学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その8)─「国王ノ兵乱十二度」の謎

2023-02-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p301以下)

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 七十三代ノ帝ヲバ、鳥羽院トゾ申ケル。嫡子崇徳院ノ御位〔おんくらゐ〕ヲ押下〔おしおろ〕シ、当腹〔たうぶく〕ノ王子近衛院ヲ御位ニ即〔つけ〕申サルゝノ処ニ、近衛院十七歳ニシテ崩御成ヌ。然レバ、愛子ノ御事ナレバ、御弟ナレドモ、力不及〔ちからおよばず〕。崩御ノ上ハ、御位ヲバ崇徳院ヘ還〔かへし〕被申〔まうされ〕テ重祚アルカ、御嫡孫重仁ノ親王ヲ御位ニ即申サルゝカト思食〔おぼしめす〕処ニ、思ノ外ニ、第四ノ宮後白河ノ院ヘ御位ヲマイラセラレケレバ、崇徳院ハ無本意〔ほいなく〕思食ケレドモ、法皇ノ御計〔はから〕ヒナレバ、力不及、御堪忍〔かんにん〕アル処ニ、無程〔ほどなく〕法皇モ崩御ナル間、崇徳院、ヤガテ御中陰ノ中ヨリ御謀叛ヲ被興〔おこされ〕、主上ト上皇ト御合戦アリ。是ヲ保元ノ乱ト云。今、都ノ乱ノ始也。遂ニ上皇打負サセ給テ、讃岐ノ国ヘ配流アリ。
 人王八十代高倉院ト申〔まうす〕ハ、後白河院第三王子、平相国清盛公ノ御娘中宮ニ<徳子>御参〔おんまゐり〕アリ。後、建礼門院トゾ申ケル。其御腹ニ王子一人マシマシケリ。安徳天皇トゾ申ケル。三歳ニテ即位。外戚入道大相国、一向天下ヲ執行〔しゆぎやう〕セシ程ニ、源氏、一向頭〔かしら〕ヲ出ス輩〔ともがら〕ナシ。雖然〔しかりといへども〕、相国ノ運命モ漸〔やうやく〕末ニ成シカバ、嫡子小松内大臣重盛公モ薨ジ給フ間、相国悪行、日来〔ひごろ〕ニ超過スル間、源氏マタ依院宣〔ゐんぜんにより〕、前右兵衛佐頼朝ハ坂東ヨリ打テ上リ、木曾二郎義仲北国ヨリ責上テ、無程平家ハ没落ス。遂ニ元暦二年正月ニ、頼朝舎弟蒲官者範頼・九郎判官義経、讃岐八島ニ進発シテ、平家ヲ責落〔せめおとす〕。二月下旬ニハ、平家ノ一類悉〔ことごとく〕壇ノ浦ニテ入海ス。剰〔あまさへ〕、大将軍前右大臣宗盛父子三人、其外生捕〔いけどり〕数多〔あまた〕。宗盛父子ヲ為始〔はじめとして〕、皆々被切〔きられ〕給ニケレバ、無程源氏ノ世トゾ成ニケル。其後、兵衛佐殿ハ鎌倉館〔たち〕ヲ構ヘ、鎌倉殿ト被仰給。
 昔、綏靖天皇ヨリ、今、安徳天皇マデ、国王の兵乱十二度ニコソ当ケレ。
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保元の乱(1156)の記述は特に変ではありませんが、「国王兵乱」を記すなら、保元の乱の後、平治の乱(1159)を書かなければならないのに、それが存在しないのは変ですね。
源平合戦については、壇ノ浦の戦いが「二月下旬」となっているのは変で、正しくは三月二十四日ですが、まあ、細かな話ですね。
さて、49行に及ぶ「国王兵乱」の記事には、きちんと調べたとは思えない奇妙な箇所が多々ありますが、一番変なのは、ここに挙げられている「兵乱」を全部数えても十二にならないことです。
即ち、順番に列挙すると、

(1)綏靖天皇の時代、「震旦国」が「十万八千騎ノ勢」で攻めてきたが、敗退。
(2)開化天皇が「兄ノ位ヲ打取テ、世ヲ治玉フ」
(3)仲哀天皇が「異国ノ為ニ崩御」した後、神功皇后による三韓征伐
(4)聖徳太子と物部守屋との仏教をめぐる合戦
(5)斉明天皇が「春宮打失、后奪取テ位ヲ、治玉フ」
(6)文武天皇が「極テ心悪ク、腹カラ舎弟ノ王胤共ヲ打失」
(7)「聖武天皇ト弟ノ親王ト合戦」
(8)保元の乱
(9)源平合戦

