慈光寺本では、藤原秀康が予め三浦胤義を知っていて、後鳥羽院に「駿河守義村ガ弟ニ、平判官胤義コソ此程都ニ上テ候エ。胤義ニ此由申合テ、義時討ン事易候」と提案しますが、流布本では、逆に後鳥羽院が三浦胤義の在京を知っていて、藤原秀康に「抑〔そもそも〕胤義は関東伺候の身として、久〔ひさしく〕在京するは何事ぞ。若〔もし〕存ずる旨あるか。尋きけ」と命じています。
僅かな違いですが、こんなところにも流布本が後鳥羽院の独裁者性を強調し、慈光寺本がそれを弱めていることが現れています。
さて、続きです。(p308以下)
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能登守秀康ハ、高陽院殿〔かやのゐんどの〕ノ御倉町〔みくらまち〕辺ノ北辺〔ほくへん〕ニ宿所有ケリ。平判官胤義ヲ請寄〔しやうじよせ〕、酒盛〔さかもり〕ヲ始テ申様〔まうすやう〕、「今日ハ判官殿ト秀康ト、心静〔しづか〕ニ一日〔ひとひ〕酒盛仕ラン」トテ、隠座〔をんざ〕ニ成テ、能登守申様、「ヤ、判官殿、三浦・鎌倉振棄〔ふりすて〕テ都ニ上リ、十善君ニ宮仕〔みやづか〕ヘ申サセ給ヘ。和殿〔わどの〕ハ一定〔いちぢやう〕心中ニ思事〔おもふこと〕マシマスラント推〔すい〕スル也。一院〔いちゐん〕ハヨナ、御心サスガノ君ニテマシマス也。此程思食〔おぼしめす〕事有ヤラント推シ奉〔たてまつる〕。殿ハ鎌倉ニ付〔つく〕ヤ付〔つか〕ズヤ、十善ノ君ニハ随ヒマヒラセンヤ、計〔はからひ〕給ヘ、判官殿」トゾ申タル。
判官ハ此由〔このよし〕聞〔きき〕、返答申ケルハ、「神妙〔しんべう〕也トヨ、能登殿。胤義ハ先祖ノ三浦・鎌倉振捨〔ふりすて〕テ、都ニ上リ、十善ノ君ニ宮仕マヒラスルハ、心中ニ存事〔ぞんずること〕ノ候也。如何ト申セバ、胤義ガ妻ヲバ誰トカ思食〔おぼしめす〕。鎌倉一トハヤリシ一法執行〔いちほふのしゆぎやう〕ガ娘ゾカシ。故左衛門督殿ノ御台所ニ参テ候シガ、若君一人出来〔いでき〕サセ給テ候キ。督殿〔かうどの〕ハ遠江守時政ニ失ハレサセ給ヌ。若君ハ其子ノ権大夫義時ニ害セラレサセ給ヌ。胤義契〔ちぎり〕ヲ結〔むすび〕テ後、日夜ニ袖ヲ絞ル、ムザンニ候。「男子〔なんし〕ノ身也セバ、深山ニ遁世シテ念仏申メレ、後生ヲモ弔マヒラスベキニ、女人ノ身ノ口惜サヨ」ト申シテ流涙〔ながすなみだ〕ヲ見〔みる〕ニ付テモ、万〔よろ〕ヅ哀〔あはれ〕ニ候也。三千大千世界ノ中ニ、黄金ヲ積テ候共〔とも〕、命ニカヘバ物ナラジ。勝〔まさり〕テ惜キハ人命〔ひとのいのち〕也。ワリナキ宿世〔すくせ〕ニ逢ヌレバ、惜命〔をしきいのち〕モ惜カラズ。去バ胤義ガ都ニ上テ、院ニ召サレテマイリ、謀反起〔おこし〕、鎌倉ニ向テヨキ矢一〔ひとつ〕射テ、夫妻ノ心ヲ慰メバヤト思ヒ候ツルニ、加様〔かやう〕ニ院宣ヲ蒙〔かうぶる〕コソ面目ニ存〔ぞんじ〕候ヘ。胤義ガ兄駿河守義村ガ許〔もと〕ヘ文ヲダニ一下〔ひとつくだし〕ツル物ナラバ、義時打取ランニ易〔やすく〕候。其状ニ、「胤義ガ都ニ上リテ、院ニ召〔めさ〕レテ謀反ヲコシ、鎌倉ニ向テ好矢〔よきや〕一〔ひとつ〕射テ、今日ヨリ長ク鎌倉ヘコソ下〔くだ〕リ候マジケレ。去〔され〕バ昔ヨリ八ケ国ノ大名・高家〔かうけ〕ハ、弓矢ニ付〔つけ〕テ親子ノ奉公ヲ忘レヌ者ナレバ、権大夫ハ大勢〔おほぜい〕ソロヘテ都ヘ上〔のぼ〕セテ、九重中〔ここのへぢう〕ヲ七重八重〔ななへやへ〕ニ打巻〔うちまき〕テ、謀反ノ輩責玉〔せめたま〕ハンズラン。駿河殿ハ、権大夫ト一〔ひとつ〕ニテ、三浦ニ九七五ナル子供三人乍〔ながら〕、権太夫ノ前ニテ頸切〔くびきり〕失〔うしなひ〕給ヘ。サヤウ成ヌル物ナラバ、殿ト権太夫殿、中ハ隔心〔きやくしん〕ナクシテ、諸国ノ武士ハ上〔のぼる〕トモ、殿ハ上〔のぼら〕ズシテ、三浦ノ人共勧仰〔すすめおほ〕セテ、権太夫ヲ打玉ヘ。打〔うち〕ツル物ナラバ、胤義モ三人ノ子共ニヲクレテ候ハン其替〔そのかはり〕ニ、殿ト胤義ト二人シテ日本国ヲ知行〔ちぎやう〕セン」ト、文ダニ一下〔ひとつくだし〕ツル者ナラバ、義時討〔うた〕ンニ易〔やすく〕候。加様ノ事ハ延〔のび〕ヌレバ悪〔あしく〕候。急ギ軍〔いくさ〕ノ僉議〔せんぎ〕候ベシ」トゾ申タル。能登守秀康ハ、又此由院奏シケレバ、「申〔まうす〕所、神妙也。サラバ急ギ軍ノ僉議仕レ」トゾ勅定ナル。
