスルハ、心中ニ存事〔ぞんずること〕ノ候也。如何ト申セバ、胤義ガ妻ヲバ誰トカ思食〔おぼしめす〕。鎌倉一トハヤリシ一法執行〔いちほふのしゆぎやう〕ガ娘ゾカシ。故左衛門督殿ノ御台所ニ参テ候シガ、若君一人出来〔いでき〕サセ給テ候キ。督殿〔かうどの〕ハ遠江守時政ニ失ハレサセ給ヌ。若君ハ其子ノ権大夫義時ニ害セラレサセ給ヌ。胤義契〔ちぎり〕ヲ結〔むすび〕テ後、日夜ニ袖ヲ絞ル、ムザンニ候。「男子〔なんし〕ノ身也セバ、深山ニ遁世シテ念仏申メレ、後生ヲモ弔マヒラスベキニ、女人ノ身ノ口惜サヨ」ト申シテ流涙〔ながすなみだ〕ヲ見〔みる〕ニ付テモ、万〔よろ〕ヅ哀〔あはれ〕ニ候也。三千大千世界ノ中ニ、黄金ヲ積テ候共〔とも〕、命ニカヘバ物ナラジ。勝〔まさり〕テ惜キハ人命〔ひとのいのち〕也。ワリナキ宿世〔すくせ〕ニ逢ヌレバ、惜命〔をしきいのち〕モ惜カラズ。去バ胤義ガ都ニ上テ、院ニ召サレテマイリ、謀反起〔おこし〕、鎌倉ニ向テヨキ矢一〔ひとつ〕射テ、夫妻ノ心ヲ慰メバヤト思ヒ候ツルニ、加様〔かやう〕ニ院宣ヲ蒙〔かうぶる〕コソ面目ニ存〔ぞんじ〕候ヘ。胤義ガ兄駿河守義村ガ許〔もと〕ヘ文ヲダニ一下〔ひとつくだし〕ツル物ナラバ、義時打取ランニ易〔やすく〕候。其状ニ、「胤義ガ都ニ上リテ、院ニ召〔めさ〕レテ謀反ヲコシ、鎌倉ニ向テ好矢〔よきや〕一〔ひとつ〕射テ、今日ヨリ長ク鎌倉ヘコソ下〔くだ〕リ候マジケレ。去〔され〕バ昔ヨリ八ケ国ノ大名・高家〔かうけ〕ハ、弓矢ニ付〔つけ〕テ親子ノ奉公ヲ忘レヌ者ナレバ、権大夫ハ大勢〔おほぜい〕ソロヘテ都ヘ上〔のぼ〕セテ、九重中〔ここのへぢう〕ヲ七重八重〔ななへやへ〕ニ打巻〔うちまき〕テ、謀反ノ輩責玉〔せめたま〕ハンズラン。駿河殿ハ、権大夫ト一〔ひとつ〕ニテ、三浦ニ九七五ナル子供三人乍〔ながら〕、権太夫ノ前ニテ頸切〔くびきり〕失〔うしなひ〕給ヘ。サヤウ成ヌル物ナラバ、殿ト権太夫殿、中ハ隔心〔きやくしん〕ナクシテ、諸国ノ武士ハ上〔のぼる〕トモ、殿ハ上〔のぼら〕ズシテ、三浦ノ人共勧仰〔すすめおほ〕セテ、権太夫ヲ打玉ヘ。打〔うち〕ツル物ナラバ、胤義モ三人ノ子共ニヲクレテ候ハン其替〔そのかはり〕ニ、殿ト胤義ト二人シテ日本国ヲ知行〔ちぎやう〕セン」ト、文ダニ一下〔ひとつくだし〕ツル者ナラバ、義時討〔うた〕ンニ易〔やすく〕候。加様ノ事ハ延〔のび〕ヌレバ悪〔あしく〕候。急ギ軍〔いくさ〕ノ僉議〔せんぎ〕候ベシ」トゾ申タル。能登守秀康ハ、又此由院奏シケレバ、「申〔まうす〕所、神妙也。サラバ急ギ軍ノ僉議仕レ」トゾ勅定ナル。
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「一法執行」については久保田淳氏の脚注に、

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尊卑分脈、源頼家の子栄実に「母昌実法橋女」と見える昌実か。吾妻鏡には成勝寺執行一品房法橋昌寛が頻出する。あるいは昌実は昌寛と同一人か。古活字本は「意法坊生観ガムスメ」、前田本は「一法房と申ものゝ女という。
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とあります。
また、『吾妻鏡』建保二年(1214)十一月二十五日条には、