ということで、九回だけです。
(3)の仲哀天皇が「異国ノ為ニ崩御」したことと神功皇后による三韓征伐を無理やり二つに分け、更に平治の乱が何らかの理由で欠落したとしても十一回になるだけで、十二ではありません。
これはいったいどういうことなのか。
慈光寺本の作者はやたらと数字を列挙する癖がありますが、実は数えることが苦手だったのか。
それとも単にそそっかしい性格だったのか。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その7)─「国王兵乱」

2023-02-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

くどいようですが、私には大津雄一氏が「慈光寺本『承久記』は嘆かない」で表明された見解に賛同できるところは一つもありません。

大津雄一「慈光寺本『承久記』は嘆かない」には賛成できる点がひとつもない。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07a3c0aa92664d6fb1f0edd2cd08ec
順徳院と九条道家の長歌贈答について(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b05d81ebef2e7d92f2e15bb693489ed8

そもそもタイトルの「慈光寺本『承久記』は嘆かない」という基本的な認識自体が誤りですので、この誤った認識に基づく大津氏の議論と私の議論は、「四劫」がどんなに繰り返されようと、未来永「劫」、噛み合うことはなく、批判しても仕方ないので紹介だけに止めます。
さて、続きです。
天神・地神の「合〔あはせ〕テ十二代ハ神ノ御世」の後、神武天皇の時代となります。(p299以下)

