私も今月二日に田渕句美子氏の『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)を読んで、三浦光村室が藤原能茂の娘であることに気付くまでは三浦氏に何の興味もなく、付け焼刃で基礎知識をかき集めているところですが、三浦氏研究の第一人者・高橋秀樹氏の見解は基本的には正しそうですね。
高橋秀樹氏「大吉文庫」
http://daikichibunko.a.la9.jp/
『北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)の前回紹介した部分の直前で、高橋氏は、
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こうして『吾妻鏡』の記事を分析すると、安達氏が主導して三浦氏を討とうとしたという話は虚構であり、時頼と泰村との間では、最後まで和平交渉が重ねられていたが、和平を望む泰村の意に反して、三浦一族内の好戦派勢力に引きずられる形で挙兵に至ったというのが実像であろう。
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と書かれていますが(p178)、「三浦一族内の好戦派勢力」の中心は言うまでもなく光村です。
『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月七日条には、頼朝法華堂の天井に隠れていたという承仕法師の証言が記録されていますが、「万事有骨張之気」があった光村が「禅定殿下(九条道家)のご命令に従って計画を実行していれば権力を握れたのに、優柔不断な兄のために一族滅亡となってしまい、悔やんでも悔やみきれない」と兄を強く非難するところまでは理解できても、その後、刀で自分の顔面を削り、顔が分かるかどうかを人々に尋ねた、というところで、光村の余りの激しさにちょっと引いてしまいます。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-06.htm
『吾妻鏡』には、この顔面エピソードの直前に「泰村・光村等令執権柄者、以氏族兮飽極官職可掌領所々」(泰村・光村が権力を握れば一族の官職も所領も思いのままだ)みたいなことも書かれていますが、少なくとも光村の激しさには、そうした私益追求という合理的判断とは次元が異なる何かがあるように感じられます。
この顔面エピソードと、戦闘に向かう光村が妻の藤原能茂娘と小袖を交換したという『吾妻鏡』六月十四日条の小袖エピソードに加え、能茂が慈光寺本の作者であった可能性を考慮すると、私は光村が「正義の人」だったのではないかと想像します。
即ち、北条氏が後鳥羽院の帰洛の希望を最後まで峻拒したため、後鳥羽院の遺骨を抱えて隠岐から戻ることとなった能茂は北条氏を深く恨み、慈光寺本によって承久の乱の「真相」を娘婿の光村に伝えつつ、本来あるべきであった三浦氏と北条氏との「正しい」関係、本来あるべきであった三浦氏と朝廷との「正しい」関係を示唆し、光村に北条氏打倒を期待したのではないか。
そして、光村と能茂娘は単に愛情で結ばれただけの夫婦関係ではなく、「正しい」歴史観に基づく「正義」を共有する思想的「同志」であったのではないか。
そして、光村が「正しい」歴史観に基づく「正義の人」であった以上、光村とその影響を受けた「正義の人々」にとって北条氏との妥協はありえず、最後まで自分たちの「正義」を貫き通すしかなかったのではないか。
ま、今のところ、こんな見通しを立てています。