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「一法執行」については久保田淳氏の脚注に、
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尊卑分脈、源頼家の子栄実に「母昌実法橋女」と見える昌実か。吾妻鏡には成勝寺執行一品房法橋昌寛が頻出する。あるいは昌実は昌寛と同一人か。古活字本は「意法坊生観ガムスメ」、前田本は「一法房と申ものゝ女という。
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とあります。
また、『吾妻鏡』建保二年(1214)十一月二十五日条には、
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晴。六波羅飛脚到着。申云。和田左衛門尉義盛。大學助義淸等餘類住洛陽。以故金吾將軍家御息〔号禪師〕爲大將軍。巧叛逆之由。依有其聞。去十三日。前大膳大夫之在京家人等。襲件旅亭〔一條北邊〕之處。禪師忽自殺。伴黨又逃亡云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma22a-11.htm
とあって、「故金吾將軍家御息」の「禅師」(永実)は和田合戦の残党に担がれて謀反を計画しているものとして、大江広元の「在京家人」に襲われて自殺しています。
これは義時の了解なしには行えなかったでしょうから、「若君ハ其子ノ権大夫義時ニ害セラレサセ給ヌ」は間違いではないですね。
さて、この藤原秀康と三浦胤義の密談自体はそれなりにリアルな感じがしますが、ここで胤義が語ったという義時追討計画はどうなのか。
そもそも、「三浦ニ九七五ナル子供三人乍、権太夫ノ前ニテ頸切失給ヘ」云々は、この部分だけだと意味が分かりにくく、流布本の下巻、戦後処理の部分と合わせて考えるとやっと意味が通り、胤義の十一・九・七・五・三歳の五人の子供のうち、九・七・五歳の子の首を、義時への忠誠を偽装する手段として義時の面前で斬れ、という話のようです。
しかし、自分の子供三人を犠牲にして、兄と二人で日本国を支配しようと提案するというのは何とも浅ましい話です。
そして、流布本に描かれた胤義の子供の運命を考えると、胤義が幕府を裏切ったという一報が鎌倉に届いた時点で胤義の子供は斬罪と決定され、仮に義村が胤義の三人の子の首を斬ったとしても、当たり前のことを当たり前にやっただけ、と評価される可能性は高そうです。
また、仮に義時が胤義の策略に乗って、よくやってくれた、さすがは義村殿は信頼できる、と思ったとしても、では大将軍をお任せするから存分に活躍して下さい、と言われる可能性も高そうです。
まあ、この胤義案は余りに粗雑な、芝居がかった、ちょっと莫迦っぽい義時追討計画ですね。
「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その1)~(その4)
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