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 人王ノ始ヲバ、神武天皇トゾ申ケル。葺不合尊ノ四郎ノ王子ニテゾマシマシケル。其ヨリシテ去〔さん〕ヌル承久三年マデハ、八十五代ノ御門〔みかど〕ト承ル。其間ニ国王兵乱〔ひやうらん〕、今度マデ具〔つぶさに〕シテ、已〔すで〕ニ十二ケ度ニ成。
 其始〔そのはじめ〕ノ兵乱ヲ尋ヌレバ、神武天皇ノ三郎王子綏靖天皇ト申〔まうす〕御時、震旦国ヨリ我朝ヲ打ナビケントテ、十万八千騎ノ勢ヲ率シテ打渡〔うちわたり〕、戦〔たたかひ〕ケルニ、戦負テ帰〔かへり〕ニケリ。
 神武天皇ヨリ九代ノ国王ヲバ、開化天皇トゾ申ケル。兄ノ位ヲ打取テ、世ヲ治玉〔おさめたま〕フ。
 十四代ノ国王ヲバ、仲哀天皇トゾ申ケル。其后ヲバ、神功皇后トゾ申ケル。帝崩御成テ後、世ヲ治玉〔をさめたま〕フ。女帝ノ御門ノ始也。御心極テ武〔たけ〕クゾ御座〔おはし〕マス。中哀天皇ハ異国ノ為ニ崩御ナリシカバ、鬼界〔きかい〕・高麗〔かうらい〕・契旦〔けいたん〕ノ三韓〔さんかん〕ヲ打取テ、我朝ノ進退ニナサバヤト思食〔おぼしめし〕、十万八千騎ノ軍兵ヲ引率シテ、筑紫ノ博多ニ打下リ、船ヲ汰〔そろ〕ヘ玉フ。其折節〔をりふし〕、御懐妊〔ごくわいにん〕有。漸〔やうやく〕十ケ月ニモ成ケレバ、王子生〔うま〕レントシ給シカバ、胎内ノ王子ニ申玉フ様、「王子誕生有テ後、果報〔くわほう〕目出度〔めでたく〕位ヲ治玉フベキナラバ、只今ハ誕生ナラデ、兵乱過テ後〔のち〕生レ玉ヘ」ト申サル。然間〔しかるあひだ〕、御産ノ時ヲゾ延〔のべ〕給ケル。辛巳歳十月二日、三韓ヲ打ナビカシテ、同十一月廿八日、筑紫ノ博多ヘ帰リ給テ、五日ト申〔まうす〕日ゾ、王子ハ産レ玉ヒケルガ、七十歳ニ成〔なり〕玉フマデハ、神宮皇后モ御勇健ニテ、世ヲ治〔をさめ〕給フ事七十年、遂ニ百歳ニテ崩御成テ、皇子七十歳ニシテ、初〔はじめ〕テ世ヲ治(給)フ事四十三年、応神天皇ト申ス。今ノ八幡大菩薩ニテゾマシマシケル。
 三十二代ノ国王ヲバ、用明天皇トゾ申ケル。此帝ノ二郎王子聖徳太子ト守屋ノ大臣ト、此界〔さかひ〕ニ仏法弘〔ひろ〕メン弘メジノ御諍〔あらそひ〕、遂ニ合戦ニ成テ、守屋討タレニケリ。此御願ニ依テ、太子難波ニ四天王寺ヲ建立〔こんりふ〕シテ、仏法最初ノ所トス。
 卅八代ノ国王ヲバ、斉明天皇トゾ申ケル。春宮打失〔とうぐううちうしなひ〕、后奪取テ位ヲ〔きさきくらゐをうばひとりて〕、治玉フ。
 四十二代ノ国王ヲバ、文武天皇トゾ申ケル。極テ心悪〔あし〕ク、腹〔はら〕カラ舎弟ノ王胤〔わういん〕共ヲ打失テ、始テ大宝ト云年号ヲ定メ下〔たま〕フ。
 其後、宝字年中ニハ、嫡子ノ聖武天皇ト弟ノ親王ト合戦アリ。
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いったん、ここで切ります。
神武天皇以来、「国王兵乱」が十二回あったとのことですが、「其始ノ兵乱」の「神武天皇ノ三郎王子綏靖天皇ト申御時、震旦国ヨリ我朝ヲ打ナビケントテ、十万八千騎ノ勢ヲ率シテ打渡、戦ケルニ、戦負テ帰ニケリ」というのはいったい何のことなのか、よく分りません。
久保田淳氏も脚注で「何による伝承か未詳」と書かれています。
ついで、開化天皇が「兄ノ位ヲ打取テ、世ヲ治玉フ」も謎で、久保田氏によれば「何に拠るか、未詳」です。
「中哀天皇ハ異国ノ為ニ崩御ナリシカバ」も少し分かりにくいところがありますが、久保田氏によれば「八幡愚童訓に、異国の流矢に当って崩じたというような伝承によるか。日本書紀は、新羅を討てとの信託を信じなかったので、神の怒りに触れて崩じたとする。底本「中」は「仲」の宛字」とのことなので、まあ、「異国ノ為ニ崩御」といってもおかしくはないのかもしれません。
神功皇后の三韓征伐の話は有名ですが、普通、「三韓」は新羅・高麗・百済とされているので、「鬼界・高麗・契旦ノ三韓」という表現は若干気になりますし、「十万八千騎ノ勢」は綏靖天皇の時、「震旦国」から来たという「十万八千騎ノ勢」と重なりますが、その根拠は何なのか。
その他、久保田氏の脚注によれば「日本書紀では「和珥津」(対馬)から船を出したとする」、「日本書紀には帰国の日時を明記云していない」とのことで、独自に脚色している感じがしないでもありません。
「此帝ノ二郎王子聖徳太子」については、久保田氏によれば「日本書紀では聖徳太子(厩戸皇子)は用明天皇の第一皇子とする」とのことですが、まあ、これは細かい話ですね。
しかし、斉明天皇が「春宮打失、后奪取テ位ヲ、治玉フ」とは何なのか。
斉明天皇は「皇極天皇が重祚しての諡号。舒明天皇の皇后」ですが、久保田氏の「中大兄皇子がいるにもかかわらず二度も皇位に即いたことをこう言ったか」という解釈はあまりに好意的過ぎるような感じがします。

斉明天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87 

ついで文武天皇が「極テ心悪ク、腹カラ舎弟ノ王胤共ヲ打失テ」も謎で、久保田氏によれば「いかなる伝承によるか、未詳」です。
更に「宝字年中ニハ、嫡子ノ聖武天皇ト弟ノ親王ト合戦アリ」も謎で、久保田氏は「未詳。あるいは文武天皇の従兄弟に当たる長屋王が天平元年(七二九)自殺させられたことを誤って語るか」とされますが、これも余りに好意的過ぎる解釈ですね。

