続きです。(p301以下)
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七十三代ノ帝ヲバ、鳥羽院トゾ申ケル。嫡子崇徳院ノ御位〔おんくらゐ〕ヲ押下〔おしおろ〕シ、当腹〔たうぶく〕ノ王子近衛院ヲ御位ニ即〔つけ〕申サルゝノ処ニ、近衛院十七歳ニシテ崩御成ヌ。然レバ、愛子ノ御事ナレバ、御弟ナレドモ、力不及〔ちからおよばず〕。崩御ノ上ハ、御位ヲバ崇徳院ヘ還〔かへし〕被申〔まうされ〕テ重祚アルカ、御嫡孫重仁ノ親王ヲ御位ニ即申サルゝカト思食〔おぼしめす〕処ニ、思ノ外ニ、第四ノ宮後白河ノ院ヘ御位ヲマイラセラレケレバ、崇徳院ハ無本意〔ほいなく〕思食ケレドモ、法皇ノ御計〔はから〕ヒナレバ、力不及、御堪忍〔かんにん〕アル処ニ、無程〔ほどなく〕法皇モ崩御ナル間、崇徳院、ヤガテ御中陰ノ中ヨリ御謀叛ヲ被興〔おこされ〕、主上ト上皇ト御合戦アリ。是ヲ保元ノ乱ト云。今、都ノ乱ノ始也。遂ニ上皇打負サセ給テ、讃岐ノ国ヘ配流アリ。
人王八十代高倉院ト申〔まうす〕ハ、後白河院第三王子、平相国清盛公ノ御娘中宮ニ<徳子>御参〔おんまゐり〕アリ。後、建礼門院トゾ申ケル。其御腹ニ王子一人マシマシケリ。安徳天皇トゾ申ケル。三歳ニテ即位。外戚入道大相国、一向天下ヲ執行〔しゆぎやう〕セシ程ニ、源氏、一向頭〔かしら〕ヲ出ス輩〔ともがら〕ナシ。雖然〔しかりといへども〕、相国ノ運命モ漸〔やうやく〕末ニ成シカバ、嫡子小松内大臣重盛公モ薨ジ給フ間、相国悪行、日来〔ひごろ〕ニ超過スル間、源氏マタ依院宣〔ゐんぜんにより〕、前右兵衛佐頼朝ハ坂東ヨリ打テ上リ、木曾二郎義仲北国ヨリ責上テ、無程平家ハ没落ス。遂ニ元暦二年正月ニ、頼朝舎弟蒲官者範頼・九郎判官義経、讃岐八島ニ進発シテ、平家ヲ責落〔せめおとす〕。二月下旬ニハ、平家ノ一類悉〔ことごとく〕壇ノ浦ニテ入海ス。剰〔あまさへ〕、大将軍前右大臣宗盛父子三人、其外生捕〔いけどり〕数多〔あまた〕。宗盛父子ヲ為始〔はじめとして〕、皆々被切〔きられ〕給ニケレバ、無程源氏ノ世トゾ成ニケル。其後、兵衛佐殿ハ鎌倉館〔たち〕ヲ構ヘ、鎌倉殿ト被仰給。
昔、綏靖天皇ヨリ、今、安徳天皇マデ、国王の兵乱十二度ニコソ当ケレ。
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保元の乱(1156)の記述は特に変ではありませんが、「国王兵乱」を記すなら、保元の乱の後、平治の乱(1159)を書かなければならないのに、それが存在しないのは変ですね。
源平合戦については、壇ノ浦の戦いが「二月下旬」となっているのは変で、正しくは三月二十四日ですが、まあ、細かな話ですね。
さて、49行に及ぶ「国王兵乱」の記事には、きちんと調べたとは思えない奇妙な箇所が多々ありますが、一番変なのは、ここに挙げられている「兵乱」を全部数えても十二にならないことです。
即ち、順番に列挙すると、
(1)綏靖天皇の時代、「震旦国」が「十万八千騎ノ勢」で攻めてきたが、敗退。
(2)開化天皇が「兄ノ位ヲ打取テ、世ヲ治玉フ」
(3)仲哀天皇が「異国ノ為ニ崩御」した後、神功皇后による三韓征伐
(4)聖徳太子と物部守屋との仏教をめぐる合戦
(5)斉明天皇が「春宮打失、后奪取テ位ヲ、治玉フ」
(6)文武天皇が「極テ心悪ク、腹カラ舎弟ノ王胤共ヲ打失」
(7)「聖武天皇ト弟ノ親王ト合戦」
(8)保元の乱
(9)源平合戦
ということで、九回だけです。
(3)の仲哀天皇が「異国ノ為ニ崩御」したことと神功皇后による三韓征伐を無理やり二つに分け、更に平治の乱が何らかの理由で欠落したとしても十一回になるだけで、十二ではありません。
これはいったいどういうことなのか。
慈光寺本の作者はやたらと数字を列挙する癖がありますが、実は数えることが苦手だったのか。
それとも単にそそっかしい性格だったのか。