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晴。六波羅飛脚到着。申云。和田左衛門尉義盛。大學助義淸等餘類住洛陽。以故金吾將軍家御息〔号禪師〕爲大將軍。巧叛逆之由。依有其聞。去十三日。前大膳大夫之在京家人等。襲件旅亭〔一條北邊〕之處。禪師忽自殺。伴黨又逃亡云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma22a-11.htm

とあって、「故金吾將軍家御息」の「禅師」(永実)は和田合戦の残党に担がれて謀反を計画しているものとして、大江広元の「在京家人」に襲われて自殺しています。
これは義時の了解なしには行えなかったでしょうから、「若君ハ其子ノ権大夫義時ニ害セラレサセ給ヌ」は間違いではないですね。
さて、この藤原秀康と三浦胤義の密談自体はそれなりにリアルな感じがしますが、ここで胤義が語ったという義時追討計画はどうなのか。
そもそも、「三浦ニ九七五ナル子供三人乍、権太夫ノ前ニテ頸切失給ヘ」云々は、この部分だけだと意味が分かりにくく、流布本の下巻、戦後処理の部分と合わせて考えるとやっと意味が通り、胤義の十一・九・七・五・三歳の五人の子供のうち、九・七・五歳の子の首を、義時への忠誠を偽装する手段として義時の面前で斬れ、という話のようです。
しかし、自分の子供三人を犠牲にして、兄と二人で日本国を支配しようと提案するというのは何とも浅ましい話です。
そして、流布本に描かれた胤義の子供の運命を考えると、胤義が幕府を裏切ったという一報が鎌倉に届いた時点で胤義の子供は斬罪と決定され、仮に義村が胤義の三人の子の首を斬ったとしても、当たり前のことを当たり前にやっただけ、と評価される可能性は高そうです。
また、仮に義時が胤義の策略に乗って、よくやってくれた、さすがは義村殿は信頼できる、と思ったとしても、では大将軍をお任せするから存分に活躍して下さい、と言われる可能性も高そうです。
まあ、この胤義案は余りに粗雑な、芝居がかった、ちょっと莫迦っぽい義時追討計画ですね。

「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dddf5d1ff155e2007a1f34eb2458d38f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3524c6fda5cab1bff97581a0c9edfee4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cfc6621dd621c55e9cac74188151569
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その12)─卿二位が登場する意味

2023-02-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本だけに存在する公卿僉議の場面で「近衛殿」(基通、1160-1233)が義時追討に消極的な意見を述べると、卿二位が反論します。(p307)

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 茲〔ここ〕ニ、女房卿二位〔きやうのにゐ〕殿、簾中〔れんちう〕ヨリ申サセ給ケルハ、「大極殿造営ニ、山陽道ニハ安芸・周防、山陰道ニハ但馬・丹後、北陸道ニハ越後・加賀、六ケ国マデ寄ラレタレドモ、按察<光親>・秀康ガ沙汰トシテ、四ケ国ハ国務ヲ行〔おこなふ〕ト雖〔いへども〕、越後・加賀両国ハ、坂東ノ地頭、用ヒズ候ナル。去〔され〕バ、木ヲ切〔きる〕ニハ本ヲ断〔たち〕ヌレバ、末ノ栄〔さかゆ〕ル事ナシ。義時ヲ打〔うた〕レテ、日本国ヲ思食儘〔おぼしめすまま〕ニ行ハセ玉ヘ」トゾ申サセ給ケル。院ハ此由〔このよし〕聞食〔きこしめし〕テ、「サラバ秀康メセ」トテ、御所ニ召サル。院宣ノ成〔なり〕ケル様、「義時ガ数度〔すど〕ノ院宣ヲ背〔そむく〕コソ奇怪ナレ。打〔うつ〕ベキ由思食立〔おぼしめしたつ〕。計〔はからひ〕申セ」トゾ仰下〔おほせくだ〕リケル。秀康畏〔かしこまり〕テ奏申〔そうしまうし〕ケルハ、「駿河守義村ガ弟ニ、平判官胤義コソ此程〔このほど〕都ニ上〔のぼり〕テ候エ。胤義ニ此由申合〔まうしあはせ〕テ、義時討〔うた〕ン事易〔やすく〕候」トゾ申ケル。
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そもそも大極殿造営の必要が生じたのは、鎌倉殿(候補)に三寅が選ばれたことに不満を抱いた源三位頼政の孫・頼茂が反抗的な態度を示したので後鳥羽院が追討を命じ、承久元年(1219)七月十三日、合戦になって大内裏が焼けてしまったからですが、慈光寺本はその点は触れません。
そして、公卿僉議の正式メンバーではない卿二位が、簾中から、造営費用をまかなうため、山陽道は安芸・周防、山陰道は但馬・丹後、北陸道は越後・加賀の合計六か国の税収をあてることに決定し、葉室光親・藤原秀康を四ヵ国の国司(または知行国主?)にしたけれども、越後・加賀は「坂東ノ地頭」が非協力的で、再建事業が進まない、木を切るには根本を切らなければならないように、諸悪の根源は義時なのだから、義時を討って「日本国ヲ思食儘ニ行ハセ玉ヘ」(日本国を思い通りに支配なさって下さい)と主張します。
最後の表現は義時登場場面の「朝ノ護源氏ハ失終ヌ。誰カハ日本国ヲバ知行スベキ。義時一人シテ万方ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍フベキ」に対応していますね。
さて、卿二位はいったい何のために登場しているのか。
流布本では卿二位は登場せず、全て後鳥羽院が独断で進めています。
即ち、源頼茂の追討も、