長屋王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その6)─仏教と日本の神話

2023-02-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

それでは少しずつ慈光寺本を読んで行くこととします。
冒頭に長い序文があるのが慈光寺本の特徴の一つですが、まずはその前半を紹介します。(岩波新日本古典文学大系本、p298以下)

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 娑婆世界ニ衆生利益ノ為ニトテ、仏ハ世ニ出給〔いでたま〕フ事、総ジテ申サバ、無始無終〔むしむしゆう〕ニシテ、不可有際限〔さいげんあるべからず〕。別シテ申サバ、過去ニ千仏、現在ニ千仏、未来ニ千仏、三世〔さんぜ〕に三千仏出世〔しゆつせ〕有ベシト承ル。過去ノ劫〔こふ〕ヲバ荘厳劫〔しやうごんごふ〕、現在ヲバ賢劫〔けんごふ〕、未来ヲバ星宿劫〔しやうしゆくごふ〕ト名付〔なづく〕ベシ。三世共〔とも〕ニ二十ノ増減アルベシ。過去二十ノ増減ノ間ニ、千仏出給〔いでたまひ〕ヌ。現在二十増減ノ間ニモ、亦〔また〕千仏、未来モ亦復〔またまた〕爾也〔しかなり〕。然〔しかる〕ニ、釈尊ノ出世ヲ何〔いづれ〕ノ比〔ころ〕ゾト云ニ、現在賢劫ノ中ニ第九減劫ニ、初〔はじめ〕テ仏出玉〔いでたま〕フヲ、拘留孫仏〔くるそんぶつ〕ト奉名〔なづけたてまつる〕。此時ハ人寿四万歳ノ時也。拘那含牟尼仏〔くなごんむにぶつ〕出ハ人寿三万歳、迦葉仏〔かせいぶつ〕ハ人寿二万歳ノ時出給フ。此時ハ釈尊、補処〔ふしよ〕ノ位トシテ、都率〔とそつ〕ノ内院〔ないゐん〕ニ生ジテ、今日人寿百歳時出世シマシマシテ、十九出家、三十成道〔じやうだう〕給。八十入滅〔にふめつ〕ノ時至〔いたり〕テ、狗尸那〔くしな〕城ノ西北方、抜提河〔ばつだいが〕ノ西ノ岸ニシテ、利生〔りしやう〕ノ光、黄金〔わうごん〕ノ櫃〔ひつ〕キニ納〔をさまり〕給フ。二千余年ノ春秋ハ夢ノ如〔ごとく〕ニシテ過〔すぎ〕ヌレド、今教法〔きようぼう〕盛〔さかり〕ニシテ、世間モ出世モ、明〔あきらか〕ニ習学スル人ハ、過去・未来マデ皆悟ル。
 抑〔そもそも〕、南閻浮提〔なんえんぶだい〕ノ間ニ、十六ノ大国、五百ノ中国、十千ノ小国、無量ノ粟散国〔ぞくさんこく〕有トハ聞ユレドモ、異朝ノ事ハサテヲキツ。仏法・王法始マリテ、目出度〔めでたき〕所ヲ尋ヌレバ、天竺・震旦・鬼界・高麗・景旦国〔けいたんごく〕、我朝日本日域〔じちゐき〕ニモ、劫初〔こふしよ〕ノ当初ヨリ今ニ至マデ、仏法ニカクレゾ無カリケル。天竺ノ王ヲ始〔はじめ〕ヲバ、民主王〔みんしゆわう〕トゾ申ケル。其ヨリシテ釈尊ノ父浄飯王〔じやうぼんわう〕ノ御時マデ、八万四千二百一十王ト承〔うけたまは〕ル。盤古王〔はんこわう〕トゾ申ケル。其〔それ〕ヨリシテ後漢ノ明帝ノ御時マデ、八万六千二百四十二王ト承ル。我朝日域ニモ、天神七代、地神〔ちじん〕五代ゾ御座〔おはし〕マス。天神ノ始ヲバ、国常立〔くにのとこたち〕ノ尊〔みこと〕トゾ申ケル。其ヨリシテ伊弉諾〔いざなき〕・伊弉冉〔いざなみ〕ノ尊マデ七代ヲバ、天神ノ御代トテ過〔すぎ〕ヌ。地神五代ノ始ヲバ、天照大神〔あまてらすおほみかみ〕トゾ申ケル。今ノ神明〔しんめい〕、是〔これ〕也。其ヨリシテ葺不合〔ふきあへず〕ノ尊マデ、地神五代モサテ過ヌ。合〔あはせ〕テ十二代ハ神ノ御世也。其ヨリ以来、人王〔にんわう〕百代マシマスベキト承ル。
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仏教関係が12行、仏教的観点に基づく「世界」地理と日本神話が10行、合計22行ですね。
あまりに遠大な話なので承久の乱との関係が分かりにくいのですが、研究者の中にはこの部分、特に「劫」に関する記述を極めて高く評価する人がいます。
それは早稲田大学教授・大津雄一氏(1954生)です。
以前にも書いたように、私は『挑発する軍記』(勉誠出版、2020)所収の「慈光寺本『承久記』は嘆かない」という大津氏の論文に賛成できるところは一つもありませんが、仏教関係の知識の整理にはなるので、少し紹介してみます。

大津雄一『挑発する軍記』
https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101165

この論文は、

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一  「文学」的価値
二  慈光寺本『承久記』
三  王の敗北
四  慶事
五  四劫と三千仏
六  『愚管抄』
七  『水鏡』
八  危機
九  歴史の語り方
十  したたかな人々
十一 不遜な発言
十二 慈光寺本の価値
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と構成されていますが、「五  四劫と三千仏」の冒頭で「娑婆世界ニ衆生利益ノ為ニトテ」から「過去・未来マデ皆悟ル」までを引用された後、大津氏は次のように述べています。(p171以下)

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 仏の出世は無始無終で際限なく、過去・現在・未来に三千の仏が出世する、釈迦の入滅後二千年が過ぎたが、その教えは盛んに行われ、これを学ぶ人は僧俗を問わず過去未来までみな悟るというのである。「三千」は限定的な数として理解されていない。仏の出世が無限であることを示す数詞としてある。
 釈迦入滅後二千一年目、日本では永承七年(一〇五二)から末法であり、仏法は正しく行われないという、平安期以降蔓延していた末法思想の悲観的な世界観はここには微塵もない。「諸行無常」などという嘆きとも無縁である。この後、南閻浮提〔なんえんぶだい〕の国々のうちで、「仏法・王法始マリテ、目出度所」として、天竺・震旦・鬼界・高麗・景旦国を挙げ、「我朝日本日域ニモ、劫初ノ当初ヨリ今ニ至マデ、仏法ニカクレゾ無カリケル」と記す。この無邪気ともいえる世界観は、四劫説に則った三世(三劫)三千仏説によっている。
 四劫説は、仏教の宇宙論的時間構造を説く。一つの世界が成立してから次の世界が成立するまでを、成劫・住劫・壊劫・空劫の四期に分ける。成劫は天界から地獄に至るまでの成立の期間、住劫は人間が安穏に存在する期間、壊劫は天界から地獄までが破壊される期間、空劫は破壊され尽くした後の空無の期間である。この四劫を一大劫とする。世界はこの生成と消滅のサイクルを繰り返す。
 『倶舎論』によるならば、一大劫を成す成・住・壊・空劫は、それぞれ二十の中劫からなる。劫には人間の寿命が八万四千歳(略して八万歳とする)から百年ごとに一歳ずつ減じて十歳に至る減劫と、十歳から百年ごとに一歳ずつまして八万四千歳に達する増劫とがあり、減・増劫二つを合わせた期間が一中劫である。他の成・壊・空劫も住劫と同じ長さであるとされる。 
 荘厳劫・賢劫・星宿劫の三劫については、それぞれ過去の大劫、現在の大劫、未来の大劫のことであるという説と、それぞれの大劫のうちの住劫にあたるという説があるが、いずれにしても、過去・現在・未来の住劫に千仏ずつの出生があるとするのが三世(三劫)三千仏説である。
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「『倶舎論』によるならば、一大劫を成す成・住・壊・空劫は、それぞれ二十の中劫からなる」の次は「住劫には人間の寿命が」と続かないと意味が通りませんが、「住」が抜けてしまったようですね。
この後、大津氏は『愚管抄』『水鏡』が四劫説の影響を受けているとされます。

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