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 都には又、源三位頼政が孫、左馬権頭頼持とて、大内守護に候けるを、是も多田満仲が末なればとて、一院より西面の輩を差遣し、被攻しかば、是も難遁とて、腹掻切てぞ失にける。院の関東を亡さんと被思召ける事は現前なり。故大臣殿の官位、除目ごとに望にも過て被成けり。是は、官打にせん為とぞ。三条白川の端に、関東調伏の堂を建て、最勝四天王院と被名。されば大臣殿、無程被打給しかば、白川の水の恐れも有とて、急ぎ被壊にけり。
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という具合いに(松林靖明『新訂承久記』、p53)、実朝の「官打」、最勝四天王院の建立と破却と並んで、後鳥羽院の「関東を亡さんと被思召ける事」が「現前」であることの現れとしています。
実朝の「官打」と最勝四天王院については、近時の学説は流布本の描き方に懐疑的ですが、流布本では後鳥羽の討幕の意思が極めて堅固であることの証拠という位置付けですね。
とにかく、流布本では全てを後鳥羽院が独裁者として決定しており、公卿僉議も近衛基通の消極的意見も、それに対する卿二位の反論もありません。
とすると、慈光寺本で卿二位が登場する意味は、後鳥羽院の独裁者としての印象を弱めることにありそうです。
実は、慈光寺本では卿二位はもう一度登場します。
即ち、いよいよ義時追討の決意を固めた後鳥羽院が陰陽師七人を呼んで鎌倉攻撃の日取りを占わせたところ、「当時ハ不快」で、今回は中止して「年号替ラレテ、十月上旬ニ思食立ナラバ、成就仕テ平安ナルベシ」との回答だったので、後鳥羽院が悩んでいたところ、

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卿二位殿、又申サレケルハ、「陰陽師、神ノ御号〔みな〕を借テコソ申候ヘ。十善ノ君ノ御果報〔くわほう〕ニ義時ガ果報ハ対揚〔たいやう〕スベキ事カハ。且〔かつう〕ハ加様〔かやう〕ノ事、独〔ひとり〕ガ耳ニ聞ヘタルダニモ、世ニハ程ナク聞ユ。増シテ一千余騎ガ耳ニ触テン事、隠ス共隠アルマジ。義時ガ聞候ナン後ハ、弥〔いよいよ〕君ノ御為、重ク成候ベシ。只疾々〔とくとく〕思食立候ベシ」トゾ申サレタル。サラバ秀康召テ、先〔まず〕義時ガ縁者検非違使伊賀太郎判官光季ヲ可討由ヲ、宣旨ゾ下ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58

とあって、卿二位は再び後鳥羽院を叱咤激励します。
こうして慈光寺本では、二度に亘って卿二位が後鳥羽院以上の強硬派として登場し、後鳥羽院を叱咤激励しており、この二つの卿二位エピソードは後鳥羽院の独裁者としての印象を軽減し、併せて後鳥羽院への責任非難を軽減する機能がありますね。
また、卿二位が登場することで、

朝廷:後鳥羽院と卿二位
幕府:義時と「二位殿」(北条政子)

というシンメトリカルな構図になっている点も面白いですね。
流布本では、独裁者の後鳥羽院がたった一人で義時・政子に対峙、という構図です。
なお、流布本では、卿二位は後鳥羽院が隠岐に流される場面に、

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 同十三日、隠岐国へ移し可奉と聞へしかば、御文遊して九条殿へ奉らせ給ふ。「君しがらみと成て、留させ給なんや」とて、御歌を被遊ける。

  墨染の袖に情を懸よかし涙計にくちもこそすれ

加様に被遊けるとなん。御乳母の卿の二位殿、あはて参て見進〔まゐ〕らするに、譬〔たとへ〕ん方ぞ無りけり。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae971e493adbe288b43f7a272012f86f

と登場するだけで、慈光寺本に比べれば弱々しい人物に造型されています。
逆に、慈光寺本では、戦後処理の方には卿二位は一切登場しません。

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